昨日の続きで、京都の月読神社に秘められた謎について。
この月読神社の中で、もっとも謎が秘められ、かつ歴史的に深い意味をもってくるモニュメントが、月延石だ。
これは、今では安産のための聖域となってしまっており、安産祈願のためにこの神社を訪れた人が、歴史的背景のことなど何も知らないまま白い石を買って名前を書き込み、月延石の周りに膨大に積み上げている。
しかし、悲しいかな、この石は、「月延石」という名のとおり、安産ではなく出産を後にズラすための石である。
神功皇后が新羅討伐の戦いの時に応神天皇を孕んでいたのだが、戦地で産むと戦いに支障があるため、この月延石をお腹に巻いてお腹を冷やすことで産月をズラしたという、奇妙な話が神話に残されている。
もともとこの石は、応神天皇を無事に産んだ九州の糸島にあったとされる。しかし、雷が落ちて三つに分かれて、一つは系島の鎮懐石八幡宮 、一つは壱岐の月読神社、一つは京都の月読神社にもたらされたが、現在残るものは、京都の月読神社のものだけだという。
神功皇后の新羅征伐の神話は、もちろん史実ではない。
なぜなら、この神話のなかで神功皇后は新羅を征伐することになるのだが、歴史上、663年の白村江の戦いで大敗するまで、日本は何回も新羅討伐の兵を送ろうとしたものの、討伐に成功したことがないのだ。
さらに新羅という国家の成立が、西暦500年以降のことで、その頃、日本の天皇では第26代継体天皇が、60,000の兵を新羅征伐のために送り込んだことが記録されているが、神功皇后は、第15代応神天皇の母という位置付けなので、時代のズレがある。
事実上の初代天皇とされる継体天皇の即位は、新羅打倒のために国内を一つにまとめあげる必然性のなかから生じたことだろう。
そして、おそらく神功皇后の神話は、西暦500年以降に繰り返された新羅との戦いにおける国威発揚のために創造された物語なのだ。
それはともかく、なぜ、そうした歴史背景と結びついた神功皇后ゆかりの月延石が、京都の月読神社に残されているのか。その謎を洞察することが重要になる。
神功皇后ゆかりの石が、ここに存在する理由は、神功皇后の神話に関係する勢力が、この場所を拠点としていたからだ。
神功皇后の神話に関係する勢力とは、何なのか?
日本にある神社で最も数が多いのが八幡神社だが、その総本社が大分の宇佐八幡宮で、この神社は、一之御殿に応神天皇、二之御殿に比売の神、三之御殿に神功皇后が祀られている。
この宇佐八幡宮を京都に勧請したものが、石清水八幡宮だが、ここは、日本三大八幡宮であるだけでなく、伊勢神宮と並ぶ朝廷の最高の崇敬対象となり、二所宗廟とされるようになった。つまり、皇室の祖先を祀る大事な聖域ということになっている。
この石清水八幡宮の神官を世襲していたのが、海人勢力の紀氏だった。
紀氏は、もともとは和歌山県の紀ノ川流域の海人勢力だが、『日本書紀』によると、紀角(きのつの)などが、朝鮮半島の任那(加羅)で、活動していた記録が残っている。
この勢力が、6世紀のはじめ、中国王朝の後押しで国力を増強させた新羅による任那合併によって、朝鮮半島から押し出され、九州の国東半島の北、宇佐八幡宮が鎮座する周辺に拠点を設けた。
これが辛島氏である。辛島氏は渡来系とされることが多いが、そうではなく、加羅「から」の地から日本に戻ってきた勢力だろう。
その根拠となるのが、日本書記のなかに挿入された不思議な物語である。
新羅王子の天日槍(あめのひぼこ)の妃となったアカルヒメが、天日槍の暴力に耐えかねて、生まれ故郷の倭に帰還するというもので、このアカルヒメは赤い玉から生まれたとされる。
