参院選を前に思うこと

 昨年12月の第2次安倍晋三内閣発足後、初の大型国政選挙となる第23回参院選が4日公示され、選挙区271人、比例代表162人の計433人が立候補を届け出た。投開票は7月21日。
 民主党政権の時は、なし崩し的に悪くなっていくという感じだった。安倍政権は、もしかしたら破滅的なことになるかもしれないと不安はあるものの、民主党政権よりも面白いと国民に感じさせている。閉塞感がある時には、そういう手法の方が受ける。小泉政権の時のムードと似ている。だから、今回の参院戦も圧勝する可能性がある。
 小泉政権も安倍政権も、目に見えてわかりやすい変化をつけて、それを単純な言葉で訴えるというポイントで共通している。そして、微妙でわかりにくいところは切り捨てて行くというところでも同じだろう。
 だから、今回の選挙に臨む前に、小泉政権によって日本という国がどうなっていったかを思い返すことも大事だ。
 小泉首相は、引き際が上手だった。小泉首相が行なった政策の弊害は、その後になってジワジワと社会問題化していくが、その問題への取り組みは、別の首相の責任となった。だから小泉首相は、ずっと人気者でいられた。
 小泉政権後、日本社会で露骨になっていったのは、リストラとか派遣社員の急増だろう。「善いものは善い、悪いものは悪い」というストレートな言い方には反論しずらい。しかし、その善し悪しの基準を作っているのは、常に力の強い方だ。イスラム原理主義アメリカの対立にしても、アメリカが正義でイスラムは悪。アメリカの爆撃で死んだ人の数が、テロで死んだ人の数より多くなっても、テロは卑劣で汚い悪者の仕業であり、アメリカの爆撃は正義の為に仕方が無いと正当化される。
 そのアメリカの政策にべったりと寄り添った小泉首相の、”わかりやすく善悪や敵味方を区別する政策”によって、IT長者のように稼ぐ人は際限なく稼ぎ、そうでない人は、どんどん仕事を失っていった。しかし、崖っぷちに追い込まれたところから、今までとまったく異なる生き残りの道を見つけ出した中小企業なども存在するので、政策の善し悪しは別として、どういう理由であれ時代が動くことが、新たな潮流のきっかけになるということはある。
 また、たとえば地方の祭りの衰退は、高度経済成長の時より小泉政権後に著しいのだと、国東の祭りや南九州の夜神楽を見に行った時に地元の人から聞いた。県の補助金が、祭りがテレビに取り上げられたかどうかというわかりやすいポイントで決められるようになったからだ。
 メディアに取り上げられにくい地味な祭りは衰退し、祭りの存続させる為にイベント性や娯楽性を高めた祭りは、神聖な場面にも図々しくテレビカメラが入り込み、メディアに取り上げられ人が集まるものの、心に訴える力を失くしていった。 
 自由競争という言葉は響きがいいが、競争の勝ち負けの尺度に問題がある。地方の祭りの場合、メディアへの露出が多いと勝ち組ということになり、企業経営にしても、短期的に業績があがれば勝ち組ということになる。表現者などの場合、メディア受けがよければ露出が多くなって、勝ち組であるかのように伝えられる。
 それらの尺度において欠けている視点は、長期的に見ればどうかというポイントだ。
 祭りにしても、企業にしても、表現活動においても、今この一瞬の状況で判断することよりも、10年、20年先のことを考えた時に、果たしてどういう在り方が理想なのかを考えるべきなのに、そうした考え方が、ほとんどと言っていいほど無くなってしまっている。
 「未来の地球の為に!」といった抽象的なスローガンは多くあるけれど、具体的に今行なっていることや考えることと、未来の接点が見えにくい。
 今日の政治も、企業活動と同様に一種のマーケティングに基づいている。
 短期的な視点ばかりに偏るのは、消費財マーケティングと同じ発想に陥っているからだろうし、国民の多くが、消費財を販売する企業のマーケティング活動(主に大衆メディアを利用する)の影響を受けやすい体質になっているから、そこにつけ込んでいるのだろう。
