第1315回 世間と渡り合う術を持つこと

このたび、写真家の新田樹さんが、「Sakhalin」という作品で、林忠彦賞と木村伊兵衛賞のダブル受賞をされた。

 写真界の賞で、同じ年のダブル受賞は珍しい。(これまでは、できるだけ違う人を選ぶ、みたいなおかしな風習があった)。

 林忠彦賞は予測できたが、木村伊兵衛賞は、この20年くらいの受賞作がコンセプチュアルなものや心象風景のようなもの、広告に使えそうなもの、と感じるものが多かったので、それらとは異なる新田さんの受賞は、うれしい予想外だった。

 新田さんの受賞作は、サハリンに暮らし続ける残留日本人や朝鮮人を丁寧に取材し続けたもので、美しいドキュメントではあるが、写真家のスタンスとしては、鬼海弘雄さんやエドワード・カーティスなどに通じるもので、近年では、奥山淳志君の「弁造」の写真集がそうだった。

 自分の表現の材料として他者(風景も含めて)を利用するのか、表現を通して他者の内側を引き出すことを心がけるのか。

 前者は、20世紀までの消費世界と相性の良い自己表現文化の範疇で、鬼海さんに代表される後者こそが21世紀にあるべき表現者のスタンスではないかと以前から私は思っている。

 前者の写真は、スマホカメラで撮ったものがそこらじゅうに溢れ、いいね!の数を競い合って消費されており、こうした現象は、この種の表現の最終的な末期的現象だと思う。(そうした自己主張世界で上にあがりたいものが手本とする人が人気を集めているだけ)

 昨年の夏、笹本恒子賞の選考をした時に、新田さんの「Sakhalin」を見て、これはいいと思って推したのだが、笹本恒子賞は作品賞というより作家賞で、これまでの継続的な作家活動を評価するという意味合いが強い。そのため、漁業、狩猟、捕鯨など、人と野生の関わりをテーマに幾つもの作品を積み重ねてきた西野嘉憲さんの受賞となり、新田さんは次点となったが、新田さんの評価は時間の問題だろうと、選考委員の野町和嘉さんや前川貴行さんとも話していた。

 その時、新田樹さんの「Sakhalin」の写真集の奥付を見たら、印刷会社の名前が、私が使っているネット印刷のグラフィックだったので驚いた(紙が違っていたので気づかなかった)。ちょうど野町さんが写真展に合わせて「シベリア収容所」の写真集を作ろうとしていた時だったので、「低価格のネット印刷でもこれだけのクオリティが出せますよ」と、この方法を推薦した。

 新田さんに連絡したところ、デザインレイアウトも自分でやったらしく、初めてのことで、文字が小さすぎるとか、ちょっと失敗もあり、苦労もしたとのことだったが、私が注目したのは、写真の組み方が、とてもいいことだ。

 写真家が自分で組んだ写真集の方が、デザイナーまかせにしたものよりもいい、というのは、私の以前からの持論だ。にもかかわらず、多くの写真家がデザイナーまかせにしているのが残念でならない。

 私は、自分で言うのもなんだけれど、写真家の側のスタンスで写真を組んできた。写真家自身も意識していなかったかもしれない写真の声に耳をすませるようにして写真を構成してきた。

 私は、風の旅人を作っていた時代も、他人に構成させないと言われるジョセフ・クーデルカの写真を数十ページ組んだ時(風の旅人の第48号「死の力」)や、セバスチャンサルガド「Genesis」を世界で最初に大々的に特集した時(13号、「生命系と人間」)、他人が組むのが難しい写真である古屋誠一さんなど全て、私が組むことになったが、それは、彼らが、まずは試しに私にやってみろと言い、彼ら自身が、自分の写真がどう扱われるか、冷静に判断する余裕があったからだ。結果的に、私が組んだとおりにやらせた頂けた。

 といっても、私は自分の組み方が特殊だとは思っておらず、だから、現在行なっているポートフォリオレビューに来た写真家の写真を目の前で組んでレイアウトしていく時、彼らの納得感を確認している。

 「この写真とこの写真を合わせるより、こちらの方が、お互いの写真の内なるものを引き出すよね」などと話しながら。

 そうすると、大概の人は、その方がいいとか、ダメだとか、わかる。だから、センスが無いわけではなく、やろうとしていないだけなのだ。

 自分でやっていけば、感覚が研ぎ澄まされてくるから、その速度や適切さも増すだろう。私も、膨大な人の写真家を相手にそれをやってきたので、かなり早くできるようになった。

 多くのデザイナーは、見た目の色でそろえたり形でそろえたりする人が多く、写真が内在しているものを引き出す構成をしているケースは、非常に稀だ。写真家の内面や被写体との関係性に意識が届いていない。だから、写真家自身がそれをやった方がいいと思って、今年から、写真集制作のためのポートフォリオレビューというのを始めたのだ。

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 私が使っているソフト(アドビのような高額なものではない)でデザインレイアウトして、一冊の本の形にして、ネット印刷で写真集を作るという流れ。

 多くの写真家や写真家予備軍が、300万円も400万円も出費して、共同出版という名の自費出版をさせられている現実。共同出版系の出版社や印刷会社から、「素晴らしい写真なのだから、写真集も質の高いものにしましょう、後世に残るものにしましょう」などと持ち上げれ、だったら出版社や印刷会社が費用を持てばいいのに、写真家にお金を出させ、写真家がお金を持っていないと、クラウドファンディングを勧めて、集めたお金を吸い上げるという構造に対して、私は、非常に憤りを感じている。

 その憤りというのは、出版社や印刷会社に対してでもあるが、あまりにもナイーブな写真家や写真家予備軍に対しても、それを感じるのだ。

 表現者は世の中のことに疎くてもいいと、どこかで諦めたり開き直っていないだろうか?

 2008年に、私は、「世間と渡り合うこと」という内容で、ブログに文章を書いた。

http://  https://kazetabi.hatenablog.com/entry/20080528/1211944084

 

 新田樹さんが、この時の文章をずっと意識し続けていると言うので、私も久しぶりに読んでみた。

 こういう内容のことを書いたのは覚えているし、今でも同じ考えだけれど、この時からもう15年も経ってしまっているのかと愕然とする。

 これを書いたのは、2011年の東北大震災よりも前だ。あの時から、時代は、少しは変わってきているのだろうか? 

 ようやく変わり始めているのだろうか?

 新田樹さんのダブル受賞が、その変化の兆しならば、とても嬉しい。

 

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