そして、”いかるが”というのは、法隆寺ができる以前から、この地域の呼び名であった。
”いかるが”という地名は、近畿圏には、6箇所ほどある。
斑鳩と表記されるため、鳥類の鳩との関係で説明する専門家もおられるようだが、斑鳩という文字は後からつけられたものなので、鳥のこととは別に、”いかるが”が何を意味するのかを探ってみたい。
近畿圏に6箇所ある”いかるが”の地に共通しているのは河川である。
奈良の法隆寺の斑鳩は大和川、京都の綾部は由良川、兵庫県の鶴林寺は加古川、兵庫県西部の太子町は揖保川。四日市の伊賀留我神社が鎮座する地域は米洗川、そして大阪府交野の磐船神社は天野川である。
”いかる”という発音は、”怒る”に通じるところがある。感情が激しく溢れる状況であり、水が激しく溢れる状況でもある。全国的にも、洪水のことをイカリミズと捉えるところは多く残っている。
”いかるが”が洪水と何かしらの関係がある場所だとしても、河川の多い日本には他にも同様の地域がたくさんあるので、なぜ、特定の場所を、”いかるが”と呼んだかを考える必要がある。
そのためには、6箇所の”いかるが”における他の共通点を探ってみたい。
まず、6箇所の”いかるが”は、畿内の中心部と、それ以外の地域を結ぶ交通の要衝であることだ
日本書紀などによると、ニギハヤヒ神は高天原から「天の磐船」に乗って、河内国河上哮ケ峯(いかるが峯)に降臨した。いかるが峯は、大阪府の東北部、交野市私市(かたのしきさいち)の磐船神社とされている。
ここには、「天の磐船」といわれる高さ12メートル、幅12メートルある船の形をした巨大な磐座がある。
磐船神社が鎮座する場所は、生駒山系の北端で河内と大和の境に位置し、境内を流れる天野川は、10キロほどくだって淀川に注ぎ込む。この天野川にそって「磐船街道」があり、現在の淀川沿岸の枚方と奈良の斑鳩地方をむすんでいる。
古代、大陸から大阪湾の到着した人々は、淀川と天野川と磐船街道を通って大和の地に入ったと考えられている。
この交野のいかるがの地の真南に16kmほど行ったところ、大和川の流域が奈良の斑鳩であり、ここがヤマト世界への入り口となる。大和川は、古代、ヤマトの三輪山周辺地域から奈良盆地を抜け、応神天皇陵など巨大古墳群が存在する藤井寺あたりから北上して、淀川の渡辺津(大阪城のあるところ)をつないでいた。
そして、四日市の伊賀留我神社が鎮座するところは、東国に遠征したヤマトタケルが帰途に立ち寄ったり、壬申の乱の時に天武天皇が兵を集めたところだが、ここは、畿内の中心部と東国を結ぶ交通の要衝だった。
また、鶴林寺のある加古川の”いかるが”は、古代の主要な交通路である加古川から、北部の由良川を通じて、日本海側と瀬戸内海を結ぶところだった。
さらに、加古川の西の揖保郡太子町の”いかるが”は、揖保川の下流であり、揖保川にそって出雲方面へとつながる道がつながっていた。なかでも因幡街道は、瀬戸内海と日本海を結ぶ物流の道であり、そのことは風土記にも記されている。
最後に、京都府の綾部の”いかるが”は、由良川の流域であり、由良川は、日本海側の丹後と丹波を結ぶ交通の要衝であるとともに、氷上あたりから加古川に乗り換えれば、瀬戸内海まで移動することができた。
このように見ていくと、6つのいかるがは、時に洪水を起こす”怒り水”の地であるとともに、重要な交通の要でもあるので、古代から、豪族が奪い合うような土地だったろう。また、加古川、由良川、揖保川、大和川、天の川は、大陸の人や文化を運ぶ道でもあったので、これらの河川沿いに渡来人が住み着いた可能性もある。
いずれにしろ、ヤマト王権にすれば、河川の管理も含めて、しっかりと治める必要がある場所だった。
さらに、この6つの”いかるが”の地域をもう少し探っていくと、物部氏との関連が深いことがわかる。
交野のいかるがの磐船神社に降臨したニギハヤヒは、物部氏の祖神とされている。
古代から磐船神社の祭祀は、肩野物部氏(もののべし)によって行なわれていた。この一族は現在の交野市及び枚方市一帯を開発経営しており、交野市森で発見された「森古墳群」の3世紀末~4世紀の前方後円墳群はこの一族の墳墓と考えられている。またニギハヤヒの六世の孫で崇神朝における重臣であった伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の住居が現在の枚方市伊加賀町あたりにあったと伝承されている。
そして、ここから生駒の地を越えて真南に17kmほどのところ、聖徳太子が法隆寺を築いた斑鳩の地は、蘇我氏に物部守屋が滅ぼされた後、聖徳太子が移り住んだとされるが、もともとは、物部氏の拠点だった。
