第1054回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(10)

 ブラックホールの観測や生命が存在するかもしれない惑星を探すことも、莫大なお金を投じる価値のある探求かもしれないが、もっと身近で私たちの暮らしと関係の深いところ、私たちが住んでいる足元のことで、わからないことが無数にある。

 それは歴史のことである。とりわけ日本の古代は謎だらけで、1500年以上前のこととなると、実際に何が起こっていたのか、知りたくても知れないもどかしさがある。

 西洋や中国ならば、紀元前に作られた建造物や文章が多く残っているので、それらを通じて、具体的に感じたり考えたりすることができる。しかし、古代の日本は、その具体物や記録が極めて少ない。

 にもかかわらず、大変興味深いことに、日本の天皇制は、世界で最長の歴史を誇る王朝とみなされている。神武天皇まで遡るとされる紀元前660年は、辛酉革命説に基づいて恣意的に作られた年代で信憑性に乏しいとされているが、第26代継体天皇(紀元507年即位)以降の1500年間は、王朝としての血統が変わっていないとされている。

 日本の権威的存在である天皇制がこれだけ長く続いている一番の原因は、日本が、この1500年間、他国の侵略や植民地化など国の価値観やシステムが大転換させられる事態に陥っていないからだ。

 欧米の場合は、AD5世紀頃までにゲルマン民族の大移動によってローマ文明世界の価値観やシステムが転換させられたが、その後も、AD10世紀ごろの北方のノルマン人の移動による侵略で、凄まじい破壊と殺戮を経験しているし、マジャールオスマントルコなど、東からの侵攻は、常にあった。

 中国の場合も、歴代王朝の交代の大半は、清、元、北魏など見ればわかるように、北方からの騎馬民族の侵攻や、それらの部族間の激しい抗争の結果によるものが多い。

 日本の場合、何度か海外からの侵略の危機はあったものの、水際で防いできた。

 663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗したこと、13世紀後半の2度にわたる元寇、1853年の黒船来航の後の欧米列強の圧力、そして1945年の太平洋戦争の敗戦が、日本の歴史の中で王朝交代の可能性があった時期だが、かろうじて、その危機を乗り越えてきた。

 日本は、他国による暴力的な侵略を受けなかったので、表向きには王朝交代は必要なかったが、その時々の難しい現実にうまく対応するために、摂政関白の時代や武士の時代など、天皇制の支え方は時代ごとに変わってきている。

 天皇の血族としての一貫性が保たれているかどうかは別として、天皇の権威を使って地上の権力を行使する人物は時代ごとに変遷した。また、飛鳥から平安時代までは、地上の実力者が、誰を天皇にするかを決めることがよくあった。

 蘇我馬子は、自分の言う通りにならない第32代崇峻天皇を暗殺したし、藤原百川は、陰謀によって皇太子他戸親王を廃し,母親の出自が低かった(百済系渡来人)ゆえに天皇になる予定のなかった山部親王 (第50代桓武天皇) を擁立した。

 菅原道眞を重用した第59代宇多天皇も、天皇の臣下である源氏の身分だったが、藤原基経の妹の藤原淑子(母方が難波氏)や、宇多天皇の母の班子女王(はんしじょおう=東漢氏坂上氏と同族の当宗氏)の実家などの氏族連合(主に渡来系)の強力な後押しによって、突如、天皇に即位することとなった。

 さらに、現在の天皇のルーツとして実在性が確かだとされる第26代継体天皇(在位 AD507-531)でさえ、もともとは、近江から福井にかけて勢力を誇っていた地方豪族だった。

 第25代武烈天応が子供を持たずに死んだために、大伴金村物部麁鹿火(もののべのあらかい)が、第14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を天皇に即位させようと亀岡の地に出かけていくが、倭彦王は、怖気付いて逃げ出してしまった。そのため、しかたなく、越前近江にいた第15代応神天皇の5世の孫で、すでに58歳になっていた男大迹王(をほどのおおきみ=後の継体天皇)を天皇に迎えたのだ。もし倭彦王が逃げ出さなかったら、王朝は、越前近江ではなく丹波の氏族に引き継がれていたのだ。

 それはともかく、男大迹王も大和の実力者であった大伴や物部の天皇即位の推戴(すいたい)に疑念を持ち、第26代継体天皇として即位はしたものの、その後19年間も奈良の地には入らず、淀川や木津川のほとりに宮を築いていた。

