第1088回 アメリカのことが心配で怖い。

 4月17日23時現在、日本のコロナウィルス感染者は9850人で、死者は207人、感染経路が不明の人の数が増えているのが大問題、より一層の警戒が必要だというニュースで占められている。

 もちろん日本国内のことは大事だが、超大国アメリカで起こっていることにも十分に注意が必要だ。アメリカの感染者数は70万人を超え、死者は36000人。毎日のように日本の累計死者数の10倍が亡くなり続けていて、すでに医療崩壊だけでなく介護崩壊も起きている。

 アメリカは、僅かこの1ヶ月間で失業者が2000万人となり、労働人口の13%が職を失った。

 世界の経済はアメリカを中心にまわっていて、とくに日本は、アメリカがくしゃみをしたら日本は肺炎になると言われてきた。2008年のリーマンショックの時も、当初は日本は影響が少ないと言われていたのに、日本の方がアメリカよりも深刻な不況に陥った。

 アメリカは、これまで自国が窮地に陥った時、強引すぎる方法で立て直しを計ってきた。その時々、日本への要求も凄まじいものがあり、なぜか日本の政治家でアメリカに抵抗した人は、すぐにスキャンダルに巻き込まれてポジションを失った。

 たとえば1980年代のアメリカは、巨額の貿易赤字と巨額の財政赤字、すなわち双子の赤字で経済はどん底だった。その状況のなか、まずは1985年、日本の輸出力を弱めるために円高ドル安に誘導するプラザ合意が行われた。しかし日本企業がすばやく対応し、海外への工場移転などで依然として高い競争力を維持したため、アメリカは次の手を打った。

 まず、1989年、アメリカは、日本をスーパー301条の不公正貿易国と特定し、制裁をちらつかせながら改善を迫った。日本の衛星、スーパーコンピューター、林産物などが特定されたが、その時、マイクロソフトのウィンドウズよりも優れたOSソフトだったといわれるトロンが制裁候補となって普及を阻止され、その後、コンピューターソフトのディファクトスタンダード(事実上の世界標準)はアメリカが独占するようになった話は、よく知られている。

 これに続いたアメリカの圧力が1989年の日米構造協議だ。これは、200項目を超えるアメリカから日本への要求であり、日本国内の商習慣や流通構造も含めた社会構造の変化を求めるものだった。それはまさに植民地政策のような内政干渉だが、日本はその要求を受け入れざるを得なかった。

 1989年、前年に発覚したリクルート事件において竹下首相の関連が浮かび、4月25日に内閣総辞職を表明。翌26日、竹下首相の秘書が自殺した。その後を継いだのが、党三役の経験もなく知名度の低い宇野首相。その宇野内閣とアメリカのあいだで結ばれたのが日米構造協議だった。しかし宇野首相は女性問題などもあって退陣。たった69日だけ日本の最高権力者となった宇野首相は、日米構造協議のためだけに表舞台に立つという不可思議なことが起きた。

 日米構造協議の主な要求は、第一に国内の投資資金を輸出産業ではなく公共事業にまわせといういうこと。この取り決めで、毎年、GNPの10%を公共事業に配分することになった。宇野首相の後を受けた海部内閣は、これに応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定した。

 その結果、庁舎・学校・公民館・博物館・テーマパークなどの無駄な公共施設が全国に乱立するようになった。

 そして、この時期、日本の政権運営はかつてなかった混迷を極め、宇野、海部、宮澤と短命の政権が続いた後、1993年に細川内閣の連立政権が発足し、自民党は初めて下野することになった。しかし、細川首相への佐川急便グループからの借入金問題など疑惑が持ち上がり、細川内閣は一年も持たずに総辞職。引き続き連立政権(社会党は抜ける)の羽田内閣が発足したが64日の歴代最短の短命で退陣。そして1994年には、なんと自民党社会党が連立を組むという村山内閣が誕生した。

