第1372回 生成AIと人類の未来について

 ソフトバンクグループの孫正義会長は、ディベート相手として毎日 GPT-4版のChat GPTと議論を重ね、そこで生まれたアイデアを特許として申請し、集中した日は1日30件、今月中には1000件を突破するのだという。Chat GPT内での議論は、会社の役員とのディベートよりも、(話が深まる)、そして安く使えるとまで言っている。

 なるほど、このような人に、このような使い方をされることで、生成 AIは、一般人には理解できないほどのスピードで、進化を続けていくということがわかった。

 生成AIは、孫正義と毎日議論することで、孫正義の見識や経験や知識を取り込んでいく。そして、生身の人間ならば、日々覚えたことの大半を忘れて、何度も繰り返さないと身につかないが、生成AIは、一度で全てをきちんと記憶する。短期間のうちに、孫正義にとって最も有能な部下になることは間違いない。さらに、その孫正義によって最も有能な部下は、同時に、他の会社の超エリートの最も有能な部下になって情報交換をできるのだから、手に負えない。ビジネスでは最強の戦士となるだろう。

 いわゆるホワイトカラーとか、役所の窓口の応対とか、テレビの天気予報やニュース解説や識者のコメントなど、誰がやっても大して変わらないような内容を正確に伝えるという日本社会で半分以上を占めているような仕事は、遠からず生成AIに切り替わることはわかっていた。さらに、弁護士とか司法書士とか産業用の翻訳など、正しい答が明確に定められている分野で、その知識や情報量がプロフェッショナルの証になるような分野も、いずれ取って代われるだろうとは思っていた。

 孫正義氏の話だと、常に流動化している世界の中で新しい情報知識を更新していかなければいけないビジネス分野においても、その分野の精鋭がChat GPTを使うことが当たり前となれば、その精鋭たちの頭脳が、そのままChat GPTに反映されていくということになる。

 しかし、この流れに乗れない分野もある。伝統とか歴史とか、いわゆる頭の硬い分野だ。

 頭の硬い分野は、積極的にChat GPTを使わないから、Chat GPTに情報が集まってこない。仮に集まってきたとしても、旧態依然とした頭の硬い情報か、ネット上で流布するいかがわしい情報。

 本当は、Chat GPTが掬い上げていけば、もっと楽にたどり着ける大事な情報がたくさんあるのだけれど、旧態依然としたシステムが、それを阻んでいる。

 たとえば、この数十年で、目覚ましい成果をあげている考古学。それらの成果は、きちんと論文になっている。今では、インターネットでそれらの論文を読むことができるので、かつてに比べれば、短時間のうちに多くの新しい情報に辿り着けるようになっていることは間違いない。

 比較するのもおこがましいが、本居宣長よりも、今を生きている私程度の者の方が、日本の古代のことを様々な角度から知ることができる。

 しかし残念ながら、それらの情報は、PDFを貼り付けているだけで、web言語化されていない。考古学的発見の論文などの書き手は、その発見の歴史的な意味を理解しないまま、事実証拠として書き記すだけであり、本当は、そこから議論がどんどん活性化していかなければいけないのだが、PDFを貼り付けている現状を見ればわかるように、元原稿は紙であり、その紙を、学会報告とかシンポジウムとか、どこかの機会に持ち合って、報告程度で終わる。しかも、その紙の論文は、重要なこと以外も形式的に色々盛り込むことがルール化されているので(なぜ、この調査が行われたかとか、そこに到るまでの事情とか、他の誰それがこう言っている類の引用とか)、一つの報告に対して議論を深められるような時間は、学会報告とかシンポジウムにはない。そのように、そのままPDFのまま放置されているような新しい情報が山ほどある。

 ビジネス最前線なら、もっと簡潔にまとめろとか、Web上で共有できるようにしろとか、能書きはいいから結論はどうなんだと叱り飛ばされて、ブラッシュアップされるだろうし、そういう磨きがかかったものであればあるほど、生成AIにとって、おいしい御馳走になるが、PDFで貼り付けられた旧態依然とした様式のものは、おそらく生成AIでも消化しずらい。

 試しにこの種のことを尋ねても、ちんぷんかんな答えになる。

 だからといって可能性がないわけではないが、生成AIに自分の権益を侵される可能性のある努力を、頭の硬い人たちが積極的に行うとは思えないし、ビジネス最善線のように、自分にリスクがかかることを覚悟で取り組まなければ自分も生きていけないという危機感を持っている頭の硬い人など存在しない。