 それにしても、天皇の地位に就くことを最初に望まれた倭彦王が第14代仲哀天皇の5世の孫で、継体天皇が第15代応神天皇の5世の孫とされるが、仲哀天皇応神天皇は、系譜としては親子なのだ。にもかかわらず、応神天皇仲哀天皇が明確に区別され、継体天皇以降の天皇は、応神天皇の血統であると強調されている。

 仲哀天皇応神天皇の血統をめぐる物語で、もう一つ重要なものが、神功皇后三韓遠征だ。

 第14代仲哀天皇は、熊襲を討つために九州に向かう。途中、神の神託で、熊襲よりも朝鮮半島を攻めるように告げられる。しかし仲哀天皇は、その神託に従おうとしなかった。そのため、神罰で死んでしまった。しかたないので、仲哀天皇の妃であった神功皇后が、朝鮮半島に侵攻する。その時、神の威光を感じてか、相手はほとんど戦うことなく降参してしまった。

 その時、神功皇后のお腹のなかにいたのが応神天皇胎中天皇という異名が示す通り生まれながらの天皇とされる)神功皇后は、戦いの勝利の後、応神天皇を出産し、九州からヤマトに戻ろうとする。その時、仲哀天皇の息子で応神天皇とは腹違いの兄にあたる忍熊皇子たちが、神功皇后の大和入りを阻止しようと待ち構えるが、その戦いに神功皇后が勝利を収め、息子の応神天皇が、正式に第15代天皇となる。

 この戦いに破れた忍熊皇子と、その母親の大中姫の魂を弔うために、聖徳太子が宝塚の地に創建したのが、中山寺ということになっている。

 さらに、中山寺は、蘇我氏との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立されたとも伝わっている。

 蘇我氏物部氏は仏教をめぐる対立でよく知られているが、蘇我氏は、東漢氏など渡来人の力を束ねることで政治的な実権を強めた。645年の乙巳の変で、蘇我入鹿が中大兄皇子や中臣鎌足に殺されただけで蘇我氏が滅んでしまったのは、東漢氏など武力ととりしきっていた氏族が蘇我氏に見切りをつけて、大兄皇子側にまわったからだ。

 蘇我氏が仏教を重視したのは、仏教は渡来人が多く信仰していた宗教だからであり、物部氏は、それ以前から続く伝統的な祭祀を司っていた。

 また、忍熊皇子を滅ぼした神功皇后の母方のルーツは、天日槍(アメノヒボコ)という新羅の王子、つまり渡来人である。

 聖徳太子が、神功皇后に滅ぼされた忍熊皇子や、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋の魂を鎮めるために中山寺を創建したとするならば、渡来人の力が発揮された新しい社会にとってかわられた古い社会が、聖徳太子によって鎮魂、すなわち記憶化されたということにならないだろうか。

 AD8世紀後半、第50代桓武天皇の母方も渡来人で、桓武天皇の右腕として平安京への遷都を実現する和気清麻呂も渡来系である。そして、AD9世紀後半、律令制度が綻び、改革が必要になった時期に即位し、菅原道眞を重用した第59代宇多天皇の母方も渡来人である。

 時代が大きく変わる時、渡来人の力が影響を与えるのは、なにもこれらの時だけでなかった。仏教や各種の思想、官僚組織などの統治手法だけでなく、鉄をはじめとする先進技術も渡来人がもたらしたものである。何より、日本人の主食となる稲作も、弥生人すなわち渡来人によって始まったのであり、日本人を、渡来人かそうでないかで区別することは、あまり意味がないかもしれない。

 日本の歴史において重要なことは、そうした区別ではなく、古くからあったものと渡来人によって導入された新しいものの調和のさせ方なのだ。海外の多くの地域においては、渡来人というのは、多くの場合、侵略者だった。だから、最新の遺伝子研究では、侵略された地域に住む人々の遺伝子は、強姦などのため、ほとんどが侵略者側のものになっているとされる。しかし、日本は、そうはなっておらず、様々な民族の遺伝子がバランスよく残っているらしい。

 つまり、日本にやってきた渡来人は、敵対的に攻めてきたわけではなく、中国や朝鮮半島の動乱からの逃亡者や、日本から迎えられた者が多かったということだろう。それゆえ、その改革者たちは、変革の力となりつつも、新旧の調和に心を配り、滅びゆくものに配慮したのではないか。古くからのものを歴史から抹殺するのではなく、様々な方法で、記憶化した。

