第1303回 われらの時代の終焉(2)

私は、ここ数年、20年前の印刷技術革命よりさらに進化した新しい印刷方法によって本を作り続けていて、その方法も公開し、友人の写真家にも伝えているのだけれど、彼らの腰は重い。

 写真業界に比べて新しいことに柔軟なのがアニメの人たちで、彼らはこの新しい方法で自分の表現物を作って世界最大の同人誌即売会、つまりコミックマーケットで売り、新しい交流の中で刺激を受けて触発されて、より新しい物を次々と生み出していて、活気に満ちている。

 現在の写真家(多すぎて、どこまで本物かわからない)は、同人誌とか自費出版よりも、出版社に本を出してもらった方が偉いと思ってしまっている権威思考=志向の人が、わりと多い。(表向きは違っても心のなかではそう)

 だから、他に商売の種がなくなってきている出版業界は、そうした「見栄の強い人たち」を餌食にして、高いお金を出させて共同出版という名の自費出版をさせる。最近では、お金のない彼らにクラウドファンディングでお金を集めさせている。

 そんなことをせずに、もっと安く作れるよと私が言っても、耳を傾ける写真家は一握り。その点、アニメの人たちは、「権威」的ではないから、そういう新しい情報を共有して、新しい方法で次々と本を作り、コミックマーケットに参加している。

 冒頭、私は、現在起きつつある印刷技術革命に対して、「進歩」ではなく「進化」という言葉を使った。

 2月11日と12日のワークショップセミナーでも伝えたのだけれど、人間は、一つの情報ツール(言語)を共有すると、500年くらいでピークに達して、その後は、行き詰まる。

 中国においては3000年前に周が漢字を実用的に使いはじめて、2500年前に孔子荘子老子が出た。地中海では3000年前にフェニキア人がアルファベットを発明して2500年前には哲学者たちが大勢出た。

 日本では、1500年前に、訓読み日本語が発明され実用化が始まり、1000年前に国風文学が生まれ、源氏物語を書かれた。

 なぜか、たった500年で、ピークに達している。

 そして、現代の特有の「情報ツール」が、いつ始まったかというと、西暦1450年頃のグーテンベルク活版印刷技術の発明の時だ。

 大量印刷がその時に始まった。大量印刷というのは、一つの出来事を、一瞬にして大勢が共有する力になる。大航海時代の到来も同じ時代であり、この「標準化」という思考が、全世界に伝わり、広まり、根を張っていって500年が経った。

 「標準化」の思想によって、自分が周りと比べて取り残されているんじゃないかとか、ファッションについていけているかとか、いろいろと、周りの目を気にする思考特性も広がっていく。だから、そこに付け込むビジネスも生まれる。

 このように「標準化」の時代だから、メディアは、王様になれたのだ。

 たとえば、芸術家なども、現代ではメディアに取り上げられると立派に見える。標準化の前の時代はそうではなかった。たった一人の有力者のパトロンに支えられていた天才芸術家は多くいた。

 そういうパトロンは、教養もあったし、本物を見極めるための目も持っていた。けっきょく、そういう芸術家の作品しか後世には残らなかった。

 20世紀、出版社が力を持っていたのは、「印刷」と「流通」を牛耳っていたからだ。そのため、自分の表現を世の中に伝えたい優秀な人を自分のまわりに集めることができた。

 戦後、講談社小学館は、全国の書店ネットワークを構築したのだ。セブンイレブンのように、資金の足りないところにはお金を貸して。

 そのネットワークが、出版社の権力と権威を作った。

 しかし、古代でもそうだったように、人間は、一つの傾向を持つ情報ツールを使っていると500年ほどでピークに達し、その後は、行き詰まる。

 小説でいえば、ドストエフスキーを超えるものは、その後、生まれなくなった。

 どの時代も、行き詰まった悶々とした状況がしばらく続いて、次のステージに移ってきた。古代ギリシャでいえばアリストテレスの登場だが、彼の哲学は、それまでの哲学者のような原理と真理の追求ではなく、あらゆるものを体系的にとらえる「万学」である。

 日本では、小説文学は、川端康成も言うように、1000年前がピークであり、その後は、物事を丁寧に観察するスタイルではなく、道元など、「身心脱落」の文学が創造される。

 500年前に生まれた活版印刷が生んだ思考特性は、インターネットによって受け継がれた。

 インターネットは、前時代の「標準化」を、より強く強要する情報ツールでもある。しかし、同時に、次の時代の架け橋でもあり、「標準化」の圧力から自由になるための情報ツールでもある。その特性を認識していないと、インターネットの負の側面に翻弄されるばかりとなる。

 グーテンベルクの印刷革命によって始まった「情報の標準化」は、20世紀にはピークとなり、その矛盾も明確となった。ここから転換していく21世紀以降の思考特性のテーマは、「標準化」の圧力から自由になるということであり、そうした変化の時には、新しいツールが生まれている。

 私が行っている新しい本の作り方、印刷方法、流通のさせ方もそうだ。

 コミックマーケットに集まる人たちが行っている方法もそうだ。

 いっさいの権威、標準化の圧力から解放された自由な新しいやり方。

 私は、写真界に友人が多く、新しい時代を切り開いてほしいと期待する人たちなのに、アニメの世界に比べて、かなり保守的で、権威に弱くて、辛い状況をさらに辛くしているのが悲しい。

