古代、文字のなかった時代、「トポス」がとても重要だった。
トポスというのは、古代ギリシャ語で「場所」を意味するのだが、足場であり拠点であり、思考を進めるうえでの手掛かり、論点、定石といったものを含む。
つまり、文字のない古代は、場のコスモロジーが作り上げるイメージが、当時の人々の思考や、様々な記憶を伝える装置になっていたのだ。
歴史を知るための一つの手段が文献だが、文献には捏造もあり偽書もある。しかも、神話的な描写は解釈を間違うこともある。
もう一つの手段である考古学の成果は、歴史を紐解く上でかなり重要だが、新しい発見によって、それまでの歴史が大きく書き換えられるのが常である。
だから、文献や考古学的成果だけに依存するのではなく、トポスという記憶装置を駆動することが重要になる。近代化によって、古代の風景は見えにくくなっているものの、トポスの鍵となる地理や地勢は、古代から大きくは変わっていない。そして、他国の侵略を受けていない日本は、目を凝らせば浮かび上がって痕跡も多く残されている。
前回のエントリーで書いたように、大山津見神(酒解神)を、”酒”=”避け”の神として捉えると、さらに興味深いことが浮かび上がってくる。
京都の梅宮大社(大山津見神が祭神)の旧地ではないかと思われる京田辺の大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)は、弥生時代の”避け”の信仰を示す銅鐸の日本最大の製造拠点の二つのうち、奈良の唐古遺跡の真北、そして茨木の東奈良遺跡からは真東の位置にあるが、この大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)と、茨木の東奈良遺跡を結ぶ東西のライン上に、三島鴨神社(高槻市)が鎮座している。
ここは瀬戸内海の大三島と、伊豆半島の三島大社と並ぶ日本三大三島とされるが、”避け”の神、大山津見神が祭神である。
この三島鴨神社の西2kmほどのところに溝杭神社が鎮座しており、ここは、神武天皇の皇后ヒメタタライスズヒメをはじめ、三嶋溝杭一族を祀っている。
トポスの観点から読み解いていくと、高槻の三島鴨神社は、京田辺の大神宮跡(式内・佐牙神社旧跡)から真西、日本最大の銅鐸製造拠点であった東奈良遺跡の方向に向かって16kmのところの淀川沿いに位置するが、ちょうど中間の8kmのところが、京都の梅宮大社(祭神が大山津見神)や、銅鐸関連地の梅ヶ畑、向日山、式部谷を通る東経135.70の南北のラインである。
そして、このラインの最南端に位置しているのが、奈良県葛城に鎮座する高鴨神社であり、ここが全国の賀茂系神社の総本社である。
高鴨神社の場所は、吉野川への出入り口にあたり、奈良盆地の”避け”の神を祀るべき所としてふさわしいのだが、なぜか祭神は、賀茂氏の氏神とされるアジスキタカヒコネである。
アジスキタカヒコネというのは、記紀では、大御神と記される。大御神とされるのはアマテラスとイザナギと、アジスキタカヒコネの3神だけだ。
国譲りの前に、下見のために降臨した神として、アメノホヒとアメノワカヒコがいて、この両神は、そのまま音信不通になってしまった。
そして、神話の中で、アメノワカヒコは大国主神の娘の下照姫と結ばれ、下照姫の兄がアジスキタカヒコネになっている。さらにアジスキタカヒコネは、亡くなったアメノワカヒコとそっくりな存在として描かれる。
これだと何のことかわからない。アジスキタカヒコネとは一体何ものなのか? どこにも明確な答えが書かれていないのだが、考えるためのヒントが一つある。
アジスキタカヒコネの”ヒコネ”、すなわち近江の彦根( 滋賀県犬上郡)に、 阿自岐神社が鎮座しており、アジスキタカヒコネを祀っており、この南4kmに、全国的にも珍しいアメノワカヒコを主祭神とする安孫子神社も鎮座している。
この場所は、日本海岸の大陸への出入り口にあたる若狭湾の小浜から近江高島に到り、その琵琶湖の対岸である。周辺には、弥生時代終末から古墳時代初頭(西暦3世紀)を中心とした大規模集落遺跡の稲部遺跡があり、青銅器の鋳造工房や、当時においては日本最大級の鍛冶工房群なども見つかっている。