 たとえばオオクニヌシの国譲りはその典型であり、オオクニヌシは、滅ぼされたのではなく、自らが大切に祀られることを条件に国を譲り、その祟りの力によって地上に禍があるたびに思い起こされ、現在にいたるまで、日本各地で崇敬され続けている。

 天災や疫病の発生を、「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本特有の信仰を、御霊信仰という。

 大物主(オオクニヌシの別名)や、聖徳太子が祀った忍熊皇子物部守屋、桃太郎の説話の原型である吉備津彦平安時代のはじめ、桓武天皇から嵯峨天皇の治世で怨霊として恐れられた井上内親王など天武系の血統の人たち。そして、宇多天皇に重用された菅原道眞、保元の乱で、平清盛後白河法皇に破れて讃岐に流され朝廷を憎んで死んだ崇徳天皇などが代表的だが、こうした祟りの信仰もまた、変革時の犠牲者に配慮して歴史的に記憶化する方法と言えるだろう。

 日本の歴史を通じて様々な戦いが繰り広げられてきたが、敗者が、ある種の美学をもって語り継がれて、そのため、人気者になっているケースが非常に多い。勝者の正しさと強さばかりが強調される歴史は、日本の歴史風土には育っていない。

 それはともかく、聖徳太子は、物部守屋の魂の鎮魂のために、中山寺以外に四天王寺も創建したとされるが、四天王寺中山寺も摂津の地である。

 さらに、神功皇后の戦いを支援した神々を祀る神社、廣田神社、生田神社、長田神社住吉神社敏馬神社も、摂津国にある。 

 摂津という場所は、ヤマトからの海の出入り口であり、渡来人も多く、必然的に、渡来人と在来の人々とのあいだに確執や棲み分け、そして協同があったことが想像できる。

  摂津国風土記逸文に、敏馬神社の創建に関する記述があり、神功皇后三韓遠征に出発する際に戦勝祈願したとき、猪名川上流の能勢の美奴売山(みぬめやま)の神が来て、美奴売山の杉の木を切って船を作れば必ず勝利すると告げた。その通りにして勝利を納めた帰途、この地の沖で船が動かなくなり、船上で占いをするとこれは美奴売山の神の意志であるとわかったので、そこに美奴売神を祀ったとされている。

 敏馬神社は、現在ではあまり知られていない神社だが、神戸では廣田神社とともに、大変古い神社で、この周辺は、かつては重要な船着場で、大変賑わっていたところだった。

 古代、大和の人が九州や韓国へ行く時、大阪から船出して敏馬の泊で一泊、大和が遠望できる最後の港、逆に帰る時はなつかしい大和が見える最初の港で、大和の人にとっては特別の地であり、また白砂青松の美しい海岸は、多くの歌人たちに讃えられ、万葉集において、大和以外の地には珍しく多くの歌が詠まれている。境内には柿本人麿と田辺福麿の歌碑がある。 

 明治以降は海水浴場として賑わい多くの茶屋料亭芝居小屋が神社周辺にあったが、昭和の初め、阪神電車のトンネル工事の土砂によって海岸が埋め立てられ、さらに戦災で往時の姿を完全になくしている。

 実は、この『摂津国風土記』の敏馬神社の記述に似た物語が、『日本書紀』において、神功皇后忍熊皇子の戦いに合わせて描かれている。

 簡潔に述べると次のようになる。

 神功皇后三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。

 そして、神功皇后三韓征伐に勝利して戻ってくる時、応神天皇と腹違いの兄である忍熊王が、神功皇后と皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社・長田神社住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。

 廣田神社に祀られている神は、天照大神の荒魂ということだが、別名は、向津媛命(むこつひめ)で、六甲山の神様。瀬織津姫とも言われる。

 そして、美奴売山の神というのは、弥都波能売神(みずはのめ)。水神であり、元は水銀神である。

 向津媛命とか、瀬織津姫とか、弥都波能売神とか、名前は変わるが、いずれも、かなり古い神である。といっても縄文の神まで遡るのではなく、弥生時代の初期に中国の江南から稲作技術とともに渡来した人々の神ではないかと、私個人は考えている。

 中国の江南、揚子江流域は米どころであるとともに、湖南省は、中国最大の水銀の産出地であるからだ。

 それはともかく、興味深いことに、これら摂津における神功皇后に関わる聖域が、夏至の日の日の出と冬至の日の日没ライン上にズラリと並んでいるのだ。

 

