第1329回 出雲の国譲りとは何なのか? (2)

荒神谷遺跡

「出雲」は、3つのエリアに分かれる。中海の東の米子市から大山周辺と、中海と穴道湖のあいだの松江周辺、そして穴道湖の西で、出雲大社が鎮座する地域。

 出雲大社は、近畿で律令体制を築きつつある人たちによって、何かしらのシンボル的な意味合いをもって作られたものだということを昨日の記事に書いた。

 この穴道湖西地域には、もう一箇所、新旧秩序の交代時期に、何かしらのシンボル的な意味合いで設けられた、驚くべき聖域がある。

 それは、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡だ。荒神谷遺跡では、385本もの銅剣と、その場所からわずか7mのところに銅鐸6個と銅矛16本がまとめて埋められていたが、一つの聖域から出土した青銅器の数は、日本一である。

 また、ここから南東に3kmほどの加茂岩倉遺跡からは、39個もの銅鐸がまとめて出土し、一箇所から出土した銅鐸の数で、日本一である。

加茂岩倉遺跡

 この二つの青銅器埋納の聖域には不可思議な共通点があり、それぞれの場所から出土した青銅器に、「×」印が刻まれている。この印がある青銅器は、日本でこの場所だけである。

「×」印が何を象徴しているのか謎であり、埋納した青銅祭祀道具のもつ威力が逃げないようにする為などと説明されることもあるが、だとすると、他の地域の青銅祭祀道具にも、同じことが行われていい筈である。

 銅剣は、主に九州を中心として使われていた祭祀道具で、銅鐸は、近畿を中心に東は東海、西は中国四国地方の中央部あたりまで使われていた祭祀道具だったのだが、出雲の加茂岩倉遺跡から出土した青銅器が、日本の他地域から出土した青銅器と同じ型から製造されたものが数種類あることがわかっている。同じ型から作られた青銅祭祀道具の意味するところは、両地域での交流があった可能性だが、他の地域から、わざわざこの場所に持ってきて埋納した可能性も考えられる。

 もしかしたら、「×」印は、青銅器から霊的な威力が逃げないようにするためのものではなく、封じ込めて、この祭祀道具の役割を終焉させるためかもしれない。つまり、出雲の加茂岩倉遺跡は、祭祀の転換期における古い祭祀道具の墓場ではないか?

 青銅祭祀道具は、日本においては、今から2000年前をはさんで前後200年ほどのあいだに発展したものであり、西暦3世紀、古墳時代の始まりとともに用いられなくなった。

 荒神谷遺跡は、1983年、田んぼのあぜ道で一片の須恵器をひろった事がきっかけとなり、周辺を詳しく調査している段階における大発見だった。須恵器というのは、西暦5世紀になってから普及した硬い土器製品で、食べ物や酒をもって祭祀に使われ、古墳の中から数多く出土している。

 つまり、荒神谷遺跡は、古墳時代の集落跡であり、そこから弥生時代の祭祀道具が大量に出土した。

 もちろん、弥生時代の集落の上に、古墳時代の集落が築かれた可能性も否定できない。

 しかし、九州圏の祭祀道具である銅剣と、近畿圏の祭祀道具である銅鐸が、九州と近畿の中間地点の出雲地方に、整然と大量に並べて埋納されているのは、一つの時代のコスモロジーを終焉させる意味合いが強いように思われてならない。「×」印は、そのことを示しているのではないか。

 そして、3世紀後半以降、古墳時代に整えられていった新しいコスモロジーにとって、古い時代の異形のコスモロジーを象徴する聖域もまた、穴道湖の西側に存在している。

 それは、出雲大社荒神谷遺跡から7kmほどの中間地点にある西谷墳墓群だ。

 ここは、2世紀末から3世紀、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての大古墳群で、その数は32基を数えるが、この古墳群の特徴は、弥生時代に作られた6基の四隅突出型墳丘墓だ。