 第一次安倍政権と今の安倍さんが、まるで別人のように見えるのは、マーケティングの指導をする参謀がついたからかもしれない。
 だから安倍政権の今後の展開にしても、マーケティングの影響を受ける多くの人々の指向性が反映される。目に見えてわかりやすい結果を性急に求める気持ちが小泉政権の時よりも強ければ、リストラや派遣社員の急増という類の別のこと(曖昧なものの切り捨て)が増大するだろう。
 そして、”目に見えてわかりやすいもの”というのは大衆マスメディアと非常に相性がいい。だから大衆マスメディアは、その種の政策に便乗するし、その影響を簡単に受けてしまう人達は、ますますその傾向を強めていく。
 しかし、忘れてはならないことは、この10年という短い間でも、目に見えてわかりやすい結果に走ったものは、後に、ほとんどがダメになっていることだ。とくに家電など大衆消費財の企業は、いつの間にか弱者になっていた。そういう風潮に警戒心を抱き、長期的な視点を持って取り組んできたところは、派手なところがないためにメディアに取り上げられることも少ないが、今も着実に歩んでいるのではないだろうか。
 日本企業は、家電や車など宣伝費を莫大に使う消費財メーカーの名前ばかりが有名になっているが、それらの企業の輸出額は、対GDPで1.25%にすぎない。日本経済の輸出への依存度も対GDPで11.5%。日本は、輸出大国のように錯覚しているが、実は内需で成り立っている。
 しかも輸出の中でも家電や自動車のシェアが大きいわけでもない。日本の輸出の75%は、個人向けの消費財ではなく、企業向けの資本財や工業用原料。そういう企業活動は、ほとんど宣伝されない。アルジェリアのテロで、海外のプラントを作る日揮という会社が凄いということを初めて知った人も多い。
 一つ言えることは、個人向けに消費財を売る自動車や家電の会社は、日揮などに比べて宣伝広告費が圧倒的に大きく、メディアに影響力があるということ。だから、いかにもそういった企業が日本の牽引者で、それらの企業がピンチになると、日本は衰退すると大騒ぎになる。
 シャープが経営危機になって台湾の鴻海(ホンハイ)に救済されるという話が持ち上がるまで、シャープは洗練された優良企業で,ホンハイなんか田舎企業と思っていた人も多かっただろうが、シャープの売り上げが2兆5000億円に対し、ホンハイは10兆円。あちらの方が圧倒的に強い。
 私は、産業用冷凍庫で世界的なシェアを持つ企業のお手伝いを少しさせていただいているが、一般向けの冷蔵庫をテレビコマーシャルで売るわけではないから、ほとんどの人が、その名を知らない。しかし、世界の漁船に積まれている冷凍庫の、ほぼ全てを作っている。そういう日本企業は、けっこうある。
 日本の強みは、家電などを作る技術にあると思っているのは錯覚であり、本当は、相手の懐に入っていき、対話を重ね、相手とともに、その場にあった最善のものを作り上げる力なのだ。異なる価値観の間で、過不足無く、偏ることなく、絶妙なバランス感覚で、その場所に必要なものを製造していくトータルな知恵なのだ。
 家電や自動車などの大量生産の規格品よりも、それぞれの事情やニーズに応じて作る資本財の輸出の方が圧倒的に大きいことを、国民はもっと知る必要がある。日本の誇りを取り戻すというのは、自動車や家電の販売数ではなく、難しい局面で相手に信頼されて、その場に必要な物を作り出せる力を見直すこと。
 そうした仕事の仕方や生き方は、短期的には結果は現われにくく、長い時間の中で、評価されるものになる。
 各種の政策や外交も、本来はそういうものである筈。
 しかし、候補者の街頭演説で聞こえてくるのは、大量生産の規格品を売るためのコピーのような、今この一瞬の人気をとるための安っぽい宣伝文句ばかりで、資本財や工業用原料を取引する時のような、地味ながらも相手の立場に立った説得力のある深い言葉は、ほとんど聞かれない。