第1055回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(11)

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縦に伸びるラインは、北から、小野郷の岩戸落葉神社、神護寺高山寺、嵯峨野の天龍寺、長岡の走田神社、大山崎離宮八幡宮、交野の星田妙見宮、生駒山二上山の大津皇墓、葛城山。東の縦のラインは、山科の小野郷と宇治上神社。西の縦のラインは、多田銀銅山の金山彦神社、清荒神門戸厄神東光寺。長岡の走田神社(妙見社)の真西が能勢妙見宮。明石から東北に伸びるライン(冬至の日没ライン)は、明石の五色塚古墳長田神社、生田神社、 敏馬神社、廣田神社門戸厄神東光寺離宮八幡、山科の小野郷。宝塚で真横に並ぶ四ヶ所は、清荒神中山寺、山本郷(松尾神社)、加茂遺跡。

 

 前回と前々回の記事で、摂津について書いた。摂津は、京都や大和と瀬戸内海を結ぶ水上交通の要であり、古来より重要な場所であった。そして、海からの出入り口であったため、渡来人が多く住み、新しい技術が、ここを通じて内陸へともたらされた。

 そうした特別な地であったためか、古代から中世への転換も、この地から起こった。

 摂津の地は、源頼朝をはじめとして、新田氏、足利氏、武田氏など、武家として活躍した清和源氏が勢力を伸ばしていく最初の拠点であった。

 その開祖にあたるのが第56代清和天皇の曽孫にあたる源満仲(AD912−997)である。

 源満仲は、二度にわたり国司を務めた摂津に土着し、住吉大社に参籠した時の神託によって摂津の多田盆地を拠点とすることに決め、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養って武士団を形成した。

 多田というのは、宝塚の北部で、猪名川の上流にあたる。

 猪名川下流域、現在の大阪府池田市豊中市兵庫県川西市尼崎市には、以前のブログ記事でも書いたように、多くの渡来系技術者が住み着いていた。

 船大工集団の猪名部氏をはじめ、織物、酒造、鍛治などにも渡来人の伝承が多く残されている。

 また、猪名川上流は、杣(そま)の地で、ここの材木が猪名川を通じて、大阪湾、そこから京都や奈良をはじめ各地へと運ばれていた。

 さらに、猪名川上流には、多田銀銅山がある。

 奈良の大仏の銅は、ここから運ばれたと伝えられているし、豊臣秀吉の時代には、この地の銀が、大坂城の台所(財政)を潤したとされる。

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多田銀銅山の瓢箪間歩。ここから出た銀が豊臣秀吉の財政を潤わせた。秀吉が、馬に乗ったまま、この坑道に入ったとされる。

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多田銀銅山の青木間歩。いつの時代か特定できない手掘りの露天掘り。白っぽい岩石と黒赤っぽい岩石のあいだが鉱脈で、鉱脈にそって固い岩盤をノミやタガネを使って彫り続けるという気の遠くなるような作業。

 摂津の地には、猪名川だけでなく武庫川という一級河川も流れている。この二つの川において、住吉大社神代記(じんだいき)』に次のような話がある。

 昔、住吉大社は神殿を造る木材を、山から猪名川を使って流していたが、住吉の男神の美しさに猪名川の女神が気づき、なんとしても妻になりたいと思うようになった。また、西を流れる武庫川の女神も同じ思いを抱き、女神どうしの争いへと発展する。

 猪名川の女神は大きな石を武庫川の女神に投げつけ、武庫川に自生する芹(せり)を引き抜いて取り上げた。そのせいで猪名川には大きな石がなく、芹が生えるようになり、武庫川にはごろごろと大きな石があり、芹が生えなくなった。

 この説話は、暴れ川としての武庫川の氾濫〔はんらん〕を語り伝えていると解釈する人もいるが、真相はわからない。

 しかし、こういう謎解きは、無理があるだろうか?

 武庫川は、六甲山系と接しており、周辺に古代磐座の史跡が数多くある。石というのは磐座ではないか? とすれば、芹とは何か?

