すると、彼女は、なんの意味の含みもなく、「伊弉冊神社は、地元では”さなぎ”っていうんですよね、おかしいですね。」「あと、岩屋神社は、えべっさんです。」と返信してきた。
地元の人は、なんの意識もなく、そのように呼んでいるのだけれど、”さなぎ”と聞いて、私は、ピピピピッと電流が走った。
”さなぎ”というのは 古代、金属関連を象徴するワードなのだ。
また、伊勢の多気には天岩戸で活躍するタヂカラヲを祀っている佐那神社があるが、あの周辺は、水銀の産地だ。
さなぎは、銅鐸とか鉄鐸の”鐸”のことだとする説があって、これはどういうことかというと、青銅器とか不純物の多い褐鉄鉱などは1000度以下の融点なので、縄文土器を焼く技術があれば金属を溶かすことができ、その溶かした金属を、陶器の型に流しこんで銅鐸や鉄鐸、場合によっては金属製品を作るのだが、金属が冷えて固まったら、まわりの陶器を壊して金属器を取り出す。銅鐸や鉄鐸などが、陶器の殻を破って出てくる感じが、”さなぎに似ているのだ。
この褐鉄鉱で作る製品は、不純物も多くて脆いので、武器には使われず、簡単な道具や祭祀のための道具に使われていたと考えられている。
三木というのは、古代から鍛治で知られた土地で、今でも金物の産地として知られている。
そして、志染地区は、古代、渡来系の金属関連技術をもっていた忍海氏の拠点だった。
さらに神出地区は中世から古代、須恵器の大産地で、この南部の高丘などで作られた瓦などが奈良の寺などに運ばれている。須恵器の窯としては、日本最大のものも、この地域から出ている。
須恵器というのは、土師器に比べて硬く、水漏れもしない陶器だが、高温を作り出す技術がないとできない焼き物だ。土師器ならば縄文土器と同じレベルの800度くらいの温度で作れる。
なので、須恵器を作り出す技術を備えた時、つまり高温の火力を作り出す方法を身につけた時から、鉄製品の不純物が減って、品質が高まる。
鉄そのものの融点は1500度くらいで、須恵器を作る火の技術があっても、1200度から1300度までが限界なので、そのため、鉄を完全に溶かすのではなく、ハンマーで叩けば変形可能なくらいの状態にして形を整えていく。
三木の志染地区を拠点にしていた渡来系の忍海氏は、そうした高いレベルの鉄製品を作る技術を持っており、それゆえ、推古天皇の頃、武器製造で力を発揮した。
しかし、明石の伊弉冊神社と関係する金属関連の勢力は、忍海氏以前の人たちだ。
もともと金属資源の豊かなこの場所は、縄文時代から人が住んでいて、その痕跡も多く残っている。
明石川上流の神出地区には、雌岡山、雄岡山という、高さも形も同じような双子山があり、雄岡山は水晶なども豊富で、鉄資源に恵まれている。
おそらく、その鉄資源と、明石が関わっている。というのは、明石の海の向こうの淡路島の船木町で、弥生時代最大級の鍛治工房跡が、数年前に発見された。それ以外にも鉄関連の遺跡が淡路で多数発見されており、淡路は、古代の鉄製品づくりの拠点だったのだ。
そして、神出地区から明石川をくだってきて、明石港あたりから淡路に渡るためには海人の力が必要だ。岩屋神社のことを地元の人はえべっさんと呼ぶようだが、恵比寿というのは、イザナミとイザナギの国生みの失敗作であるヒルコという説もあるが、恵比寿は、海の向こうからやってきた存在という意味もあり、また、蝦夷という説もある。
佐伯というのは、”さわぐ”という意味であるとか、後に彼らの戦闘力を買われて朝廷の警護を担当するようになるので、”さえぎる”という意味であるとされる。
佐伯の地は、明石(播磨町)以外、安芸の宮島、讃岐、大分の豊後水道に存在しているが、いずれも、瀬戸内海の海上交通の要である。つまり、佐伯氏で象徴される古代蝦夷が水上交通を担い、金属関連技術を備えた勢力と協力関係を担う体制ができていて、それが、明石港近くの伊弉冊神社と岩屋神社なのではないか。
そして、その明石の伊弉冊神社と岩屋神社は、古代、伊和津姫神社であったと考えられており、伊和津姫は、伊和大神の妻だが、伊和大神の拠点である宍粟郡の伊和神社の地も、鉄の産地なのだ。すなわち、播磨から明石、淡路にかけて、”伊和”で象徴される勢力が、鉄の力を背景に実権を握っていたということになる。
そこに、伊和大神に国譲りを迫る渡来系の天日槍(アメノヒボコ)がやってくる。しかし、天日槍は、けっきょく、播磨を去り、近江の鏡山周辺に移り、さらに但馬の豊岡に落ち着く。
すると、さらに驚くべきことに、現在、探求中の”いかるが”と関わってくるものが、そこにあった。
可美真手命神社だ。可美真手命(うましまで)というのは、ニギハヤヒの子供で、物部氏の祖だ。もともと、この可美真手命神社は、1100年前の延喜式内社の物部神社とされていて、1800年も前に創建されたということになっている。
可美真手命神社は、明石川に面する元住吉山の上に鎮座していて、元住吉山は 、1928年に段丘裾部から縄文土器が発見され 、「元住吉山遺跡」と名付けられて 西日本における縄文時代後期後半の標本遺跡となっている 。さらに1975年の道路建設に伴う調査では、 頂上平坦部より 弥生時代中期から後半にかけての土墳墓と考えられる遺構が発見され 、1983年の調査でも縄文時代後期後半の土器が出土している。
可美真手命神社が鎮座するこの古代の聖域に立つと、なんと、明石川の向こうに、雄岡山と雌岡山がきれいに並び立っている。
さらに、この可美真手命神社の位置は、大阪府の交野のいかるがである磐船神社と、加古川のいかるがの地を結ぶラインの上にある。(北緯34.74度)。磐船神社は、可美真手命(うましまで)の父、ニギハヤヒが降臨したところで物部氏の聖域である。
そして、昨日、加古川のいかるがと阿部氏のことをブログで書いたのだが、明石川上流の神出地区と、加古川のいかるがと、交野のいかるがを、さらに東に行くと、伊賀の服部川沿いの真泥というところに至る。ここは、原始琵琶湖の湖底で、褐鉄鉱の産地だった。
この5つの神社は、12km間隔で並んでいる但馬を代表する神社で、この地方を切り拓いた神様を祀っていることになっている。
鶴林寺の真東の大阪府交野の磐船神社が、アメノホアカリ(ニギハヤヒ)の降臨の地とされているが、アメノホアカリ(ニギハヤヒ)は、物部氏の祖神であり、磐船神社と鶴林寺のライン上にある明石川上流の神出地区に祀られている可美真手命が、そのニギハヤヒの息子なのだ。
明石の伊弉冊神社と岩屋神社から、これだけのものがつながってくると興奮せざるを得ないのだが、ほとんどの人は、なんのことかさっぱり、という感じなんだろうな。
神出の可美真手命神社のそばに、コーヒー豆を焙煎して販売しているところがあり、立ち寄って少し話をしたのだけど、丘の上に小さな祠があるのは知っていたが、なんなのかよくわからない、と言っていた。まあ、しかたないところだ。