ここに鎮座する阿自岐神社には、日本最古の庭園のひとつといわれる古墳時代の池泉多島式庭園がある。
伝承によれば、この庭園は、応神天皇の時代、日本に漢字を伝えたとされる王仁(わに)が作ったものとされ、王仁を招いたのが阿自岐であり、阿自岐こそがアジスキタカヒコネだとされる。
古事記でも、応神天皇に王仁を推挙して日本に招いたのは、百済王の使者として来日した阿直岐となっている。阿自岐と阿直岐は、同じだろう。
阿直岐は、古事記では、5世紀のはじめ、日本に多くの渡来人を連れてきた阿知吉師(あちきし)=阿智王(アチオミ)のことだとされ、これが後に、各種の技能や技術を持った渡来人を率いる東漢氏となった。
5世紀のはじめにやってきたこの渡来人の多くが居住した場所が、奈良県の葛城であり、ここに高鴨神社が鎮座している。
だから、高鴨神社の祭神は、アジスキタカヒコネなのだ。
5世紀のはじめに来日した渡来人が伝えた技術の一つに須恵器があった。
須恵器というのは、それまでの摂氏800度くらいの熱で焼いた土器と違って摂氏1100度の高温で焼く薄い灰色の土器であり、硬く水漏れを起こさないので、酒器や貯蔵などに用いられたが、酒や食物を盛る祭祀道具として用いられることが多かった。
賀茂氏の祖の大田根根子は、この須恵器を使った祭祀と関係しており、この新しい祭祀の力で、三輪山の大物主神の祟りを鎮めたとされる。
この大田根根子の父もしくは祖父に位置付けられるのが、陶津耳命(すえつみみのみこと)であり、これが、三嶋溝杭と同じとされる。
賀茂氏の祖は、もう一つあり、京都の下鴨神社の祭神、賀茂建角身命であり、別名をヤタガラスとする。
カラスはミサキ神であり、ミサキは陸と海の境界であり、現代と未来の境界にもあたる「御先」(みさき)である。いわば預言であり、神霊の出現前に現れる霊的存在の総称である。
賀茂氏は、天武天皇の時代からは、当時の預言的呪術である陰陽道を専門とし、平安時代の安倍晴明に陰陽道を伝えたのも賀茂氏だった。
大山津見神は、別名が、「渡しの神」であり、境界に関わるという点で、賀茂建角身命と同じ性質を持つ。
奈良県の葛城の地の鴨関係の神社として、高鴨神社以外に鴨都波神社があり、ここの祭神が事代主である。
事代主というのは託宣の神とされるが、「代」(しろ)というのは「依代」もそうだが、代わりとなるものであり、「事が起きる」ことを、代わって伝えるという意味となる。事代主もまた、賀茂氏の祖神である。
日本書紀では、事代主と三嶋溝杭の娘のタマクシヒメが結ばれて、神武天皇の皇后となったヒメタタライスズヒメが産まれる。
鴨都波神社が鎮座する場所一帯は「鴨都波遺跡」という弥生時代の大規模な集落遺跡であり、この遺跡からは、銅鐸形のミニチュア土製品が出土しているが、この盆地部の西端、現在の一言主神社のすぐそばの名柄で、銅鐸と朝鮮半島製の銅鏡が一緒に埋められていた。
こうしたことを総合的に判断すると、賀茂氏というのは、カモ=カミと関わる人々であろうことは推測できるが、特定の血族というよりは、時代の変遷のなかで、新しい道具やコスモロジーを取り入れて、”ミサキ”とか、”渡し”とか、”避け”の祭祀を担い、託宣を行なってきた人々だと考えられる。弥生時代の銅鐸、古墳時代に入ってからは須恵器が、その祭祀道具だった。
そして縄文時代、青森の亀ヶ岡式土器が、沖縄を含め全国的に流通していたが、その中に酒器のような土器もあり、邪霊を祓う”酒=避けの神”は、縄文時代から海人ネットワークによって各地に伝播していたのだろう。
事代主とか三嶋溝杭とか大田根根子とか賀茂建角身命は、人物名や神の名というより、こうした祭祀に関わる職務の名と考えた方が理解しやすい。
奈良の葛城の地で、これを司っていたのが事代主で、淀川流域の三島地方で、これを司っていたのが三嶋溝杭だ。
日本書紀では、事代主と三嶋溝杭の娘ヒメタタライスズヒメが産まれ、神武天皇の妃になるので、この二つの祭祀は一つになった。