 芹沢という古代からの苗字があるが、湿地性の芹の生えた沢の意味ではないらしい。

 芹沢(せりさわ)とは、金羅草羅(せらさわら)で、金(せ)は鉄(くろがね)、羅(ら)は国。そして、朝鮮半島の草羅は慶尚南道の金海のこと。金海は、鉄の産出と鍛冶の地として有名で、その金海の出身が芹沢なのだという。

 つまり、猪名川周辺は、朝鮮半島から金属技術などとともにやってきた渡来人が多く住み着き、それに対して、武庫川は、古くからの磐座信仰に基づく人々が住んでいた。

 武庫川上流部にあたる三田盆地は、旧石器時代から人々が暮らした痕跡がある。2万5千年前の遺跡である広野地区の溝口遺跡からは、ナイフ形石器、石鏃などが発掘されている。また、武庫川沿いにある有鼻遺跡や平方遺跡は、弥生時代中期の遺跡で、ここからは畿内最古の鉄剣や鉄斧などの鉄器類が発掘されている。

 真相はともかく、猪名川の女神と武庫川の女神が争ったという説話は、摂津の土地で、ライフスタイルや宗教観の違いを持つ人々のあいだで大きな確執があったということを表わしているのではないだろうか。

 聖徳太子が、武庫川猪名川のあいだに中山寺を創建して神功皇后に滅ぼされた忍熊皇子やその母親の大中姫、さらには物部守屋の魂を鎮魂したり、第59代宇多天皇が、中山寺のすぐ西に、「理想の鎮護国家、諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く」ために清荒神を作らせたりしたのも、異なる世界観を持つ人々の調和が意図されていたのかもしれない。

 ちなみに、武庫川に近い清荒神中山寺猪名川のそばにある近畿圏最大級の弥生遺跡、加茂遺跡は同緯度であるが(北緯34.82度)、この東西のラインは、武庫川猪名川をつなぐ橋のようにも見える。

 さらに、武庫川猪名川を結ぶラインの橋は、東西だけでなく南北にも存在する。猪名川は、上流に遡っていくと西に曲がり、中山寺清荒神の北部を流れることになるが、猪名川の支流の野尻川沿いが多田銀銅山のなかでもっとも銀銅の産出量の多かった地域となり、そこに鎮座する金山彦神社が、宝塚の清荒神の真北に位置している(東経135.35度)

 鉱山と縁の深い金山彦神社がこの地に創建されたのは807年で、嵯峨天皇が皇太弟になった翌年、すなわち空海が生きた時代である。

 さらに、金山彦神社と清荒神を結ぶ同経度の南北ラインは、その南で空海と縁の深い門戸厄神東光寺にもつながっている。

 それだけでなく、金山彦神社から同緯度で真東に行くと(北緯34.89)、淀川沿いの離宮八幡宮であり、ここは嵯峨天皇離宮のあった所で、嵯峨天皇の命で空海が厄神明王を勧請した元石清水八幡ということになる。

 同じく空海が厄神明王を勧請した門戸厄神東光寺から真東(北緯34.76度)のところに、これまた空海が開祖とされる交野の星田妙見宮があるが、その周辺は物部氏の拠点で、鍛治工房などの遺跡が数多く発見されている。さらに星田妙見宮は、大山崎離宮八幡宮の真南である(東経135.67度)。

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交野 星田妙見宮の社殿の裏の磐座。

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星田妙見宮のすぐ側に鎮座する磐船神社物部氏の祖ニギハヤヒ降臨の場所とされる。この磐座と、星田妙見宮の頂上の磐座は、キラキラと光る石英が混ざった同じ岩石だった。

 東経135.67度の交野の星田妙見宮、大山崎離宮八幡(嵯峨天皇離宮)の真北が長岡の走田神社(妙見社)であり、その真北が嵯峨天皇ゆかりの京都嵯峨野の天龍寺(もとは、嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子が創建した日本初の禅寺、檀林寺)。その真北が、空海を支援していた渡来系氏族和気氏和気清麻呂が創建した神護寺高山寺のあいだ、さらにその北が、小野氏(和邇氏の後裔)の拠点で、岩戸落葉神社(源氏物語で、夕霧にしつこく求婚される落葉の姫が隠棲していたところ)が鎮座している。小野郷の岩戸落葉神社は、鞍馬寺の真西である。(北緯35.11度)

 この東経135.67度ラインを南に行くと、生駒山二上山山頂の大津皇子の墓、修験道の聖域、葛城山山頂となり、いずれも古代からの聖山だ。

 また、交野の星田妙見宮と、摂津多田の金山彦神社、大山崎離宮八幡宮と摂津の門戸厄神東光寺のラインがクロスに交差するあたりが箕面で、役小角ゆかりの地でもあるが、なによりこのあたりは、空海の母方の実家、物部氏と同族である阿刀氏の居住地なのだ。

