第1373回 「写す行為」と「写る現実」のあいだ。

 六本木のフジフィルム に、広川泰士さんの写真展を見に行き、その後の、関係者三名のトークも聞いた。
 広川さんの静かな眼差しによって写し撮られた洪水による破壊の凄まじさと、それに対抗するための巨大な堤防は、まさに聖書の中の、ノアの洪水の後のバベルの塔の世界である。
 聖書の中では、バベルの塔の建設の時、人間の言葉が乱れたとある。 
 これは多言語になったということではなく、人間の意思疎通が難しくなったということだろう。現代もまた、同じ日本語のなかでもコンピュータ言語など様々な新しい言葉が紛れ込んで、それらの記号化された言語の集積から、人間の意思や感情が、読み取りにくくなっている。
 政治家の言葉も、評論家の言葉も、おそらく学校の先生の言葉もまた虚ろに響く現代もまた、「BABEL」の時代なのだと思う。
 広川さんというのは、当人は特に意識していないが、このBABELの時代を象徴的に表す数少ない写真家なのである。
 これまでの広川さんの作品は、ほとんど全て知っていたけれど、この3.11の東北大震災の後の写真をまとめて見るのは初めてだった。
 広川さんが8×10の大型カメラで撮り続けた東北大震災の被災地の写真には、大きな特徴があり、人間の姿がどこにも写っていない。
 私も、あの頃、あの場所にいたので、そこには生々しい人間の現場があったことを記憶している。そして多くの写真家が、それらの現場の写真を発表してきた。
 しかし、広川さんの生々しい風景写真には、人がまったく写っていない。広川さんは、被災地の家族写真を撮ってはいるけれど、それらの写真は、逆に、日本のどこなのかわからない普遍的で魅力的な家族像として撮られていて、いわゆる現場のスナップ写真ではない。
 その感覚が少し心に引っ掛かった状態で、別会場での三者トークを聞いた。トークのやりとりは、展示している写真とまったく関係のない若い頃の写真ばかりで展開されていった。
 広川さんは、若い頃は、スナップ写真の名手で、筑豊の炭鉱とか、ニューヨークとか、有名ファッションブランドを漁師さんとか農家の人たちに着てもらったシリーズなど、魅力的な写真を多く撮っていた。
 これらの写真と、今回の展示の3.11東北大震災以降の写真を並べて見ると、同じ写真家が撮ったものだとわからないかもしれない。
 これほど人生の前半と後半で違っている写真家も珍しい。
 そして、トークは、時間の都合もあって広川さんの人生の前半の写真だけで終わってしまい、写真をやっている学生からの、どう撮ればいいのか?といった質問に対して、広川さんは、どうもこうも、自分が関心のあるものを撮り続けるしかない、という答えをした。
 それを聞いて、私は、少し問いを挟みたくなった。
 というのは、展示されている3.11以降の写真は、そのように単純に「自分に関心のあるものを撮り続けた」と言い切れないものがあると感じるからだ。
 だからといって広川さんが社会的な使命を持って撮ったとか、そういうことではない。広川さんは、むしろ、そうした社会派という括りを嫌っているし、社会派であれば、被災地の現場で奮闘している人たちを、いろいろな角度から撮って、「これが被災地の現場だ」という勢いで発表するだろう。
 この3.11以降の広川さんの写真は、いったい何を示しているのだろうか?
 若い時の広川さんの写真を見れば、その当時、広川さんが関心のあるものにカメラを向けていたということは、よくわかる。会いたいと思う人物に会いに行って、その人を撮るとか、街を歩いていて、興味を惹かれた対象を広川さんは巧みに切り取っていた。
 そして、そのセンスはとても優れているので、他の多くの写真家のようにスナップ写真を自分の表現にしていく道もあったかと思うが、広川さんは、90年代以降、その種の作品を、まったく作っていない。
 90年代以降、広川さんは、人物が写った写真で写真表現を行って作品集を作るといったことを全くやっていないのだ。
 そして、日本全国の原子力発電所、巨石と星、個性的な顔を持つ落葉のクローズアップ、タンカーの事故で油の流れ着いた海岸が自然のサイクルの中で変化している様子や、日本各地での工事現場とか、なんというか、「大きな時間の流れの中の今」を写真に取り込むことに時間とエネルギーをかけてきたように思う。
 しかも、それらのプロジェクトの最初の頃は、こんなことやって形になるのかなあと漠然とした感じで、明確な意思と関心とビジョンを持って、それを形にするために撮影を重ねているという感じではなかった。
 何となく心が引っかかるものに対して、誠実な気持ちで向き合い、できるだけ恣意性を排除して、根気よく積み重ねているうちに10年が経ち、その歳月を通して一つのテーマが浮かび上がってくる。
 広川さんの代表作である「BABEL」という一連の作品に名をつけたのは私だが、広川さんは、このシリーズに対して明確なテーマを持っていたわけではなかった。
