第1087回 パンデミックと不条理と、もののあはれ

 

 

 新型コロナウィルスによって、世界中がこれまでにない事態に直面しているが、この問題に関して、海外の知の巨人と言われる人たちが意見を述べている。

 これは危機的な状況であるが、人類の次なるステージへの準備段階でもある。実際に、テレワークをはじめ様々な場面で社会的実験が行われ、より”合理的な仕組み”が整えられつつある。また、産業がストップしたことで大気汚染をはじめ、環境問題も劇的に変化している。

 知の巨人でなくても、そのあたりまでは普通にわかることだが、問題は私たち一人ひとりの内面がどのように変わることができるかだ。2011年3月、現世代がそれまで体験したことのない深刻な天災と人災が同時に起こったにも関わらず、日本は、アベノミクスという掛け声のいかがわしい金融経済政策によって、むしろ内面は、貧しくなったように感じられた。相も変わらずテレビでは大食い番組が流れ、政治的な問題が発生すると、芸能人の麻薬や離婚などゴシップで騒ぎ立てる。

 このたびのパンデミック現象を、14世紀頃のヨーロッパのペストと結びつけて語る論者もいる。当時、ヨーロッパではペストによって人口の半分以上が亡くなった。しかし、そこからルネッサンス、人間復興が起こった。

 しかし、現代の状況と当時を結びつけるのは間違っている。 

 14世紀までのヨーロッパ世界は、しだいにカトリック教会の矛盾が大きくなっていたものの宗教の影響が強く神頼みの世界だった。しかしペストによる壊滅的な被害で、神頼みの神通力はなくなった。教会が金儲けのために発行する免罪符などペストの前に完全に無力だった。

 そのため人間は、そうした災いに対して、神に頼るのではなく、人間自身の力で克服する道を歩み始めた。宗教戦争による荒廃がその運動を加速させた。最後の宗教戦争とされるドイツ30年戦争に志願して絶望したデカルトは「我考える、ゆえに我あり」と覚った。災害や病は人間が自らの頭で考えて打ち負かす対象となったのであり、ルネッサンスの人間復興というのは人間の神からの自立と言っていいだろう。その結果が、聖書の中で描かれるように、ノアの洪水を生き残った人たちによるバビロンの塔の時代となる。人間は、神の存在を無視し、天にも届かんばかりの塔を建設し、神の怒りを買う。

 それはまさに近代社会と同じである。

 現在のパンデミックは、ルネッサンスの前のペストよりも20世紀の文学者カミュが描いた「ペスト」の不条理の世界の方が相応しい。

 人間は、「ペスト」の前に様々な対応を試みるが、ウィルスは人間が想定している次元を超えた存在であり、人間世界に大きく関わったかと思うと、人間の努力とは関係なく去っていく。そして人間が忘れて油断すると、また突然やってくるだろう。人間は、自分たちの努力でなんとかなると考え、その対策のために滑稽に見えることも繰り返すが、人間の努力は世界の本質からすれば無意味である。カミュは、そうした不条理の世界を描いている。

 現在、このパンデミックの状況のなかでも、欧米の知の巨人は、意味を求め、意味を説き、夢を共有しようと語りかける。

 人類という種が意味を求める生物だから、知の巨人とされる人たちの言葉は、多くの人の共感が得られることが計算できることであり、だからこそ知の巨人のブランディングとなる。 

 そういう状況のなか、カミュの「ペスト」が爆発的に売れているというのは興味深い。

 しかし、欧米人であるカミュのインスピレーションに頼らなくても、日本人は、古来より、人間界と自然界のあいだに横たわる、人間の側からすると不条理、自然界の側からすると単なる不整合の事態を、カミュのように冷徹に突き放すだけでなく、一歩踏み込んで洗練させて受け止める作法を備えていた。

 それが、”もののあはれ”である。

 日本人は、天災や生老病死など人間の都合とは関係なく生じる自然の営みに対して抵抗するのではなく、かといって投げやりになるのではなく、その定めとの付き合い方に人生の奥行きや趣を求めていたのだ。

 日本人は、古来から台風や地震などの天災だけでなく、繰り返し疫病にも苦しめられてきた。もしかしたら、渡来人が来日して新しい技術をもたらすたびに新しいウィルスも持ち込まれていた可能性もある。だからかどうか、国内の勢力のバランスが崩れ、変化する時、災いが起きていることが多い。

 894年に菅原道眞による進言で遣唐使が廃止されるが、その前、京都では疫病の大流行(859〜877)があり、多くの死人が出ている。同じ時期に、富士山の大爆発や、大地震、大津波もあった。貴族から武士の時代への移行は、その頃より起きている。

 日本書紀の中では、第10代崇神天皇が即位してまもなく、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になり、その原因は、アマテラス大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)をヤマトの宮中に祀っていることだと考えられ、その存在を怖れた崇神天皇の命によって、両神に相応しい場所へと遷すことが実行され、最終的に、アマテラスは伊勢の地に落ち着いた。元伊勢巡行である。

