第1128回 追悼 鬼海弘雄さん(2)

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Impact hub Kyoto で行った鼎談「黙示の時代の表現〜見ることと、伝えること〜」(右から、鬼海弘雄さん、小栗康平さん、佐伯剛) 撮影:市川 信也さん 

 2018年11月11日。とっても楽しかった。この後、小栗さんと鬼海さんで、何日、我が家に泊まっていたのか忘れたけれど、連日、近くの温泉に行き、神護寺の紅葉を楽しみ、亀岡にも足を伸ばした。鬼海さんは、桂川沿いの嵐山の探索がお気に入りで、毎日、一番奥のところまで散歩していた。ある時、鬼海さんは、散歩のついでに自分で買い出しして、特性のスパゲティを作ってくれた。

 鬼海弘雄さんが作ってくれたスパゲティは、記憶に残る味わい深いスパゲティだった。麺の茹で加減と、カルボナーラのソースが絶妙にマッチしていて、料理というのは、こういうものなんだと本当に感心した。

 こうした話を過去形で言わなければならない悲しみはあまりにも深いけれど、記憶は永遠だ。

 同じ人間がやることだから、表現も料理も、共通したものがある。

 

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 この写真は、家の玄関にあって、毎日のように眺めているものだが、いつも感心してしまう。画面の中に、いろいろな”素材”が盛られているが、それらが絶妙に調和していて、その調和のさせ方が、鬼海さんならではのものだ。実に味わい深い。

 鬼海さんは、料理も、写真も、文章も、そしてトークも、実に味わい深い。それは、私に限らず、鬼海さんのアウトプットに接したことがある人間なら、誰でも知っている。

 その味わい深さはいったいどこからくるのかというと、それははっきりしていて、鬼海さんの人間性からだと思う。

 その人間性というのは、良い人とか悪い人とか、世間の薄っぺらい価値判断に基づくものではない。

 うわべを取り繕ったり、ごまかしたり、手を抜いたり、安っぽい取引をしたり、卑屈に妥協したりということを一切やらないで、そのことによって自分が不利になろうが、孤独に追い込まれようが、荊の道になろうが、自分の魂を疎かにすることに比べれば小さなことだという潔さを貫き通した人だけが持つ、底知れない深さからくる味わい深さだ。

 鬼海さんが材料を買ってくれて料理してくれたあの日の夕食は、スパゲティ一品だった。でも究極のスパゲティは一品だけで十分に満ち足りたものになる。小栗さんも私も、スパゲティを食べているという分別を超えて、その味わい深い何ものかを噛み締めていた。

  鬼海弘雄さんと濃密に仕事をするようになってから、飲んだりする時に、よく言われた。

 「なあんで、俺のとこ、こないんだって、頭にきてたんだよ」って。

 風の旅人の掲載のことだ。だって、鬼海さんの写真を風の旅人で初めて掲載したのは、44号(2011年10月号)で、東日本大震災の後、一度休刊しようと決めた時で、創刊から8年も経っていたから。

 それまで、日本の写真史のなかで重要だと自分が思う写真家は、ほとんどすべて声をかけていた。しかし、鬼海さんだけは別だった。もちろん、みすずが発行した「INDIA」は大好きな写真集で、色々な写真家が出しているインドの写真集のなかで最高峰のものだと思っていたし、「PERSONA」は、人類史における普遍のポートレートだとわかっていた。

 そして、私は、おっかない人ほど近づいていくのが好きだったので、鬼海さんのことを恐れていたわけでもない。

 しかし、たとえばカメラ雑誌のように、「鬼海弘雄特集!!」というやり方だと、簡単にいつでも特集は組めるが、風の旅人の編集は、そういうものではなく、最高の素材を、最高の状態で調理させていただいて食卓に出すような感覚で作らせていただいていた。

 私は、そういう編集をしていたので、鬼海さんの「PERSONA」や、 「INDIA」には、ちょっと手を出しづらかった。

 すでに世の中に出ているこれらの写真集以外に、他にやりようがないと感じたのだ。だからといって、一つのテーマに何十年もかける人だし、何か新しいテーマで撮ってきてくださいと簡単に依頼できない。

 後に作った「居場所」のような依頼仕事は特殊で、互いに十分な信頼感が養われていたからこそ可能になった。

 「PERSONA」や「INDIA」の世界は、風の旅人の中でどう掲載しようが、そこだけ、鬼海さんの世界として完結する。というか、あらためて、数枚の写真だけ借りてきて風の旅人の中で取り上げる意味がない。

 そういう思いがあったので、長いあいだ、鬼海さんに近づかなかったけれど、休刊と決めた時には、もう後がないという心境だった。それで、鬼海さんが取り組んできた写真の中では、比較的露出の少ない、本人もまだ撮り切っていないという意識が強いトルコの写真を風の旅人で組ませていただいた。

(風の旅人第44号)

https://www.kazetabi.jp/%E9%A2%A8%E3%81%AE%E6%97%85%E4.../

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 (撮影:鬼海弘雄 「アナトリア」より)

 

 渋谷で会って、食事をしている時、「さて、俺のことをどう扱う」というような目で、こちらを見ていた鬼海さん。

 それから数年の後、鬼海さんの世界を、きちんと編集させてもらうには写真集を作るしかない。そう考えて、鬼海さんと色々話をしていた時、「TOKYO VIEW」の話になった。

 東京の街角を撮った写真は、鬼海さんが長年取り組み続けてきたものだ。鬼海さんは、長年、「東京の街角」、「浅草の人物」、「インド」、「トルコ」と、並行して4つのテーマに取り組んでいたのだが、そのうち三つは、すでに大型の豪華本として世の中に出ているのだが、唯一、集大成のような大型本が出ていないのが東京の街角の写真だった。