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西から、明石の五色塚古墳長田神社、生田神社、敏馬神社、廣田神社(現在の位置よりも昔は、もう少し北にあった)、そして門戸厄神東光寺、大山埼の離宮八幡、山科の小野郷、近江の三上山山頂、そして、その東にある鏡山の山頂の竜王社、貴船社。 このラインは、夏至の日に太陽が上る方向と、冬至の日に太陽が沈む方向である。地図上の一番下のポイントが、高野山麓の丹生都比売神社、その真北が、四天王寺、渡辺津。渡辺津は、生田神社と平城京の北にある佐紀古墳群の東西の真ん中。宝塚周辺、門戸厄神東光寺の真北が清荒神で、その真東に中山寺がある。

 まず、明石の五色塚古墳は、建設当時の姿を復元した古墳だが、ここが、忍熊皇子神功皇后を待ち構えた陣地であるとされている。

 この五色塚古墳から夏至の日に太陽が上るライン上に、長田神社、生田神社、敏馬神社、廣田神社(かつては現在の地よりもやや北にあった)が並んでいる。

 さらにこのライン上には、空海の築いた門戸厄神東光寺と、空海を重んじていた嵯峨天皇離宮のあった大山埼の離宮八幡(元石清水八幡)、山科の小野郷、近江の三上山山頂(鍛治の神、御影神が降臨したところ)、そして、その東にある鏡山の山頂の竜王社、貴船社までが位置している。

 小野小町小野篁が生まれ育った山科の小野郷と、三上山は、ともに和邇氏と関わりのある地だ。小野氏というのは和邇氏の末裔である。また、三上山に降臨した天之御影神(鍛治の神)の娘の息長水依姫と、和邇氏の母を持つ日子座王ひこいますのみこ)が結ばれて、その血統から景行天皇とその息子のヤマトタケル、さらにその息子の仲哀天皇が出ている。さらに日子座王が、和邇氏の娘、袁祁都比売命(おけつひめのみこと)と結ばれて、その四世代後に神功皇后が出ている。

 第15代応神天皇と、神功皇后に滅ぼされた仲哀天皇の皇子、忍熊皇子のルーツは、ともに日子座王ということになる。

 日子座王というのは、第9代開化天皇の第三皇子で、第10代崇神天皇の腹違いの弟である。崇神天皇の母親は、物部氏伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で、大和王朝に対する物部氏の影響力が一番強かったのは、この伊香色謎命と、その同母兄の伊香色雄命(いかがしこお)が生きた時代である。

 その後は、日子座王の後裔、すなわち和邇氏の血統が、大きな役割を果たすことになる。和邇氏は、古事記のなかで、天皇以外の氏族として、もっとも登場人物が多く、神功皇后忍熊皇子と戦う時に活躍した武振熊も和邇氏だ。そして和邇氏の後裔が小野氏や春日氏、柿本人麿が出た柿本氏である。

 上に示した不思議なラインの中で自然物は三上山だけなので、この山に降臨した天之御影命(鍛治の神)と、その娘と結ばれた日子座王、すべての起点になっている可能性がある。

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近江富士と呼ばれる三上山の山頂。ここに鍛治の神、天之御影命が降臨したとされる。

 このラインになぜ、門戸厄神東光寺離宮八幡(元石清水八幡)など、空海嵯峨天皇ゆかりの地が関係しているのかは今の段階では正確にはわからない。

 ただ、一説によれば、空海の母親の玉依御前は、阿刀宿禰(あとのすくね)の娘で、阿刀氏は、物部氏の同族である。その居住地は、山背国愛宕郡(京都の左京区上京区、北区あたり)や、山背国相楽郡木津川市綴喜郡井手町)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市池田市箕面市周辺)が知られている。

 愛宕山は三上山と同緯度の真西に位置し、綴喜郡井手町は、随心院のある小野郷の真南で、摂津国豊島郡は、まさに三上山と明石の五色塚古墳を結ぶライン上(大山崎離宮八幡と門戸厄神東光寺の間)に位置するので、空海の母の実家の阿刀氏と、謎のラインとの関係の深さが伺える。

 また、空海を信望していた宇多天皇の命で築かれた宝塚の清荒神は、門戸厄神東光寺の真北で、聖徳太子忍熊皇子物部守屋の魂を鎮めるために築いた中山寺の真西に位置する。

 清荒神は、896年、「理想の鎮護国家、諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く」ために、宝塚の地に、宇多天皇勅願寺として建てられたつまり、調和と協同のシンボルだ。