 それは、カメラという装置が、20世紀までの思考のベクトルであった標準化を、より促進させる道具でもあるからだ。

 その極点がスマホカメラだ。スマホカメラを使えば、素人でも、これまでのプロと変わらない綺麗な写真が撮れる時代であり、差別化が難しい。本当ならば、鬼海弘雄さんのように、被写体との向き合い方の深さで自分の表現の固有性を築くべきなのに、自らの権威付けによって差別化をしようとする人が出てくるのも仕方ない。覚悟や忍耐の深さが違いすぎるから。

 しかし、いくら権威づけても、アウトプットされている写真を冷静に見れば、無名の人がスマホカメラで撮ったものと変わらなかったりする。なんとか賞の受賞作と騒いでいても、ワインのブラインドテイスティングと同じようなことをすれば、化けの皮がはがれるだろう。

 共同出版で出した本を、いろいろな賞にノミネートさせたり受賞させて、それをセールストークにして無垢の写真家に働きかけて共同出版という名の自費出版をさせるビジネスモデルを考える人がいるが、それは、ビジネスマンとしては何も間違っていない。もともと、写真のことなんか、本気で考えていないのだから。

 そうしたビジネスが、写真の未来において、害があるかといえばそうとは限らず、そういう行為の虚しさを知る最後通達となるきっかけだと考えれば、その役割を果たしているということになる。

 インターネットの普及で、商店のパンフその他の印刷がなくなり、ネット印刷の台頭もあり、古いタイプの印刷会社は経営が苦しい。そのなかで、時代に取り残されている写真界に目をつけ、写真集の共同出版のビジネスモデルに参入しようと考える頭のいい経営者が現れることも、企業の生き残りのために自然なことだ。しかも、自社で印刷機を持っているため、それを有効に使わないと経営が圧迫されるし、共同出版市場への後発であっても、自社で印刷機を持っていることは有利であり、シェアを奪える可能性がある。

 そのためのステップとして、まずは写真界におけるブランディングが必要で、名前の知られている古い写真評論家をアドバイザーにして箔をつけたり、ギャラリーを作って写真展を開いたり、写真専門の雑誌を発行することも、やり手の経営者なら考えそうなことだし、ビジネスとして考えれば当たり前のことだ。雑誌やギャラリーが少しくらい赤字になっても、共同出版という名の自費出版の数を増やすためのセールスプロモーションと考えれば安いもの。私が、そうした印刷会社の経営を引き継がなければいけない立場なら、同じことを、もっと大々的に、もう少し考えて、やるかもしれない。(かなり昔に、旅行事業で、そういうことをやったように。)

 企業のビジネスのことは、どうでもよいのだが、悲しいのは、お金に余裕があるわけではない写真家やその予備軍が、ビジネスターゲットになってしまっているということ。

 しかし、これは、時代遅れの彼らにも原因がある。新しい時代を切り開いて欲しいのに、なぜか写真をやっている人には時代遅れの考えを持っている人が多い。

 つまり、世間のことを、あまりにも知らなさすぎる。無垢というかナイーブというか。世間のことをよく知らないことが純粋に作品づくりに打ち込んでいる証拠とでも思っているのか、自分が撮りたい写真を撮り続けて、お金をかけてでも本にして、世間に発表することが、正しいことだと思ってしまっている。

 「そうではないんだよ」という私の言葉に身を乗り出すように乗ってくるのは、今は、大山行男さんだけ。(笑)。

「写真表現のためのワークショップ」みたいなことは、風の旅人を出し続けていた時から、要望があってもやらなかった。「風の旅人賞」などの設定も。

 そういったことは、古い時代の「標準化」の発想の延長だと思うからだ。

 固有であり、かつ自由でいるためには、相当な覚悟がいるし、それを実現可能にする仕組みづくりも必要になる。

 「好きなことをやっている」とか言いながら、けっきょく、権威とか旧来の仕組みに従属しているのは、まったく自由ではないし、当然ながら、唯一無二ではない。

 20世紀までは、石の壁を作る時に、設計図に基づいて切りそろえた石のピースを組み合わせていた時代。

 21世紀からは、石工の仕事のように、大きさも形もバラバラな一つひとつの石を見事に組み合わせて、より強固な石壁を作っていくベクトルこそが救いとなる時代。

 そのようにできあがる石壁は、どの石壁も同じものはない。あらかじめ決められた設計図や、標準化の圧力や、権威や古い仕組みへの従属とは無縁の融通無碍の境地と、一つひとつ異なる部分を絶妙なバランスで組み上げる固有性の融合こそが、真の自由であり、それ以外の口先の「自由」は、すでに80年前にエーリッヒフロムが唱えた「自由からの逃走」の延長でしかない。

 標準化の流れに巻き込まれない気持ちを持っているだけではダメで、自律(自立ではなく自律。自分で規範を立てることが重要)の手段を持たなければ、自由から逃走し続けるばかりで、救いがない。

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