
玄米のための米を、信濃大町の木崎湖の湖畔で米作りに励んでいる本郷毅史くんから購入している。
酵素玄米仲間?に引き入れた小栗康平さんと、映画照明の津嘉山さんを伴って、ちょうど「はさがけ」=天日干し期間中の田んぼを訪れた。
木崎湖のほとりの別天地。この場所で収穫されたお米を口にできることの有り難みは、その場所を訪れ、生産者の顔を見ることで、ひときわ深まる。
お米に限らないが、標準化され規格化されたものを流通させる仕組みによって、便利になったのかもしれないが、肝心なものが削ぎ落とされていく。
作ることの喜びややりがい、作られたものを受け取る側の、ものづくりの背後にある苦労に対する敬意や、ありがたみの深さ。
今の社会は、いろいろな人が、いろいろな意見を自由に言うが、そうした意見を言う人の物事に対する取り組みや、仕事の質、深さなどに対して、敬意を感じたり心動かされたりすることがない場合は、私の場合、それらの意見は、どうでもいいと思っている。
そもそも、その人の人生が伝わってこないような意見は、面白くもなんともない。
「色々な人の意見を聞くことが良い」などと主張する人もいるが、私は、まったくそうは思わない。色々な人の意見を聞いて、あれこれ悩んだり考えてしまうのも馬鹿げている。
その人の行なっていることに筋が通っていれば、その人の言葉にも重みがあるだろうが、そうでなければ、その意見は、自分の意見に対する責任の重ささえ感じていない気まぐれにすぎないことが多いからだ。
真摯に耳を傾けたい人というのは、5人もいればいい方で、私の場合、小栗さんは、そのうちの大切な一人。だから、新しく本の見本ができれば、まっさきに見てもらう。
ボソリとこぼれ落ちる言葉だって、かなり大事なことが秘められているから、取りこぼさないように心を集中させる。

人から意見をいただくというのは、その意見が道標になるからであって、だから、当然ながら、その人を大事にしなければいけないという気持ちも深まる。
今の世の中、意見やアドバイスをもらうのは、タダ。みたいな人がとても多くて、そのたびに、げんなりさせられる。
意見を求める相手に対してさえ、「one of them」という感覚しか持っていない人は、相手に対する誠意のかけらもないわけだが、誠意のない姿勢は自分にも跳ね返るもので、そうして姿勢で色々な人からアドバイスをもらったとしても、単なる情報の断片にすぎず、その人にとっても道標になることはないだろう。
そして、そういう姿勢は、必然的に、その人の仕事にも反映される。だから、先が見えている。その限界を突破するために、処世術を駆使するしかなくなる。
他に代替えはいくらでもあるという気持ちだと、けっきょく、一つひとつのことに魂がこもらない。そうすると、魂のこもった人間関係にもつながらない。
魂のこもらない仏を大量生産するような人間関係や仕事を重ねていっても、けっきょく、何にも蓄積されていかず、ただ時間を消費しているだけということに、現在の人間社会は、いつ気づくのだろう。
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*新刊の「みちのく古代巡礼」は、ホームページで予約を受け付けています。
在庫を置くスペースの問題もあるので、注文数に応じてオンデマンドで印刷していくという方法をとろうと思っています。
*10月25日(土)、26日(日)、東京でワークショップセミナーを行います。詳細・お申し込みは、ホームページにて。
https://www.kazetabi.jp/