 広川さんの仕事場で、「これどう思う?」と問われて全体を通して観た時に、私の脳裏に浮かんだ言葉が、BABELだった。もう少し正確に言うのならば、それらの広川さんの写真が、リチャード・ミスラックの原爆実験の写真と響き合うものがあり、合わせて特集を組もうと考え、その時に浮かび上がった言葉が、BABELだった。
 広川さんは、BABELというテーマを意識して10年以上、撮影してきたわけではなく、10年以上撮影を続けてきて、私との化学反応で、ようやく、自分が取り組んでいたことが、そういうことだったのか、と認識したということになる。
 今回の展示の3.11東北大震災以降の10年の写真も、実は、ずっとその前の1990年くらいから続いている「BABEL」と名付けられた一連の写真からの延長である。それは、人間をまったく入れずに大型カメラで撮るという行為を始めた時から続く、広川さんの中に潜在している何かの引っ掛かりに基づいて創造された写真だ。
 私は、ピンホールカメラで撮影をしているが、それ以前、いろいろな写真家から、お前も写真を撮れよと言われていたことがあったが、カメラを構えてファインダーから覗いて、自分の欲しい場面を切り取るということが生理的に馴染めなかった。
 なぜなのかわからないが生理的に、その行為に熱心になれなかった。
 広川さんの場合は、8×10の超大型カメラだが、このカメラも、ファインダーから覗いて対象を切り取るという撮り方ではないはず。そして、恣意性は、まったくゼロではないだろうが、これほどの超大型カメラは、自分の思うようにはいかない領域が大きいと思う。
 日本社会において「失われた30年」と言われる1990年頃から、広川さんは、この方法で、人間の現実の今この瞬間を超えた大きな時間と向き合ってきた。
 トークの場で、広川さん本人は、私に指摘されるまでは特に意識していなかったと答えたのだが、撮影者の恣意性によって「写す」という行為と、撮影者の恣意性が極力排除された状態での「写る」という現象のあいだに、今日の写真表現における大事な問題が秘められているように思う。
 とくに、3.11の東北大震災後の写真においては、その違いは、無視するわけにはいかない問題として、横たわっているような気がする。
 広川さんは、今回の展示写真に添えたコメントで、一言、「これが本当の復興と言えるのか」という戸惑いのまじった苦しい思いを吐露している。
 3.11以降、現場では多くの人が奮闘し、汗を流して復興を目指し、実際に瓦礫は取り除かれ、新しい建物が立ち、巨大な防波堤が築かれた。
 そうした莫大な人間努力の大きな流れに対して、「本当の復興と言えるのか」という、疑問を含んだ言葉を唱えることは、簡単ではない。
 広川さんは、もう一言、これらの人間行為に対して、「自然から遠ざかる」ことへの懸念も呟いている。
 表現者は、政治家のように大きな声で主義主張を訴える存在ではない。
 表現者は、心の呟きを濃縮させて、外に表す。対立的な状況を作り出してしまうことで、その呟きすら封じ込められることがないよう、表現者は、慎重に、丁寧に、時間をかけて、その呟きを結晶化させている。
 広川さんが、超大型カメラで人間を画面に入れない写真を撮り続けているのは、人間の感情という揺れ幅の大きい作用が介入すると目が曇らされることもあるので、そうしたことに意識が囚われないよう、ありのままの世界を、静かに示すことを、無意識のうちに心がけているからかもしれない。
 1990年のバブル崩壊前は、人間との距離が近い写真を撮り続けていた広川さんが、1990年以降、人間がまったく写っていない写真を撮り続けるようになった。
 日本全国の原子力発電所の写真から今回の3.11東北大震災後の写真。
 広川さんは、1990年代以降、意図せずして、「BABEL」の時代を、預言者の目で見続けている写真家になっていた。
 ならば、今回の展示で示されている復興写真は、何を預言しているのか。
 それは、人間が自然に対抗するために作り出した巨大な人工物が、人間と自然のあいだを完全に隔てているというところに暗示されている。
 現在、人間の手による人工物は、生成AIをはじめ、急激に人間社会を変えようとしている。人間のための人工が、果たして本当に人間のためになっているのかどうか。そのことを考えずに人工物を作り続けていると、人間は、自らが自然の一部であるという意識を、完全に失ってしまうかもしれない。
 それが人間にとって幸福なことなのかどうか? 

  ちなみに、聖書においてBABELの時代の後は、ソドムとゴモラの時代である。
 広川さんは、強くアピールしているわけではないが、広川さんの写真からは、広川さんの心中の呟きが、大画面からじわじわと滲み出ているようにも感じられた。

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