 古事記にもっとも多く登場する氏族である和邇氏(その後裔の小野氏)や、空海およびその母方の阿刀氏(ニギハヤヒを祖とする物部氏と同族)、空海を重んじた嵯峨天皇空海を信望していた宇多天皇が関係しているように思われるこれらのラインは、驚くべき精度(経度、緯度ともほとんど誤差がない)で整然と配置されているが、これらが一体何を意味するのか。測量の正確さも驚くべきものだが、これらの聖域を結ぶラインの背後に何かしらの暗号が隠されているとしか思えないほど、意図的に、聖域の場所が設定されている。

  そして、古代から連綿と連なるラインを、さらに強く刻印したのが、中世という時代を切り拓いた清和源氏の祖、源満仲だった。

 上に述べた多田銀銅山の金山彦神社は、空海の時代の創建だが、971年に、源満仲によって大規模な修理が行われ、満仲は、多田銀銅山の開発を積極的に行ったと伝えられている。

 そして、満仲は、天下の武家を制するには武神・坂上田村麻呂の末裔が組織し、全国30ヶ所以上に置かれていた坂上党武士団」が必要と考えた。

 そこで、当時、坂上氏の棟梁だった坂上頼次を武士団の中心として摂津介に任じ、多田の地の警衛にあたらせた。宝塚の山本郷を領地とした坂上頼次は、郷内に坂上党武士団から選りすぐりの強者を選んで配置した。

 頼次の子孫であり渡辺綱などとともに、満仲の息子の源頼光に仕えた坂上季猛が、祖先である坂上田村麻呂を祀ったのが、宝塚の松尾神社である。この松尾神社は、将軍家の祖神として崇敬され、中でも源頼朝の信仰が厚かった。宝塚の松尾神社がある山本郷は、清荒神中山寺と同緯度の真東である。(北緯34.82度)

 坂上氏と松尾神社の関係は、坂上苅田麻呂が京都の松尾大社に祈り得た子が坂上田村麻呂で、そのため、彼は、幼名を松尾丸と名付けられたのだ。

 ちなみに、坂上田村麻呂の墓は、小野篁小野小町などが生まれ育った山科の小野郷のすぐ傍である。

 坂上氏というのは、もともとは渡来系の東漢氏であり、坂上田村麻呂は、桓武天皇に仕えて蝦夷征伐など華々しい活躍をして、英雄となった。

 山科の小野郷は、宇多天皇が、まだ源氏の身分だった頃、この地に拠点を持つ宮道氏の血を引く女性、藤原胤子(ふじわらのたねこ)と結ばれている。二人のあいだに生まれたのが第60代醍醐天皇であり、醍醐天皇の陵墓も、この小野郷にある。

 さらに、藤原胤子の同父同母の藤原定方は、紀貫之の後援者として古今和歌集の編纂に貢献したが、彼の娘が紫式部の祖母である。すなわち、紫式部のルーツも、山科の小野郷の宮道氏ということになる。京都の西陣の地に、紫式部小野篁の墓が並んで存在しており、その理由は謎とされるが、もしかしたら、山科の小野郷という場所が、大きな意味を持っているのかもしれない。

 ちなみに、山科の小野郷は、前回のブログ記事でも書いたように、大山崎離宮八幡を通って、摂津の門戸厄神東光寺廣田神社、生田神社、敏馬神社、長田神社、そして明石の五色塚古墳を結ぶライン上にある。これらの神社は、神功皇后が九州からヤマトに戻ってくる時、住吉の神とともに深く関わりを持っている。

 このラインは、夏至の日に太陽が上り、冬至の日に太陽が沈む方向を示すラインだ。

 『源氏物語』は、物語の展開のなかで、住吉神や摂津の地が重要な鍵を握っている。そして、落ちぶれた光源氏が再生の道を歩み始めるのが明石の地だ。冬至というのは、その日から太陽が力を取り戻していく再生の起点であり、山科の小野郷と明石を結ぶ冬至のラインと、明石から復活する光源氏が重なる。さらに光源氏と結ばれた明石一族が、『源氏物語』後半の主役なのだ。

 源氏物語の後半の10帖は、光源氏が消えた後、宇治が舞台になる。宇治の聖域、宇治上神社は、山科の小野郷の真南(東経135.81度)で、大山崎離宮八幡の真東(北緯34.89度)である。