また、京都の綾部のいかるがには物部町があるが、ここは古代から物部郷であり、須波伎部神社が鎮座する。スハキとは、古代に掃部と称された農民で、 物部氏の部民として、清掃具や設営具などを納めていた者達と考えられている。
この神社の東方の丘陵地には知坂(7基)・多和田(5基)・石塚(38基)の古墳群がある。また上市の岫山(くきやま)一号墳は前方後円墳(47.4m)、三号墳(前方後円墳・35m)でほぼ完形であり、ヤマト王権とのつながりが確認できる。
加古川の”いかるが”の場合、鶴林寺の西北4kmのところに仁徳天皇陵の石室などにも用いられた竜山石の産地があるが、この場所に、巨大な岩そのものを御神体とする生石神社があり、播磨風土記において、弓削大連(物部守屋)の造ったものと記されている。
四日市の”いかるが”においては、伊賀留我神社の北5kmのところを流れている員弁川は摂津の猪名部川沿いに住んでいた木工技術を持つ渡来系の人々が移住したところであり、その猪名部氏の祖が、物部氏の伊香我色男命ということになっている。
『日本書紀』巻第十の応神天皇紀では、武庫の水門に諸国から500船が集った時、新羅船の失火が引火したことが原因で多くの船が焼失してしまったため、それを申し訳なく思った新羅の国王が、償いの気持ちで優れた工匠を奉った。この人たちが猪名部川の流域に住んでいた。その後、雄略天皇の時に、猪名部の人たちは物部氏の管理下となり、木工技術をもって朝廷につかえることになったと説明されている。
最後が、西播磨の”いかるが”であるが、太子町の西北5kmのところに名神大社で播磨三大社の一つ、粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)が鎮座し、その西北2kmほどのところに井関三神社が鎮座している。この二つの神社は、ともに祭神が、天火明命(あめのほあかりのみこと)である。
天火明命(あめのほあかりのみこと)は、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の別名で、交野の”いかるが”の磐船神社に降臨した神の名は、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と、二つの名が合体したものになっている。
この天火明命を祀る揖保川沿いの粒坐天照神社一帯は、古代、伊福部氏が勢力を誇っていた。
粒坐天照神社の縁起では、推古天皇の時代、伊福部連駁田彦(イフクベノムラジ フジタヒコ)の前に、童子の姿となって顕れたアメノホアカリ神が、稲穂を授け、これを耕作すれば里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えゆくであろうと告げて昇天したとある。
また、播磨風土記によれば、粒坐天照神社の一帯は、ここを拠点にしていた葦原志挙乎命(アシハラシコオ)=オオクニヌシと、後からやってきた渡来系の天日槍の土地争いの場所として記述されている。
伊福部のイフクとは、風を吹く意味の“息吹き”(イブキ)で、谷川健一氏は、「タタラまたはフイゴをもって強い風を炉におくるありさまを示したものである。伊福部氏が産銅もしくは産鉄に関係をもつ氏族であることは、これによって推測される」と説明し、伊福部氏は、フイゴを用いての金属精錬(タタラ製銅・製鉄)に携わった古代氏族としている。(青銅の神の足跡・1989)。
この伊福部氏は、桓武天皇の時代に編纂された『因幡国伊福部臣古志』によると、物部氏の祖である伊香色雄の息子、武牟口命を祖先としている。
伊香色雄は、ニギハヤヒ(アメノホアカリ)の6世孫とされているので、揖保川下流域を拠点にしていた伊福部氏もまた、ニギハヤヒ(アメノホアカリ)の子孫に位置付けられ、粒坐天照神社において祖神を祀ったことになる。もしくは、物部氏と同じ祖神を崇敬することで、物部氏の一員として自らを組み込んだことになる。
伊福部氏は、5世紀中旬の雄略天皇の時代から名前が登場しており、因幡国(鳥取)の伴造として記録が残っている。古代から、因幡と播磨は因幡街道で結ばれ、瀬戸内海と日本海を結ぶ物流の道であり、そのことは風土記にも記されている。
さらに、揖保川から市川あたりは播磨平野の穀倉地帯であり、早くから古墳が築かれ、横穴式石室もされており、風土記では、大和や渡来人との関係を裏付ける説話も多い。
このように見ていくと、6つのイカルガの地域は、物部氏と非常に関わりが深い。交野と奈良のイカルガは物部氏自身の拠点であり、京都の綾部、西播磨、四日市の3箇所は、物部氏が管理する氏族であったり、物部氏に組み込まれた勢力の拠点である。
