子供と大人のあいだ

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 この写真は、風の旅人の次号(www.kazetabi.jp)で紹介する斉藤亮一さんの写真。

 私の息子は二人いて、長男は今年高校に入学。次男は小学校六年生。長男も次男も小学生時代は野球一色。年中、土日は朝から晩まで練習。平日も朝練。休日、家族で旅行に行くなんてことは、小学校に上がるまでの話。

 長男は、小学時代は野球選手になることが夢だった。しかし実力の限界を感じて、中学生になった時、箱根駅伝に出場することに夢をきりかえて長距離の練習に励み、中学卒業の時まで夢は変わらなかった。しかし、今春、高校入学後、色々なクラブ活動の体験練習に参加しているみたいで、昨日はホッケー部の練習に参加して、とても楽しかったと言う。その高校で全国大会に出場できる可能性があるのは、ホッケーなんだと言う。ほう、どうやら、箱根駅伝は無理ではないかと、そろそろ覚り始めたようだ。

 陸上競技会に参加すると、ずば抜けた走力を誇る子供は大勢いて、長男は、中学入学の時点でそのことは思い知らされていた。しかし、その現実を受け止めながら、一年間で何秒ずつ記録を伸ばしていけば高校入学時にはこうなって、高校卒業時にはこうなってと、あれこれシュミレーションをしていた。しかし、残念ながら高校入学時において、三年前に自分が予定していた記録に達成していない。だから、年々、箱根が遠ざかっていることは本人が一番わかっている。

 中学時における夏休みの研究ポートは、毎年、実際の箱根駅伝のコースを走って、地形とか心拍数とか随分専門的なレポートを書いて金賞をとった。初年度の研究レポートでは、温暖化問題など自分にリアリティのないことを背伸びして書いていたので、好きなことをやった方が研究も楽だよとアドバイスしたら、それから箱根駅伝研究一色だった。色々な選手の記録も全て頭に叩き込んでいた。

 それが突然、『ホッケー・・・」と、ぽつりと言う。

 「カーリングとか、ホッケーとか、ボブスレーとか、頑張ればオリンピック可能性あるよな」と言うと、そうなんだよという顔をしている。

 小学校6年の次男にそのことを言うと、誰から聞いたか知らないが、『夢を実現しようという強い気持ちが夢を実現する。二兎を追うものは一兎も得られない。だから僕は野球選手になることを目指す。」と偉そうに言う。

 親は、口には出せないが、オリンピックも、野球選手も無理だろうなということはわかる。息子がそこそこできても、世の中には桁外れの運動神経を誇る子供が存在していることを知っているから。

 でもまあ、そのように世の中を分け知った顔で語る大人よりも、純粋に夢を追いかけている子供時代の方が、はるかに素晴らしい。

 自分もそうだった。そして一つのことが無理だとわかると、長男のように自分を納得させ、他の何かなら可能性があるのではないかと再設定した。文学とかスポーツとか音楽とか絵とか写真とか学問とか経営とか、何か一つのことを生涯を通して打ち込むという徹底さはなく、そこが人生全体を見ると中途半端な感じが拭えないが、その時々は真剣だった。

 達成することに意義を置くのか、チャレンジすることに意義を置くのか。生命力という観点で言えば、目標を設定し、チャレンジし続けることが、アクセルを踏み続けることであり、それがないと立ち止まってしまう。

 ただ、この種の生き方は、次の目標を見つけるまでの間、放心状態に陥る。おそらく長男も、ホッケーもダメだとわかり、その次とチャレンジした後に、大きな放心状態に陥る可能性がある。

 私は、その大きな放心状態に陥った時、自分探しのため、大学を辞めて二年間、海外放浪に出てしまった。

 小学校の低学年までの子供は、その存在自体が可愛くてしかたない。しかし、そこから少しずつ親を離れていき、生意気になっていき、思春期になって反抗的な態度をとり、親は子供が小さかった頃を懐かしく思うこともあるだろう。

 でも、子供から大人になる間の揺れ動く心情や、自分のことをふりかえりながら理解して、リセットして、チャレンジしていく段階は、よくわかるところもあるし、自分が失いつつある大事なことでもあり、生身の人間として、見ていて面白いと感じるところがある。

 チャレンジは、努力してするものではなく、きっと生命体として備えている本能であり、だから子供はストレートにそれを発揮する。大人は、理屈分別によって、その本能に蓋をかぶせているだけなんだろう。