子供らしさ?

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(撮影/斎藤亮一  風の旅人 復刊第二号より) 

 子供らしいとか、子供らしくないという表現を私達は安易に使う。大人らしい振る舞いとか、そうでない振る舞いという言葉も同様だ。私達が使う”らしい”という言葉は、私達が生きている時代社会の価値観に大きな影響を受けている。無邪気でたわいない感じを子供らしいと言う時もあるだろうし、親の言うことを素直に聞いて親のお手伝いをすることを、子供らしいと言う時もあっただろう。
 また反抗期というのは、一般的に子供から大人になっていく境の時期とされているが、なんでもかんでも反発したくなる感覚が、物事に安易に妥協してしまう大人には無い子供時代に特有の感覚だったりする。
 飲酒や喫煙ができない年齢とか、選挙権とか、親の庇護を受けているかどうかとか、その人の社会的立場や法的な制限で、大人と子供の境を定義付けることは簡単だが、そうした諸々の定義をいったん取り外して、子供ならではのものを決めるとしたら、一体何になるだろう。
 私は、それは、”時間感覚の長さ”、”記憶の深さ”ではないかと思う。
 私達は体験的に、小学校の6年間の長さと、年を重ねた後の6年間の長さがまったく異なっていることを知っている。小学生や中学生の頃なら、一年ごと、一学期ごとに思い出を詳細に整理できるが、大人になった今では、そういうことが次第に朧になる。
 大人になると、それまでの経験の蓄積で、惰性的に生きることができてしまうが、子供は、一つ一つの状況にどのように対応していくべきか、経験が無いぶん真っ白な心で向き合うことになる。
 大人からすればありきたりのことでも、子供は新鮮だったり不安だったりするだろう。心のセンサーの反応頻度が高いほど、時間は濃密になるし、記憶も深く刻まれる。
 20歳の時点で、心のスイッチをきってしまう人もいるだろうし、60歳を超えても、心のスイッチを入れ続けている人もいる。
 肉体的に、70年生きたとか80年生きたという事実と、心の時間感覚は別のものだ。惜しまれて夭折した人でも、80歳以上生きた人より濃密な人生の記憶を抱いている人もいる筈だ。
 平均寿命が長いことが素晴らしいことだと思われていたのは、助けられるはずの命を助けられなかった時代のことであり、今のような歴史上かつてない高齢社会では、数字としての年齢よりも、人生の時間密度のことを、より大切に考えなければと思う。
 失敗を怖れてチャレンジをせず、自分の限られた経験の中で物事を決めつけ、新しい物事を身につけていくことを億劫がっていると、時間はどんどん希薄になる。
 何よりも、子供には、ワクワクとかトキメキと感じられる心臓のドキドキ感を、プレッシャーやストレスだと受け止めて避けるようになると、濃密な時間も記憶も、一生得られなくなってしまう。
 人はドキドキする時、快感物質も出ている筈であり、ドキドキを避けている間に、ドキドキに伴う快感物質が出にくい体質になってしまっている可能性もある。
 一人ひとりが、少しずつでもその体質を改善していくことが、ただ単に長く生きるだけでなく、生きることが面白いと感じられる社会になるための、重要な鍵だろうな。
 
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