赤い玉が象徴しているのは辰砂=硫化水銀=丹生であり、和歌山県の紀ノ川流域(現在の丹生都比売神社など)は日本屈指の辰砂の産地だった。
そして、神功皇后の新羅討伐の神話では、紀ノ川流域の丹生都比売が、船などを辰砂で赤く染めると勝利できると神託をしている。
加羅から戻ってきた勢力が拠点としていた国東半島の北に宇佐神宮が鎮座し、ここに神功皇后=息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)が祀られているが、さらにその北の香春神社に、辛国息長大姫が祀られている。この香春神社のところは、銅や鉄関係の鉱脈である。
ここでも辛島氏と同じく「辛」という名がでてくるが、これもまた加羅のこと。
香春神社の息長大姫と、神功皇后の本名である息長帯比売命は、同じだろう。息長という名から、海女を連想するが、いずれにしろ海人と関わりが深く、この海人勢力が、朝鮮半島における加羅国の復活のため、新羅討伐の主力部隊となり、その前線基地が、国東半島の北だった。
この場所は、朝鮮半島に直接面していないが、関門海峡という、潮の流れを読めない者たちには航海できない難所を砦にでき、かつ、島々が無数にあって座礁しやすい瀬戸内海の西端に位置して、水軍の戦いにおいては、地政学的に、とても理にかなった場所だった。
この瀬戸内海は、干潮と満潮の際に、太平洋とのあいだで水面の高さに大きな違いが生まれ、そのため鳴門の渦潮という現象が起きるのだが、エンジンのない船は、潮の流れが変わると前に進めなくなる。つまり、月を読まずして航海のできない海なのだ。
月読神の信仰は、この航海人と深くつながっている。それゆえ、月読神というのはよく知られた神であるにもかかわらず、この神を主祭神にする聖域は、日本には非常に少なく、とくに東日本では、ほとんど存在しない。
そして、この月読神の聖域が日本で最も集中しているエリアが、京都の桂川流域の月読神社から、保津川渓谷を超えて亀岡の桂川流域なのである。
とくに亀岡には月読神社が非常に多く、式内社だけにかぎっても、小川月神社(名神大社)、大井神社、薮田神社があり、こういう月読神信仰の集中地帯は、日本の他の地域にはない。
さらに亀岡と海人勢力とのつながりを示す考古学的なポイントは、紀の川流域に活動していた紀氏に特徴的な石棚付き石室古墳が、内陸部にもかかわらず、紀の川流域の次に集中的に存在している場所が亀岡であること。このタイプの古墳は、瀬戸内海の沿岸部、日本海では敦賀に少し見られる程度である。
京都の月読神社から亀岡にかけての月読神の聖域が多いところは、朝鮮半島の加羅から日本に戻ってきて新羅討伐の前線部隊として戦っていた紀氏海人勢力との関わりが非常に深いことがわかる。
これが、京都の月読神社に神功皇后ゆかりの月延石がある歴史背景である。
ならば、なぜ、紀の川流域から瀬戸内海にかけて展開していた紀氏海人勢力が、京都の月読神社から保津川渓谷を超えた亀岡にも展開していたのかという謎を解く必要がある。
その答えは、京都の月読神社の月延石の隣に鎮座している聖徳太子社が、ほのめかしている。
蘇我と物部の戦いの時、聖徳太子は、「四天王の像を作り、もし戦いに勝利ができれば四天王を安置する寺を建てると誓願して、戦いに勝利した」というエピソードがある。
大阪の四天王寺は、その際に建造されたことになっている。
「四天王」は、東西南北の四方を守護し、甲冑を着けて武器を持ち、邪鬼を踏みつける姿をとっている。
この聖徳太子の物語は、単なる神頼みの伝承ではなく、具体的な出来事であり、聖徳太子が、蘇我と物部の戦いの際に支援を求めたのが、紀氏海人勢力だった。
四天王寺の北東2kmのところに比売許曽神社が鎮座している。これは式内名神大社の論社の一社である。