 社会党の党首が初めて首相になったこの時に、日米構造協議で決めた10年間で総額430兆円という金額が見直され、さらに200兆が追加されたのだ。

 自民党社会党が連立を組む政権は、次の橋本内閣が終わる1998年まで続いたが、

政党としてのポリシーを失った社会党は国民の信頼を得られなくなり、その後、完全に存在感を失くしてしまった。

 社会党の村山首相の時、今も人々の記憶に残る二つの事件が起こる。1995年1月の阪神大震災と、3月の地下鉄サリン事件だ。

 日本の巨額な財政赤字は、高齢化による社会保障費が原因だと繰り返し言われている。

 しかし、歴史を振り返ると実際はそうではなく、1989年にアメリカから日本が押し付けられた日米構造協議が大きな転換点になっていることがわかる。

 日本は、1988年から数年間にわたって歳入が歳出を上回り、それまでに抱えていた財政赤字を減らし続け、100兆円を切るまでになっていたのだ。

 しかし日米構造協議によって、そこから急激に公共事業が増える。1991年からの10年間で600兆円も増えており、その時に抱え込んだ財政赤字の利息が、その後の財政負担となり、毎年の財政赤字を増やし続けるという悪循環を生んでいる。

 具体的には、現在、100兆円の歳出のうち、24兆円が国債の返却と利息(9兆円弱)で、これを支払うために新規の国債の発行という状態になっている。文化教育、科学振興の予算が5.6兆円だから、借金の利息の方が、この金額よりもはるかに大きいのだ。

 そして、この公共事業の桁外れの膨張によって、日本における文化も、箱物行政に癒着したものになった。日本各地に有名建築家のデザインしたモダン!?な美術館が次々と建てられ、アートフェスティバルという、どこもかしこも似たような興行が繰り返し行われた。地域に残っていた伝統的な文化を守ることよりも、海外で注目を浴びているという奇抜なだけのコレクションが美術館に集められて展示され、購入させられることにもなった。お金の流れに通じた大手広告代理店が使い回す企画書とプレゼンによる文化アート興行は、地域性などを無視してディズニーランド的な集客効果を期待するものとなり、大手広告代理店とメディアがタッグを組んで、これがアートの新しい流れであると喧伝した。

 私は、日本の色々な地域を訪れた時、伝統的な祭祀などが衰えていったのは戦後の高度経済成長の時だと思っていたのだが実際は、高度経済成長当時はまだ何とか継続できていて、1990年以降に急激にダメになったという話を聞いた。

 たとえば伝統的祭りに対しても、動員力といった数字で表されるものに対してのみ予算の優先順位がつけられるようになったために、行政からの予算を確保するために、人々の集まる場を大きく綺麗なものにし、テレビ映りがよくなるように伝統的な衣装や仮面までを新調したりするところが出てきた。神聖なる行事のために人々の立ち入りを制限するようなものは、支援を受けることができず衰退せざるを得なかった。

 1989年の日米構造協議の結果、日本は、アメリカの要求に従って莫大な借金を積み重ねながら自国の文化を破壊していったのだ。

 さらに1989年の日米構造協議によって変貌させられたのは駅前商店街だ。日本のきめ細かな商習慣に阻まれて参入しずらいアメリカ企業のために、大店法規制緩和が行われた。同時に、土地税制の見直しが迫られ農地への税率が上がり、地主が土地を手放すことを促進した。結果的に郊外に駐車場を備えた大型ショッピングセンターが次々に出来て地方都市中心部の商店街は寂れた。日本の地方の風景は、その時ガラリと変わったのだ。風景だけでなく、文化の質も変わった。

 アメリカが怖いのは、その巨大な影響力を駆使して、自国の危機を回避するために、国際秩序すら大きく変えてしまうところにある。 

 アメリカは、国内が不安定になると、必ず、戦争を引き起こしてきた。

 1980年代の双子の赤字を消すための最終章が、1990年からの湾岸戦争だった。

 この戦争のきっかけは、イラクによるクウェートへの侵攻だが、その前に、イラクアメリカに追い詰められていた。

 アメリカは、8年間に及ぶイラン・イラク戦争イラクを支援しながら、イラクが戦時債務を返済できないことから農産物の輸出を制限し、食料をアメリカに頼っていたイラクは困窮した。さらにアメリカは工業部品などの輸出も拒み、石油採掘やその輸送系統においてもフセイン大統領は追い詰められた。そのうえ、イラク経済の拠り所である石油に関しては、サウジアラビアアラブ首長国連邦クウェートOPECの割り当てを超えた石油増産を行って石油価格が暴落した。