”ミサキ”や”避け”の神の祭祀者の娘が神武天皇の皇后になるという物語は、大山津見神(酒解神)の娘のコノハナサクヤヒメが、天孫降臨のニニギに嫁ぐのと同じ構図であり、神話は、同じ内容のことを、違う形で説明している。
クニを治めるために(日本全土という意味ではなく、限られた地域の共同体)、新たな知識や技術とともに新たなコスモロジーが導入されるが、邪霊を防ぐ”避け”の信仰は継続しており、その方法と、場所が少しずつ変わっている。
第26代継体天皇は、即位した後、ヤマトの地に入らず、京都の南地域の三箇所に宮を築いているが、添付した地図を見ればわかるように、いずれも、”避けの神”と関連した場所である。
さらに、継体天皇の墓である高槻の今城塚古墳は、三島鴨神社から西北5kmのところにあるが、古墳から1.5kmのところにも鴨神社が鎮座しており、大山津見神と、賀茂氏の祖として賀茂建角身命が祀られている。
新羅と対抗する必要のあった当時の日本で、突如、天皇の即位することになった継体天皇のミッションは、新羅征伐の兵を送ることと、国内を一つにまとめあげることであり、そのためには、クニの内側と外側を明確にする”避け”の神の祭祀を整え直すことが重要だったのではないだろうか。
天孫降臨のニニギが、大山津見神の娘のコノハナサクヤヒメと結ばれるという神話秩序の創造は、そのことを端的に示している。
平安時代の嵯峨天皇の時に作られた『新撰姓氏録』では、三島県主後裔の三島宿禰(右京神別)と賀茂県主(山城国神別)は同じ祖先と伝えているので、賀茂建角身命と三嶋溝杭は同じである。
大山津見神という”避けの神”は、この祭祀者に奉斎されていた神ということになる。
伊豆半島の南端に、伊豆國賀茂郡 伊古奈比咩命神社(静岡県下田市)が鎮座している。白浜海岸の巨岩(大明神岩)の上、海の向こうの島々を遥拝する鳥居が立っている。社伝によると、三嶋神(大山津見神)は南方から海を渡って伊豆に至り、白浜に宮を築いて伊古奈比咩命を后として迎えた。その後、島焼きによって、神津島、大島、三宅島、八丈島など合計10の島々を造り、三宅島に宮を営んだ後、下田の白浜に還ったとされる。
また、愛媛の大三島に鎮座する大山祇神社の境内に葛城神社が鎮座している。この葛城は、賀茂氏発祥の奈良の葛城のことである。
そして、大三島から四国にわたった今治市玉川町は、古代、越智郡の「鴨部郷」だった。作礼山の頂上に仙遊寺があるが、その麓に10社ほど、大山津見神を祀る三島神社がある。
さらに、今治の隣の西条市にも賀茂郷があって加茂川のほとりに加茂神社が鎮座し、ここは賀茂社領だ。広島側の竹原にも賀茂川が流れ、賀茂神社が鎮座し、ここも賀茂社領である。そして四国と広島の「賀茂」をラインで結ぶと、そのあいだに、大三島がある。
また、賀茂氏の役小角は、伊豆に流される前に、今治の豪族、越智玉興に迎えられ、この地を訪れ、楢原山の山頂に、奈良原神社を創建したとされるが、この場所から、平安時代末期の全長71.5cmの銅宝塔などが出土し、国宝指定された。
このように見ていくと、四国の今治や西条、広島の竹原など四国の大三島周辺は、賀茂氏の影が濃厚だ。
この場所は、西からやってきた船が瀬戸内海を通る時の境界線であり、ここに酒=避けの神が祀られるのは必然だろう。
また伊豆半島もまた、黒潮に乗って東に向かう時の境界にあたる。
そして、日本三大三島のもう一つ、高槻の三島鴨神社の場所は、淀川を通って畿内の中枢である山城や大和の地に入っていく際の境界という位置付けであり、だから、ここにも、賀茂の祭祀者によって、避けの神(大山津見神)が祀られているのだろう。
賀茂の祭祀者は、三嶋溝杭=賀茂建角身命=陶津耳命=大田根根子の父もしくは祖父ということになる。
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3月25日(土)と26日(日)、午後12時半から、京都の梅宮大社に集合し、フィールドワークを行なったうえで、私の事務所で、ワークショップセミナーを行います。(それぞれ1日で完結)