 しかし、生成 AIは、こうした人間のちっぽけな自己保身の壁など軽々と突破していくだろう。

 だからといって、この先の人間の未来が、生成AIに支配されるかというと、私はそう思っていない。

 この変化は、エンジニアリングからブリコラージュへの移行にすぎないと、私は思う。

 エンジニアリングというのは設計思想で、ブリコラージュは、ウィキペディアなどでは「寄せ集め」などと説明されるが、単なる寄せ集めではなく、レヴィーストロースが説いたように、生命原理としての寄せ集め。私たちの体にしても、ミトコンドリアをはじめ、人類誕生の前から存在していたものの見事なまでの寄せ集めの結果であり、まず最初に設計図があって、それに基づいて部品を作って、その部品を組み合わせたものではない。

 「未来をエンジニアリングする」などという嘘の言葉があるが、エンジニアリングというのは、現時点で自分がもっている知識や情報や経験や価値観をもとに設計するわけだから、作る時点よりも先に進まないということであり、それは未来ではなく、現在のコピーだ。

 ブリコラージュというのは、城の石壁のように、作り出す前には想定していなかったことが、どんどん組み込まれていく可能性に満ちている。未来というのは、走りながら考えるという、常に新しい局面が訪れる連続状態のことを言うのだろう。

 建設現場を監督するために現地に行って、設計図どおりに事が進んでいるのかどうかを確認し、最終的にその通りに出来上がった状態は、未来ではない。

 20世紀というのは、新しいことが次々と登場し、風景が変わり、日常も変わっているように思われていても、なんだか本質的に同じことを繰り返しているような感覚にとらわれていた。その同じ感覚というのは、けっきょくのところ、時間を消化しているという感覚で、これが、エンジニアリング的世界が導く典型的な感覚なのだ。

 もっとわかりやすくいえば、パッケージ旅行が、典型的なエンジニアリング的世界である。

 出発する前から、全てが決まっていて、その内容をスケジュール通りにこなすこと。

 パッケージ旅行で、数多くの国を訪れると、いろいろと新しい風景を見たり、珍しいものと出会ったり、変わったものを食べたりして、それなりに多くのことを積み重ねているように感じながらも、時間を消化しただけのような感覚もつきまとう。

 自由旅行を一度でも深く体験した人は、その違いがわかるはずで、訪れた場所で出会った人から得た情報をもとに街のレストランに行ったり、次の訪問地を決めたりして、当初は考えもしなかった広がりが得られる旅こそが、ブリコラージュ。こういう体験は、時間を消化しただけという感覚にはまったくならない。

 何が違うかというと、エンジニアリング型パッケージツアーだと、「いろいろな物を見たね、楽しかったね」と過去形の話になるが、ブリコラージュ型自由旅だと、自分の目とか心とかが劇的に変わるので、未来の見え方が変わって、自分の未来についての話をしたくなるのだ。

 私は、20代の頃は、ブリコラージュ型自由旅を徹底して行い、30代の時は、エンジニアリング型パッケージツアーを提供する側のプロフェッショナルとして、ビジネスとしても極めたので、両方がわかる。

 どちらがいいか悪いかではない。たとえば人生の晩年など、過去形の中に生きることで人生の安らぎを得られる状態の時もある。

 エンジニアリング型パッケージツアーは、高齢者の生きがいになるし、健やかさにもつながる。

 社会においても、安定期と、変革期では異なる。

 安定期においては、エンジニアリング型発想のやり方は、失敗が少ない。

 アートの分野などにおいても、現代アートという分野が確立されたなかでの現代アートは、もはやエンジニアリングの産物であり、失敗はない。その意味は、なんだかよくわからなくても、これが新しいんだ、ふーんという顔で、とくに忌避することもなく、人々に眺めてもらえるということ。それは、安定期だから仕事を得られた学芸員さんたちが、安定期のなかでの無難なチャレンジとして、一種の存在アピールにはなったが、時代を変えるものでもないし、そもそも、時代を変えることも求められていなかった。だから、延々と続く堂々巡りになる。

 変革期においては、おそらく、エンジニアリング型発想だと、限界がみえすぎている。

 だって、過去に基づいて計画しても、明日は、今日とはまるで違う日になっている可能性が大きいのだから。

 人生においても、現在の価値観で、この職業につこうと決めて、そのための資格を得ようとしても、資格をとった時点で、その職業がなくなっているかもしれないということ。

 この状況を、生きづらいと思うのかどうか? しかし安定期に、決まったことをきちんとやればいいと厳命されていた時に、生きづらいと感じていた人が多かったはず。

 パッケージツアーに参加して、毎晩同じメンバーで食事をして、話題は、海外にいても日本のことという状況に身を置かれることと、ヒッチハイクをしていて、車が止まってくれず、炎天下の道端で5時間待ち続けている状況のどちらを生きづらいと思うかの違い。

 生き辛さの感覚は、状況の違いが問題なのではなく、自分でそれを選択しているかどうかの違いが大きいのではないかと思う。

 孫正義氏は、Chat GPTを使うことを強く勧めて、使わない人は、電気や自動車を否定する人と同じとまで言い切っている。

 新しい道具を積極的に使えというより、生成AIを日常化しろと言っているわけだが、真意はともかく、そうなっていくと、思考が、エンジニアリングからブリコラージュにならざるを得なくなるはず。