古事記と日本書紀には、新羅から帰国したアカルヒメが、難波の比売碁曽の社に坐すと記されている。
この難波のアカルヒメの聖域が、四天王寺と、住吉大社の近くにある。
住吉系の神社にも、必ず神功皇后が祀られている。その理由は、神功皇后に新羅討伐の神託を告げたのが住吉神だからだ。
そして、上にも述べたように、この神功皇后神話の背景に紀氏海人勢力が関わっており、聖徳太子が四天王寺を築いた場所もまた、比売許曽社の近くということから、背景に紀氏海人勢力の存在が見え隠れしている。
さらに、四天王寺というのは、寺であるが鳥居があり、真西を向いている。この鳥居の向こうは土地が低くなっており、古代、四天王寺の鳥居の前まで海だった。
この海の先、真西に52kmのところが明石の藤江であり、この場所は、住吉大社に伝えられる由緒によれば、吉野の藤代嶺というところにいた住吉神が、瀬戸内海に移りたいと言って、藤の筏で流れ着いた場所とされている。
そのため、明石の住吉神社は、住吉神社の本拠はこちらだとしている。
しかし、不可思議なことに、紀国の丹生都比売神社に伝えられるところによれば、吉野の藤代嶺にいたのは丹生都比売だということになっている。
丹生都比売も住吉神も、神功皇后の新羅討伐に対して、神託を出し、支援もしているので、おそらく同じ神なのだ。紀の川流域の土着的な神であった時の名が丹生都比売で、これが、新羅討伐を機に国家的な神になったものが住吉神であろうと思う。それゆえ、住吉神は、記紀では、イザナギの禊の時に生まれたことになっているが、丹生都比売は、紀紀には登場しない。
そして、大阪の四天王寺から真西52kmが、吉野の藤代嶺から住吉神が移った場所だが、四天王寺から真南に44kmのところが紀国の丹生都比売神社なのである。
さらに興味深いのは、四天王寺から真北に44kmところが亀岡の拝田古墳で、これは、亀岡に集中する紀氏系の石棚付石室古墳において、亀岡で最大のものである。
四天王は、東西南北の四方を守護するのだが、北と南と西に、紀氏海人関係の聖域が配置されている。残されたもう一つの方向、四天王寺の真東52kmのところに何があるかというと、ここは、瀬戸内海と紀国をつなぐ名張川沿いの薦生(こもお) 遺跡である。
この場所は、縄文時代から中世までの遺跡なのだが、古代や中世には「薦生牧(こもおのまき)」と呼ばれていた。牧というのは馬の飼育地である。
名張川は木津川を通じて瀬戸内海へ。そして名張川と紀ノ川は、源流部で通じている。
九州の菊池川流域の装飾古墳には、海人勢力が、船で馬を運ぶ絵が描かれており、肥前の風土記には、海人は馬弓を好むという記事もある。すなわち海人勢力というのは、水上交通を担うだけでなく、船で馬を運び、陸にあがれば馬に乗って弓矢で戦う強力な軍団でもあった。
このように、四天王寺は、紀氏海人勢力と関わりの深い四方をつなぐ場所で、新羅から日本に戻ってきたアカルヒメの聖域のそばに築かれている。
聖徳太子は、蘇我と物部の戦いの時、新羅討伐の主力部隊であった海人勢力の支援を求めて、戦いに勝利を得ることができれば、四天王寺を築くことを誓願したのである。
京都の月読神社の境内に、神功皇后ゆかりの月延石と、聖徳太子社が並ぶように存在している理由は、ここにある。
ならば、京都の月読神社を前線基地として、亀岡から丹波・丹後で起きた蘇我と物部の戦いの痕跡が、亀岡にはどのような形で残っているのか?
これは記紀には記録されていないが、伝承という形で地元に残されている。(つづく)
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