 四隅突出型墳丘墓は、島根から鳥取、広島の山間部、および北陸にかけて特徴的に分布する古墳だが、その中でも巨大なものが、この西谷墳墓群に集中している。

 そして、3号墳の被葬者が横たわる木棺内は大量の水銀朱が敷きつめられており、厚さ2〜3cm、総量は10kgと推計されている。また、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上と、コバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘された。発見された200を超える土器のなかには、各地の前方後円墳においても用いられた吉備の特殊器台・特殊壺が存在し、さらに、四隅突出型墳丘墓の分布と重なる北陸地方との関係が伺える土器が多い。

西谷墳墓群の四隅突出型古墳の被葬者。木棺内は大量の水銀朱が敷きつめられている。

 西谷古墳群のすぐそばに斐伊川が流れており、この上流部が奥出雲で、良質な砂鉄の産地だ。

 しかし、現時点の歴史学会の見解では、古代、日本には製鉄技術はなく、大陸から輸入した鉄素材をもとに、鍛造など鍛冶技術によって、様々な道具が作られていたとされている。つまり、古代、奥出雲の砂鉄は使われていなかったということだ。

 こうした見解は実証主義に基づいているからであり、鉱山跡や製鉄跡などの証拠が見つかってないからだ。日本における鉱山の歴史は、近年まで、考古学的には奈良時代以降だとされてきた。

 しかし、数年前、徳島の若杉山遺跡で、弥生時代に遡る水銀朱(辰砂)の採掘跡が発見された。

 弥生時代の始まりにおいて、多くの渡来人がやってきた。彼らが水田耕作を普及させたわけだが、証拠のことはともかく、普通に考えれば、当時の中国は青銅器時代から鉄器時代へと移行段階にあり、日本にやってきた渡来人が、「米」だけを持ってきたとは考えにくい。彼らがすでに所有していた各種の技術とともに日本にやってきたと考える方が自然だろう。

 島根県の出雲地方というのは、大陸から日本に渡ろうとした時に、流れ着いてしまう場所である。

 大陸からは九州が最も近いことは間違いないが、対馬海流の潮流は強く、朝鮮半島の南から船に乗っても、潮の成り行きに任せれば、島根にたどり着く。朝鮮半島の真ん中から北部であれば、九州にたどり着くこと自体が難しく、山陰から若狭や北陸の方が、上陸地になりやすい。

 しかし、四隅突出型古墳の解せないところは、同じ日本海側でも、出雲地方と北陸地方に存在していながら、そのあいだの丹後には存在しないことだ。丹後には、弥生時代に栄えた痕跡が明らかであるにもかかわらず。

 弥生時代、出雲と北陸を海を通じて交流していた勢力がいたが、その勢力は、丹後の勢力とは、異なるコスモロジーだったということになる。

 しかし、弥生時代、出雲と丹後に共通する祭祀道具も見つかっており、それは、宗像土笛だ。

 宗像市の中心部にある弥生時代の光岡遺跡から、宗像土笛というココヤシ笛をルーツとする笛の完全形が出土しているが、この笛は、北九州の宗像地域から関門地域周辺地域と、出雲と、丹後半島という限定された場所から出土している祭祀道具と考えられていて、この特徴的な笛のルーツであるココヤシ笛が、壱岐島の​​原の辻遺跡から出土している。この土笛が出土した場所として、東の端が、丹後半島の竹野であり、島根県では、松江市のタテチョウ遺跡や、西川津遺跡から出土している。

西川津遺跡

 出雲地方に特徴的な四隅突出型古墳が存在しない丹後に、出雲地方と共通する宗像土笛が存在する。この事実から、弥生時代、同じ出雲地方で、海上交通と関係する勢力であっても、異なるコスモロジーを持つ勢力が共存していたことが考えられる。

 四隅突出型古墳は、朝鮮半島、とくに高句麗との関係を指摘する専門家もいる。

 出雲のコスモロジーは重層的であるが、ある時期、なんらかの勢力が、一つのコスモロジーを終焉させた。その象徴が、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡に封じられた大量の青銅祭祀道具ではないかと思う。

 

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