交野のいかるが、四日市のいかるが、西播磨のいかるがに名前が登場する物部氏の伊香色雄は、記紀によれば、第10代崇神天皇の時に登場する。
古事記において、第10代崇神天皇の治世において疫病が流行した時、天皇の夢枕に現れた大物主神が、意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。
その神託にしたがって、崇神天皇は、意富多々泥古を探し出して神主として三輪山に大物主神を祭らせ、伊香色雄に、天八十(あめのやそびらか=平らな土器)を作って天神地祇を定め奉るように命じた。
また、日本書紀では、大物主の祟りの疫病があった時に、伊香色雄をして、神班物者(かみのものあかつひと=神に捧げる物を分かつ人)にせむと卜(うらな)ふと、吉と出たと記述がある。
また、大和政権の武器庫の役割を果たしていたと考えられている天理市の石上神宮の社伝によれば、武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた布都御魂剣は、神武天皇の東征で熊野において天皇が危機に陥った時に、高倉下を通して天皇の元に渡り、天皇は窮地を切り抜けることができた。その後、物部氏の祖、宇摩志麻治命(うましまぢのみこと)により宮中で祀られていたが、崇神天皇の時、勅命により物部氏の伊香色雄命が石上神宮に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建であるとされる。
これらの記録から、伊香色雄は、布都御魂剣や、大物主の祟りの鎮魂に関係している。つまり、神武天皇による日本統一と、国譲りと関係している。これはどういうことかと考えると、伊香色雄命は、オオクニヌシに要求する国譲りや神武天皇の東征など、新旧勢力の間で生じた軋轢を鎮める役割と関係ある人物なのではないか。
そうすると、物部氏というのは、ヤマト王権の前に抵抗する勢力を武力によって制圧するだけでなく、彼らが禍を起こさないよう”いかり”を鎮め、御霊会で祟り神を守り神に転換するように、彼らの力を、ヤマト王権のために活かす術を備えていた氏族ではないかと想像できる。
物部氏は、ヤマト王権に簡単に従わない人々を制圧した後、彼らの神を象徴する神具や神宝を奪い、石上神宮に集めて、祟り神とならないよう鎮魂の呪術を行った。さらに被征服者たちの祭祀をヤマト王権が吸収統合していくことで、彼らをヤマト王権のシステムの中に組み込んでいった。
飛鳥時代の物部氏と蘇我氏とのあいだの仏教をめぐる争いは、物部氏がになっていた祭祀の意味合いが、蘇我氏が支援する仏教の教義によって無化されてしまう可能性があったからかもしれない。蘇我氏は、物部氏とはまったく異なる方法で渡来人を管理し、その力を国政に活かそうとした。蘇我氏は、文人(ふみひと)や東漢氏(やまとあやうじ)など、官僚組織や軍部の中枢に渡来人を位置付けており、仏教は、渡来系の人々の宗教でもあった。当時、政治の中心地である飛鳥の道を歩く人の大半は渡来人だったそうで、もはや渡来人の力なくして国を治めることが難しい状況だったのだ。
そうした時代変化が起こる前、物部氏が武力と祭祀の力のよって王権を支えていた。物部氏は、そうした地方勢力の鎮圧において力を発揮した。第26代継体天皇の時の古代最大の内乱とされる磐井の乱(528年)を鎮めたのも、物部氏の物部麁鹿火(もののべあらかび)である。
そして、 ”いかるが”の地は、古代から重要な場所であったがゆえに、ヤマト王権の前にその地を基盤にしていた人々も、先進の知識と技術を備え、戦闘力も強かった可能性がある。つまり、”いかり”が激しく、後の時代に”鬼退治”や”国譲り”の争いと語り継がれているものの、そう簡単に治められるような相手ではなかった可能性が高い。
京都綾部のいかるがは、第10代崇神天皇の時、日子坐王による鬼退治の舞台であったし、聖徳太子の時代にも、当麻皇子の鬼退治があった。
西播磨のいかるがは、葦原志挙乎命(アシハラシコオ)=オオクニヌシに対して、渡来系の天日槍による国譲りの要求があった。
加古川のいかるが、鶴林寺のすぐ傍に泊神社がある。ここは、天の岩戸に籠もったアマテラスを導き出すために作られたけれど、正式に使われなかった鏡が流れ着いた場所とされる。このエピソードは、和歌山県紀ノ川下流の日前宮に祀られている鏡と同じである。和歌山の日前宮の位置は、綾部のいかるが、私市円山古墳や、アメノホアカリを祀る丹後の籠神社を結ぶライン上である。
この位置関係は、日本の神的権威として正式に使われなかったという意味深な鏡と、いかるがとの関係を暗示している。
(つづく)
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