 だって、生成AIは常に更新されていき、その速度が早いから、熟考して決めたことを計画立ててやるというより、走りながら同時に考えろということになる。

 私は、もうそんな修羅場を生きているわけでないので、そこまで生成AIに依存しようとは思わないが、流れとして、そうなっていくのは読める。

 そのことについての孫正義の懸念は、個人が使うかどうかはともかく、日本企業の72%が、生成AIの利用を禁止、あるいは禁止を検討しているということ。学会では、大学論文のことが問題になっていたので、警戒心はもっと強いだろう。

 生成AIで作成される論文が出回るから禁止という、「過去形思考」が日本の時間を停止させている最大の要因。

 だって、生成AIで作られるような、つまり過去の引用の積み重ね論文に権威を与えることじたいに意味がないという発想になれないかぎり、新しい風は吹かない。

 生成AIで作成されたものかどうかなんて、人間が判断するより生成AIでチェックすればすぐ判明するだろう。そして、そういうオリジナリティのないものは落とせばすむこと。

 論文が書かれた時点で生成AIでは書けなかったことこそが真に新しい。

 数は極端に減っても、本当の意味で新しいものだけ評価されるようなった方が、見通しは、ずっとよくなるだろう。視界を妨げているのは、どうでもよい内容のものが膨大に積み重なっていることなのだから。

 生成AIはエンジニアリングの時代からブリコラージュの時代への移行を促進する力になるとは思うものの、孫正義が主張するように、生成AIを日常化するべきかどうかは、それぞれ携わっている仕事によると思う。

 言語化された情報に重きを置いた仕事の場合は、生成AIは有力なツールであるだけでなく自分の思考特性に変化を与えてくれる可能性はある。

 しかし、言語化されにくい繊細な領域の情報に重きを置かざるを得ない仕事もある。

 先に述べた、石工の石垣づくりに喩えられる仕事で、多くの手仕事は、そこに含まれる。本来は、昔ながらの肌感覚を重視したサービス業もそうだ。(カスタマーセンターのようなマニュアル化されたサービスなら、生成AIの方が上。)

 そもそも、言語化されにくい繊細な領域の情報に重きを置かざるを得ない仕事というのは、エンジニアリング化できない。若い人が将来を見据えるのならば、この領域の選択がベストかもしれない。

 この領域を志す人が増えれば、サービスは、古き良き時代のようなものになり、物づくりは、匠の時代が復活するかもしれず、規格品ばかりで味気ない世界が少しは変わるかもしれない。

 ただ、ブリコラージュとエンジニアリングにしても、どちらか一方が良いとか悪いではなく、一方に傾きすぎてしまうことが問題だ。

 旅行でも、先に述べたように、人生の晩年は、エンジニアリング型のパッケージツアーの方が安らかで、高齢者が健やかになるということもある。

 しかし、達成感というのは、けっきょく予期せぬトラブルがあってこそであり、その対応は、エンジニアリングではなく、ブリコラージュとなる。

 人を心の芯から満足させるのはブリコラージュ。

 しかし、心から満足できなくてもいいから、安心して、そこそこ満足したい人も多く、その場合は、エンジニアリング的対応でかまわない。

 そして、生成AIは、エンジニアリング部門での商品づくりやサービス提供などは、人間の代わりを十分に果たしてくれるだろうから、その商品やサービスが必要な時は、それを享受すればいい。

 人生の晩年ならば、この状況でも、さほど問題ないはずだ。

 しかし、そうした社会じたいも、晩年ということになる。高度経済成長期などは、若者の人口が多かったというだけでなく、社会も青年期で、血気盛んだった。

 問題は、社会が晩年になっても、若者や子供がいるということ。若者や子供が老け込まないためには、陰陽の転換のようなことが起こらなければならない。陰陽は、一つの物事が進む時、量子もつれのように、遠く離れたところであっても、それとつながった事態が同時に決定的に進行している。その「結果」は、一方がこれと判明した時に、同じタイミングで、もう一方も、それと決まる。

 生成AIがもたらす社会の結果が決まることで、その社会で生きる人の在り方が次第に整えられていくということでない。

 つまり、今、見えないところで進んでいる若者たちの心の変化は、気づかないところで、今進行中の生成AIとつながっているということ。

 生成AIが、若者たちの未来を決めるとは限らず、その逆もしかりということ。

 人生も、自分が気がつかないところで、次の準備は進んでいる。

 

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ワークショップセミナーの第11回目を、 10月14日(土)、10月15日(日)の両日(それぞれ1日で完結)、東京にて、午後12時半〜午後5時にかけて行います。 

 詳細、ご参加のお申し込みは、こちらをご覧ください。 

 

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