 さらに、唯一、人物が1人も写っていないシリーズであり、それゆえ、ちょっとマニアックというか、本当に写真を愛する人、写真がわかる人しか関心を示さないだろうものだ。

 美しい風景とか個性的な人物の写真は、写真以外の要素でも人を惹きつけるが、TOKYO VIEWは、研ぎ澄まされた写真表現の真骨頂であり、風景や人物ではなく、まさに写真と向き合うための写真である。

 しかし、ここまでこだわり抜いたものというのは、かえって読者層を狭める。なので、さほど販売数を期待できない。それでなくても、大型の写真集を世の中に出すのは難しい時代だ。しかも、鬼海さんがイメージしているような品質だと、当然、価格も高くなり、一般の出版社が取り扱わない分野になっている。

 この「TOKYO VIEW」は、日本の出版社はどこもダメだったのでとアメリカの出版社に声がけして話を進めていた。1年くらいか、話は順調に進んでいるようだったが、結局、ダメだということになった。

 それで、私にとっての初写真集、森永純さんの写真集「WAVE」が、ようやくできた時、次作として、鬼海さんの「 TOKYO VIEW」をやろうということになったのだ。

  今、私の家の壁面には、ミニ展覧会が開けるくらい、鬼海さんの写真がズラリと並んでいて、それらの写真が、いつも語りかけてくるので、鬼海さんの肉体は消えても魂と対話ができるような気分になっている。

 なぜこれだけたくさんの鬼海さんの写真があるかというと、鬼海さんが、「TOKYO VIEW」の写真集と物々交換してくれたからだ。

 鬼海さんは、「 TOKYO VIEW」の売れ行きを気にかけてくれていた。私が、大きな赤字を抱え込むのではないかと心配してくれていた。

 私は、たとえ今現在、この写真集の価値が世の中の多くの人に伝わらなくても、10年後、20年後にはきっと伝わるので、大切に在庫を持ち続けていれば少しずつ減っていきますよと答えていた。一時的に大ブームになって売れ行きを伸ばして、しばらく経つと完全に忘れ去られてしまうようなものを作りたかったわけではないのだからと。  鬼海さんは、そうだよなと言いながらも、やっぱり気にかけてくれて、自分のルートで 「TOKYO VIEW」を人に手渡そうとしたのか、定期的に、数十部単位で、オリジナルプリントと物々交換をしてくれた。

 写真集それ自体が大赤字になったとしても、私の手元には鬼海さんの写真がたくさん残されたので、私はもう十分ですよと言っていた。

 十分どころか、大変だったけれど本当にやってよかった仕事だと心の底から思っている。やらせていただいたことを感謝しているし、幸運だったことは間違いない。

 写真だけでなく、私の手元には、鬼海さんのお化けペンタックスまで残された。

 

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  ピンホールカメラで撮った写真を見せた時だったか、ピンホールカメラでこれだけきちんと世界を切りとれるんだから、これでも撮ってみなよ、と言われて渡されたものだ。

 鬼海さんは、ハッセルで撮る前、これで撮っていたのだ。しかし、あまりにも重くて、持ち歩くのが辛いのでヤメた、と言っていた。

 確かに重い。そして、鬼海さんのように1日歩き回っても一枚もシャッターを押さないことが多い写真家だと、トレーニングのためにダンベルを持って歩き回っているようなものだ。

 この重いカメラを使って何をどのように撮ればいいのか、まだ掴めない。

 ピンホールカメラで撮るようになってからよくわかったけれど、機械は、本当に身体の一部になるくらい使いこんではじめて、自分の思うようになるということ。

 そして、このカメラの場合、重いのは単にカメラの重量だけでなく、鬼海さんの魂がドッシリと載っかかっているので、さらに重い。それを自分のものにするまで長生きできるかという問題があるが、そういうことだけのために残りの人生を賭けるのも惜しくないという気持ちもある。

 人の幸福は人それぞれで、何の悩みもなく不自由もなく楽しい日々を送ることができればいいというのもあるし、それとまったく逆の過程で心身とも苦難の連続でも、鬼海さんのように、最期の時期に、「死ぬのは別に怖くはないですけどね」とサラリと言えてしまうというのもアリだと思う。

 これをサラリと言えるのは、自分に与えられた命を、しっかりと使い尽くしたという自分なりの納得感があるからだろう。その納得感を得るために、人は生きているということを、人は、忘れてしまう。

 時々、それを思い出すたびに、空虚に襲われ、死を極端に恐れてしまう。

 鬼海さんは、写真を撮る時、写真を撮られる側の人や風景に対して、その秘められた本質を、その価値を、決して損なわないように、決して歪めないように、ということに精魂を傾けてきた。

 そういう精神で生み出された結晶のような写真を、安易な気持ちで編集なんてできない。

 東日本大震災で多くの人命が失われ、風の旅人の休刊を決めた時の44号のテーマは、「まほろば」であり、この究極のテーマにいたって初めて、私は、鬼海さんに土俵に乗ってくれるよう依頼した。

 その時の企画内容は、

 「人間と自然の間には、人間が作り出した物が積み重なっている。

 人間は、考えることで、人間と自然の間を離したり埋めたりするが、自然を作ることはできないし、自然に戻ることもできない。

 しかし、人間が考えて作り出した物が、人間と自然の間をつなぎ、人間の心や世を鎮め、平和をもたらすこともある。」

 というものだった。

 鬼海さんが撮る写真というのは、その全てが、そういうものだった。その徹し方は見事としか言いようがなく、残されたものに、多少のごまかしが混ざっているようなものが一つもない、ということに、あらためて畏敬の念を覚える。

 

                                     合掌

 

 

 

 鬼海弘雄さんが、40年かけて撮り続けてきた東京の街並み

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