 そして、門戸厄神東光寺が祀る厄神明王とは愛染明王不動明王が一体となって、あらゆる厄を打ち払うというもので、嵯峨天皇が霊感を得、天皇の命を受けた空海が、厄神明王像を三体刻み、高野山麓の天野神社(丹生都比売神社)、山城の石清水八幡宮、そして門戸東光寺へ、国家安泰、皇家安泰、国民安泰を願って勧請したものである。(現在残っているのは東光寺のもののみであるとされる)。

 石清水八幡宮は、現在、男山に鎮座するが、その創建は860年の清和天皇の時代であり、空海は835年に没しているので厄神明王が勧請されたのはここではない。元石清水八幡とされ嵯峨天皇離宮だった大山崎離宮八幡のことだろうと思われる。

 そして、天野神社(丹生都比売神社)の場所は、四天王寺の真南である。四天王寺は、蘇我氏の一員として物部守屋と戦った聖徳太子が、その勝利を祈願して、また物部守屋の魂の鎮魂のために創建したとされる。さらに、この南北のライン上、四天王寺のちょうど真北の淀川沿いに渡辺津がある。

 渡辺津は、大和や京都から瀬戸内海への交通の要所で、かつては難波京や難波津がおかれたところである。

 ここは、交通や経済のみならず、宗教的にも重要な場所で、四天王寺住吉大社・熊野へ詣でる際、人々は淀川を船で移動してきて、渡辺津で下船していた。

 軍事的にも重要な港であった。嵯峨天皇の息子の源融源氏物語のモデルとされ、宇多天皇の時の左大臣)の末裔である渡辺綱がこの地で武士団を形成し、後の子孫も、瀬戸内海の水軍として大いに活躍する。

 渡辺綱は、源頼光四天王の筆頭として知られ、大江山酒呑童子退治などで知られる。

 この渡辺津に鎮座していたのが、摂津国一宮の坐摩神社(いかすりじんじゃ)であり(現在の社は、1583年の大阪城築城時に移転されたもの)、神功皇后三韓征伐より帰還したとき、淀川河口の地に坐摩神を祀ったことが始まりだと伝えられる。

 そして、この渡辺津(坐摩神社)から真東に行くと、奈良の平城京の上に4世紀末から5世紀前半にかけて築かれた巨大前方後円墳群、佐紀古墳群(さきこふんぐん)がある。その古墳群の中、11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)と、謎のラインの西端に位置する明石の五色塚古墳は、同時期、同形相似墳である

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11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている佐紀陵山古墳。明石の五色塚古墳と、同時期に作られ、同形相似墳であり、深い関係があると考えられる。

 ともに建設されたのは、ヤマト王権の大王墓が大和(佐紀古墳群)から河内(百舌鳥・古市古墳群)にある応神天皇陵など巨大古墳群へと移行する時期だから、時代の転換期と大いに関係がある。

 ラインに関して、もう一つ重要なことがあり、奈良の佐紀古墳群と坐摩神社のあった渡辺津の真西に神戸の生田神社が鎮座するが、生田神社は、神功皇后が築いた場所は布引の滝の近く(現在の新幹線新神戸駅のすぐ傍)だったが、洪水のため現在の地に移された。その移転の時期は、空海が生きていた806年である。

 古い聖域と、それに取って代わった勢力に関わる聖域が、東西南北および冬至夏至の日の太陽の方向を示すラインによって結び付けられているが、古代から存在していたものに加えて、空海の時代に、何か意図的な配慮がなされていることは明らかだ。

 空海が活躍していた時代は、第50代桓武天皇から第52代嵯峨天皇の治世であり、まさに怨霊騒ぎが一番大きかった時代である。その時代に、あらゆる厄を払うという厄神明王が創造され、この場所でなければならないと位置決めされたかのように、いくつかの聖域が設けられた。後に、空海を信望していた宇多天皇(譲位の後、日本史上初の法皇となる)の治世下でも、同じようなことが行われている。宇多天皇法皇)の時代というのは、律令制が破綻し、変革が急がれた時期であり、その変革の担い手が菅原道眞だった。しかし道眞は太宰府に左遷されて悶死する。その後、道眞の怨霊騒ぎが大きくなり、その結果、改革は進み、律令制の基本だった人頭税は完全に終焉し、その後、武士の時代へと続く封建制の枠組みが整っていく。

 時代の変革と、怨霊騒ぎや怨霊の鎮魂は、どうも一体化しているように感じられる。