 そして宇治にある平等院は、源氏物語の主人公候補の一人、源融(みなもとのとおる=嵯峨天皇の息子で嵯峨源氏の祖)の別荘だった。それが宇多天皇に渡り、藤原道長の別荘となった後、道長の息子、藤原頼通の時に寺院となった。その開山にあたったのは明尊だが、彼もまた小野氏(書道の三跡で知られる小野道風の孫)である。

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宇治平等院

 紫式部が生きた時代は、源融の後裔にあたる渡辺綱が、源満仲の息子、源頼光藤原道長の側近)に仕え、酒呑童子退治などで活躍し、摂津の渡辺津を拠点に勢力を拡大していく時期にあたる。

 話を源満仲に戻すと、満仲は、根拠地の多田荘の自分の館のそばに多田院(多田神社)を建立したが、多田荘の艮(うしとら=北東)の方角にある多太神社を、守護神として位置付けた。もともと、この多太神社の祭神は、第10代崇神天皇の時代、天変地異や疫病の流行で世が乱れていた時、天皇の命で三輪山に大物主を祀って祟りを鎮めた大田々根子命だとされる。

 この多太神社は、多田銀銅山と箕面山、交野の里田妙見宮を結ぶライン上にある。このラインは、冬至の日に太陽が上り、夏至の日に太陽が沈む方向を示している。

 さらに、源満仲は、妙見菩薩を信仰しており、屋敷で祀っていた鎮宅霊符神像(妙見菩薩の別名)を、能勢の妙見山遷座した。

 もともと、能勢の妙見山は、750年ごろに、行基が開いた聖域だった。

 そして、満仲の孫である源頼国が能勢に移住して能勢氏を称し、この地の領主となると、当地の妙見菩薩を篤く信仰する。

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妙見山の北に位置する野間の大けやき。高さ27.37メートル、幹まわり13.01メートル、最大枝張は幅39.3メートル、高さ36.2メートルの巨樹。樹齢1000年。西日本のけやきでは最大。全国では4番目。

 能勢の妙見宮は、箕面山の真北であり、さらに真東(北緯34.92度)の長岡では、長岡京や長岡天満宮を見下ろす高台に走田神社がある。走田神社も、かつて妙見社と呼ばれ、妙見菩薩が合祀されていた。この走田神社の真南が大山崎離宮八幡で、さらにその南が、交野の星田妙見宮である。

 妙見信仰は、道教密教陰陽道などの要素が混交しているが、もともとは、古代アッシリアバビロニアの砂漠の遊牧民が、方角を確認するために北極星を神として信仰し、それが中国に伝わって北辰信仰となったとされる。

 また、地中の埋蔵鉱物は、空の星が降って地の中で育つと信じられた時代があった。そこで北極星、つまり妙見が鉱山師の信仰を受けるようになったとも言われる。

 交野の星田妙見宮周辺には鍛治工房の遺跡がたくさんあるが、古代、星田妙見宮に巨大な隕石が落ちたと伝えられ、その隕鉄を使って鍛治が行われたという説もある。

 その真偽はともかく、全国に数多く存在する妙見という地名と鉱山が深く結びついている例は幾つもあり、さらに、各地の妙見の聖域が、星田妙見宮と走田神社や能勢妙見宮のように東西南北のラインで結ばれている。

 また、妙見とのつながりが確認される空海行基は、ともに、土木、灌漑治水事業、鉱山開発などを手がけており、単なる僧侶とはいえない広範囲な活動をしている。

 平安初期に活躍した空海は、讃岐の佐伯氏の出身だが、母親は物部氏と同族の阿刀氏であり、奈良時代に活躍した行基の父、高志氏は、王仁を祖とした河内国和泉国に分布する百済系渡来氏族だった。

 彼らは、中国や朝鮮半島の先進技術や知的情報を多く備えていたし、古来から日本に存在していたものにも深く通じていた。そんな彼らにとって、僧侶という立場は、数多いミッションのうち、一つの役割にすぎなかったのだろう。 

 そして、異なる時代の聖域を結ぶラインを眺めていると、空海行基などの聖者だけでなく、嵯峨天皇宇多天皇源満仲たちの権力者もまた、自分の栄華だけを求めていたのではなく、古代から連綿と連なる何か大切なものに十分に配慮し、それらを未来につなぐことを意識していたように感じられるし、そうした権力者たちの意識が、紫式部などの表現者にも共有されていたように思われる。

 本来、政(まつりごと)や、芸(わざ)というのは、そういうものだったのだろう。