 記紀によれば、さらに疫病が続き人口の大半が失われ、疫病の原因がオオモノヌシの祟りであると判明し、三輪山でこの神を祀ることにしたと記されている。オオモノヌシは、神話の中で国譲りを迫られた大国主の別名(和魂)である。

 日本の歴史の中では、天災や疫病が起こると、それは恨みを残して死んでいった者の祟りであるという考えが伝えられ、その怨霊に敬意をはらい、その魂を鎮めれば、守り神に転ずるという発想があった。

 奈良時代、権謀術数によって権力を握った藤原四兄弟藤原不比等の子供たち)が次々と天然痘で亡くなった時は、長屋王の祟りだと怖れられた。

 平安時代初期、桓武天皇の周辺で流行病で次々と人々が亡くなった時も、桓武天皇が即位するために犠牲になった井上内親王や、長岡京の変で無実の罪を着せられた早良親王の祟りだと怖れられた。

 そして、10世紀、菅原道眞の政敵だった藤原時平たちが病で次々と亡くなった時は道眞の祟りとされた。

 日本で国風文化が華開くのは遣唐使の廃止以降であるが、それは、歴史上最大の貞観の富士山の大爆発(864-866)や貞観の大地震、859〜877と長期にわたった疫病の大流行の後でもあり、国風文化を通して、人間にとっての不条理が、”もののあはれ”の美へと昇華していくことにもなった。

 日本文化の特徴は、不条理さえも人間に都合よく意味付ける欧米ブルジョワ層の啓蒙文化と違い、不条理は不条理のまま、無意味なものは無意味のまま受け入れて、その人間と自然の不整合な間合いや、不条理に対する人間の作法を、美へと転換させてきたことなのだ。

 もちろん人間は、危機に際して、頑張って乗り切るための意味を必要とする。その意味のおかげで、ふだんよりも何倍もの力を発揮できることがある。受験に失敗することは人生の失敗につながると不安や恐れを植えつけられて、受験生は努力させられる。

 そして人間は、その意味あることの達成を、自分の自信にする。世間が認める意味あることを実践できている人は、態度に自信が現れている。そうした意味を求めた精神の運動が、西欧社会が掲げてきた人間の進化だった。しかし、その合理的な考えに基づく進化は、自分が世界の中心であると錯覚する驕りにもつながりやすい。

 それに対して、祟りを怖れるという感覚は、合理主義者からすれば迷信的だと片付けられてしまうかもしれない。しかし、畏怖には、傲慢になりがちな人間の心構えを修正する力がある。

 子供の躾においても、「そんなことすれば罰が当たる」という感覚を教えることは、とても大切なことではないか。

 そうした意味不明の内容ではなく、「そんなことしてたら、いい学校に入れないよ」とか、「近所の人に笑われるよ」、「先生に叱れるよ」といった具体的な意味があった方がわかりやすいと思う人がいるかもしれないが、それらの功利的なシミュレーションは相対的なものであり、学校や近所や先生の基準が変われば、やっていいことと悪いことの基準も変わってしまう。

 しかし、「罰があたるよ」という時の畏れの基準は、人間世界の相対性を超えた絶対的な神様のところにある。

 コロナウィルスの災難に耐えて新しい社会を築こうという呼びかけは立派なことだが、何を基準にした社会にすべきかを考えることは、もっと大切だ。

 テレワークで仕事や学習が便利になり、自分で自由に使える時間が増えるといったことだけでは、ただ退屈な時間が伸びるだけで、その時間が消費や娯楽にまわされたところで、世の中がパンデミック以前よりもマシになるとは思えない。

 現在は、ルネッサンスの時のように、神に頼らないで生きる時代の幕開けが必要なわけではない。

 むしろ、その逆で、「そんなことをすれば罰があたるよ」という意識が当たり前のように通用する社会が望ましい。

 自分の罪を隠すために大切な文章を処分したり、黒塗りで消したり、子供にもわかる詭弁でごまかしたりすることの恥を恥とも思わない人たちが、この国のトップやエリートとされる人たちのなかにたくさん存在しているのだ。

 テレワークによる能率的な社会よりも、情報操作などによって、あらゆるところで虚がまかりとおっている世の中が変わることの方が望ましい。

 今、必要なことは、人間復興ではなく、自分が行っていること、自分が存在することの恐れ多さの感覚を取り戻すこと。

  「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる  西行

  西行が詠むように、みずからの存在を、”かたじけない”と感じる瞬間というのは、自分がそこに存在していることの申し訳なさや恐れ多さと、有りがたさの両方が混ざり合っている。 

 生きることの有り難みは、恐れ多さによって裏打ちされているのであり、決して、不便も悩みもない状態ということではない。

 

 

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