第1304回 われらの時代の終焉(3)

 現在、私が行っているワークショップセミナー「現代と古代のコスモロジー」でも、重要な鍵を握るテーマなのだが、私は、ブリコラージュ型の思考や仕事と、エンジニアリング型の思考や仕事について意識的に話をしている。去年の11月に行ったスタンフォードの学生向けのレクチャーも、これがメインのテーマだった。
 私は、「あなたは何をしている人ですか?」と問われたら、「編集」と答えたいのだけれど、「編集」に対して、あまりにも狭い範囲の仕事内容で処理してしまう人が多いので、「風の旅人 編集長」と、境界がボヤけるような返答をする。そうすると、風の旅人とは何なのか?という問いが残るからだ。
 風の旅人は、2015年10月に第50号で終わっているが、創刊者も私だし、他の雑誌と違って、私以外に編集長はいないから、それでいいだろうということで。
 世の中には、「編集者」という名刺を持つ人は無数にいる。また、「アーティスト」や「写真家」や、「学者」もそうだ。それらを一括りにして「先生」と呼んだりする奇妙な現象もある。
 けっきょく、こうした現象も、標準化であり、画一化である。
 その人、それ自体が、何を、どの深さでやっているか?ということが、問われていない。こうした状況は、エンジニアリング的発想の行き着く先だ。
 どういうことか、もう少し詳しく説明すると、たとえば、一つの壁を作る時に石材が必要だとすると、壁の大きさや場所などから判断して、必要な大きさのピースを、必要な数だけ集めて作る。つまり、各部分は、”計算”によって集められる。ピースの固有性や個性は、どうでもよく、全体を構成するための材料でしかない。これがエンジニアリング的発想で、そのようにして出来た壁の大きさやキレイさを競争し、自慢し合うことが、現代社会の特徴なのだ。
 これは、個人のPRにおいても同じで、経歴や賞歴などを並び立てるのは、自分という壁全体を大きく見せたり、美しく見せる発想と同じで、個々にやってきたことの固有性は、問われていない。
 表面的に整えていても、本質的に、何をやっているのか、何をやろうとしているのかが、伝わらない。”計算”で、ピースを集めているだけだからだ。
 これは、いろいろなところで行われているイベントなどでも、よくある方法だ。
 コンセプトを決めて、そのコンセプトにそって、ネームバリューのある人を集めて体裁を整える。賞の選考委員なんかもそう。
 もちろん、雑誌づくりなども同じで、”計算”つまり、”打算”で、設計図にもとずいてピースを集めていく方法が、エンジニアリングの方法だ。
 そして、多くの人は、「編集」という仕事は、このエンジニアリング的な発想でピースを集める人のことだと思っている。
 私が、風の旅人や、それ以外の本を作ったり、プロジェクトやイベントを行う場合は、これとはまったく違うアプローチとなる。
 その方法は、一つの壁を作る時に、計算して切りそろえたピースを積むのではなく、石工の石垣作りのように、一つひとつ、形も大きさも違う石を、それぞれがどこに置かれるべきか石に耳を傾けて、積んでいくという方法をとってきた。
 寄せ集め=ブリコラージュの発想であるが、なんでもいいから寄せ集めるのではなく、その場に耳を傾け、そのあとで石に耳を傾け、その場とマッチする石を計算ではなく直感で選び、選んだ石とうまく組み合わさる石を選びとって、さらに組み合わせていく。
 現在、私が行っているプロジェクトの「古代のコスモロジー」においても同じで、歴史の専門家の学説は、彼らが所属している学会などのルールに従って、切りそろえられている。学会全体として大きくて見た目のよい壁を作ろうとして、一つひとつの研究発表なり学説は、その材料でしかない。
 私が耳を傾けるのは、時代環境のなかで標準化し、均質化させられた彼らの学説でなく、たとえば近年の考古学調査で出土してきて、まだ説明がなされていない物それ自体だ。
 時間が止まってしまった日本の20年は、実は、新たな考古学発見が相次いでいる期間でもある。
 高度経済成長の時にはありえなかったはずの、3年くらい工事を止めての発掘調査が、きちんとなされている。
 たぶん、経済成長の時は、土器の破片が出ていても無視されて、ゴルフ場や高速道路が作られてしまったのだろうと思う。
 幸いなことに、そのように新しく出土した物たちは、意味付けされることなく、それぞれの地域で報告書がまとめられており、インターネットで見ることができる。
 特に難しいことではなく、たとえば私は、初期の前方後方墳と後期弥生時代との関係が気になっているが、初期の前方後方墳のある場所の地域名と「弥生遺跡」という言葉をインプットするだけで、PDF化された発掘調査の報告レポートにアクセスすることができる。
 「条件付け」で、眠っているものを引き出せるということが重要なポイントであり、実は、未来のコンピュータである量子コンピューターは、この条件付け(アルゴリズム)が、もっとも大事なのだ。
 インターネット空間の中には、0か1になるか決まっていない膨大な情報がある。まずはその全体像と向き合って、条件付けによって、0か1かを確定させていって繋いでいって解を求めていくのが量子コンピュータのアプローチであり、これは、ブリコラージュ的発想と同質のものだ。