 追い詰められたイラクが8月2日にクウェートに侵攻すると、アメリカは、その5日後に、サウジアラビアイラクに侵攻される可能性があると主張して、サウジアラビアへの派遣を決定。アメリカは、国連軍ではなく、有志を募るという形の多国籍軍を結成し、延べ50万人でサウジアラビアイラククウェート国境付近に進駐を開始した。

 アメリカは、事前に計画されていたのかと思うほど、素早い動きだった。

 そして、1990年代に自動車産業に代わってアメリカ経済を牽引していたIT産業に翳りが見え始め、ITバブル崩壊の時、2001年のアメリカ合衆国テロのその後に続くアフガニスタン侵攻があった。それまで失業率も増え、景気が悪化していたアメリカは、この戦争によって一つにまとまった。そして、テロの被害を受けた町の復興支出や、アフガニスタン紛争の戦費増大により、景気を回復させたのだ。そのエンジンの一つが住宅需要の拡大だったが、低所得者向けのサブプライムローンが焦げ付き、住宅バブルは崩壊し、2008年にリーマンショックが起こった。

 リーマンショック後、2010年までの間に、米国では870万人の雇用が失われた。

 日本は、リーマンショックを引き起こしたサブプライムローン関連債権などにあまり手を出していなかったため、当初は直接的な影響はあまりないと考えられていたけれど、全世界的な金融不安のなか日本の経済も落ち込み、立ち直りも遅れることになった。

 とりわけ事態を深刻化させたのが、1ドル79円という超円高の状態になったことだ。リーマンショック金融危機を回避するため、アメリカを筆頭に欧米諸国が量的緩和政策を行い、大量のマネーを供給した。しかし、その時、日本だけがそれをやらなかった(何かしらの理由でできなかったのか?)。そのため、日本円の流通量は他の通貨に比べて相対的に少なくなるわけで、円高にならざるを得ない。

 この超円高のため、当時、急激に経済大国になりつつあった中国の台頭と合わせて日本企業の国際競争力は著しく低下。企業は、多くの国内製造工場を閉鎖して、生産拠点を海外に移転し、大量の派遣切りが生じた。派遣村などが話題になったが、2009年以降から20代〜30代の若年層による生活保護の申請が急増した。

 リーマンショックの時も、1989年の日米構造会議のように、日本の産業構造が変わったのだ。

 そして、日本で東北大震災があった2011年の同じ時期にリビア内戦が起こり、3月19日に米英仏を軸とした多国籍軍リビア空爆アメリカは、核弾頭の搭載可能なトマホークミサイルを220発打ち込んだ。世界の目が日本の原発事故に注がれている時だった。

 そして、2014年8月8日からは、アメリカ軍がイスラム過激派組織ISに対して攻撃を加え始めたが、もともとイスラム過激派組織ISは、シリア国内でアサド政権を打倒するためにテロ攻撃を繰り返していたヌスラ戦線で、ヌスラ戦線は、サウジアラビアカタールクウェートなど湾岸諸国から資金援助を受けるとともに、アメリカからも武器の提供を受けていることを明かしていた。

 2010年代、世界最大の問題児としてその恐怖が喧伝されていたイスラム過激派組織を育てるうえでも、アメリカは関与していた。

 こうしてアメリカは100年に一度の不況、約80年前の世界恐慌以来の金融危機と言われたリーマンショックから立ち直り、2019年、アメリカの株価は史上最高値となった。しかし、失業率が低下して消費も堅調で、株価の上昇が資産効果を生み出しているように見えていたのに、トランプ大統領をはじめ、世界各国で保護主義を唱えるリーダーが人気を集める事態となっていた。 

 この保護主義化の現象は80年前も同じだった。1929年のウォール街の恐慌を切り抜けた後、1932年頃から植民地を持つ列強が中心となって関税同盟を結び、日本など第三国に対して関税障壁を張りめぐらせるというブロック経済を行い、ドイツや日本は追い詰められていった。そして奇しくも2020年と同じく東京オリンピックが開かれることになっていた1940年に第二次世界大戦が勃発する。

 1929年のウォール街恐慌、2008年のリーマンショックからの流れは、とても似ている。

  現在、世界中を大混乱に陥れている新型コロナウィルスの問題は、感染のことに注意を払わなければいけないのは当然だが、日本国内のことだけでなく、この危機を切り抜けるために各国がどのような手を打つのかということにも注意していなければならない。

 アメリカで起こっていることは、対岸の火事ですまない。

 

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