 それに対して、古典的コンピューターというのは、エンジニアリング的発想に基づいており、古代のことについて解を求めていく場合、一つひとつの論文学説を精査し、0か1かを確定させていく。その際、前提として仮説があり、それを実証するというスタイルをとる。仮説と実証がうまくいっていれば1とし、ダメならば0。その1を積み重ねていくことで、仮説を実証する強度を増していくという方法をとる。これは、犯罪者の有罪を確定させていく時に使う手と同じだ。
 しかし、仮説の検証としてうまくいっていない論文の中に、たとえば出土した物で、とても重要な鍵を握るものが記述されていたりするのだが、その重要性が無視されて闇に葬られているということがある。
 たとえば石垣を作る時に、小さな断片があっても、役に立たないだろうと捨てずにおくと、大きな石と石のあいだを埋めるものとして最適であるということがあり、結果的に、石垣を強度なものにしてくれる。
 エンジニアリング的発想が陥る罠は、ここにある。正しそうなものだけを集めて、結果的に、大きな間違いにつながってしまう。
 現在、世界的に話題になっている人工知能、チャットGPTも、エンジニアリング的発想で作られているから、大きな間違いにつながるのに、それが強い説得力で伝えられてしまう可能性がある。
 具体的には、健康の問題などがある。カルシウムとかビタミンCとか、健康のために必要だと証明されているものを、エンジニアリング的発想の人間は強く意識している。
 しかし、石組みの論理と同じで、立派な石と石のあいだをつなぐ破片のような小さなものがなければ、その石垣は崩れてしまう。
 エンジニアリング的発想は、何の役に立つかわからない小さな断片を最初から切り捨ててしまう。だから、そういうサプリメントは存在しない。そして、ビタミンCやカルシウムのサプリメントばかり摂取している人がいる。健康におけるこの発想は、かなり危うい。
 「身体に必要な栄養素をバランス良く含んだ食事」というのも問題で、一つひとつの素材は、確かにそれを含んでいるかもしれないけれど、それを消化することができるかどうかは、人間の身体の側の問題だ。
 今、私が書いているような「問い」に対する「解答」は、チャットGPTが、スラスラと、それらしく答えを出すことが得意の分野だ。なぜ、得意なのかというと、そういう言説がすでに出回っているからであり、その間違った言説を、チャットGPTは集約化し、強化する。
 しかし、パプアニューギニア人は、タロイモだけ食べていても強靭な身体を持っていたことを私は知っている。そば粉を主体としたインジャラを食べていたエチオピア人に、支援物質という戦略で、結果的に小麦を売りつけた欧米。あの国で、栄養不足の問題が生じるようになったのは、それからだ。
 ゴリラや像は、栄養のバランスなど考えず、草だけを食べて、あの身体を作り、維持している。
 栄養は、与えられるものの問題ではなく、引き出す側の問題だ。引き出す側は身体であり、そこに何の働きをしているのかよくわからない微生物も含まれる。
 エンジニアリング的発想は、そうした、「よくわからないもの」を無と捉える。
 私にとって、風の旅人という媒体の編集は、ブリコラージュの発想で世界を再編成することだった。
 古代のコスモロジーのプロジェクトも同じで、学会など関係なく、私自身のブリコラージュの方法で、古代を再編成することを目指している。
 作り手側の論理によるのではなく、向き合っている対象のなかに潜んでいる何か大事なことを引き出すこと。その引き出す方法は、石工の方法と同じで、組み合わせていくことで最適化をはかる。これは、経験を積めば、実際にあれこれ組み合わせる前にわかるようになってくる。石工にとって、石の声が聞こえるというのは、そういう境地だろう。
 私の場合、石工と同じように、長年の経験で写真の声は聞ける。だから、写真の編集は、あれこれ考えずに、あっという間にできてしまう。実際に、そのようにして風の旅人も、写真集も作ってきた。
 古代のことについても、いろいろな場所に潜んだ声が、少しずつ聞こえるようになってきた。霊感のある人のように一つの場所にじっと立っていれば聞こえるのではなく、私の場合、他の色々な場所を訪れる時に、かつて訪れた場所との関係で、聞こえてくる。 
 つまり組み合わせなのだ。
 古典的コンピューターが一番苦手としていることは、組み合わせの最適化であり、たとえば新薬開発とか、宅急便の配達ルートなどがあるが、量子コンピュータは、その組み合わせ最適化に向いたコンピュータだと考えられている。
 身近なところで、健康に関して言えば、専門家が主張する栄養素を摂ればいいのではなく、身体に耳を傾けて、その声に従って、食事やそれ以外のことの組み合わせの最適化を自分で整えていくことであり、これは、世間の標準化された案には当てはまらず、自分固有のものであり、それができる人が、健康に年をとっていけるだろう。
 これこそが、まさにパラダイムシフトであり、コスモロジーの転換につながるポイントではないかと思う。

 

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