第958回 ”もののあはれ”を知る二つの東京(第2回)

 (第1回から続く)
 今年度、「東京」の名がつく二つの大型写真集が刊行された。
 一つは、鬼海弘雄さんの「Tokyo View〜東京模様〜」(発行:かぜたび舎)、そしてもう一つが、有元伸也さんの「Tokyo Circulation」(発行:禅フォトギャラリー)だ。
 この二つの大型写真集は、奇遇なことに、サイズがまったく同じで、縦373mm×横302mm、そして双方とも黒のハードカバーの装幀である。
 東京の”模様”と、東京の”循環”。
 鬼海さんの写真集には、人物がいっさい登場せず、”もの”の有り様だけが示されているが、そこに人間の気配が濃密にたちこめている。模様というのは、今目に見えているものを通して、その背後の微妙な状況を伝えてくるものである。
 


 写真集を見なければ、そこにある気配を体感することは難しいが、敢えて言語化するならば、鬼海さんの”模様”の中のものたちは、安易に消費することができないものたちである。それらのものと直接関係のある人も、それらのものを写真を通して見る私たちも、何よりも、それらのものを撮影した鬼海さん自身が、それらのものたちと心を通わせている。
 それらのものたちと直接関係ある人達は、それらのものを特に意識することがないかもしれないが、写真を見る私たちは、それらのものたちにじっと魅入ってしまう。そして、写真家の鬼海さんが、それらのものたちを実に丁寧に見て写真を撮っているということがわかる。
 読者である私たちは、「鬼海さんは本当によく見ているなあ」と感心しながら、同時に、そこにある、なんでもないものたちに心を強く寄せることになり、愛着すら覚える。
 この写真集は、東京の名がついているけれど、「東京」という言葉は、一つの記号にすぎず、〜東京模様〜でも、〜日本模様〜でもかまわない。
 この写真集に掲載されている写真は、40年もの歳月を通して撮られたものだが、日々変化し続けていると誰もが思っている東京(日本)が、実は、ほとんど何も変わっていないようにも見える写真集でもある。

 そして、有元さんの東京の”循環”は、鬼海さんの写真集とは対照的に人物が中心で、どのページからも人物の身体性が強く迫ってくる。


 「循環」とは、ひとまわりして元の場所や状態に帰る流れのことである。今、目の前の激しい流れだけを見ていると、どこに流れていくかわからなくて不安になる時があるが、紆余曲折を経て、すべては同じところに戻る。
 東京の変貌著しいカオスは、情報記号の激しい流れが作り出しているものであり、人間の身体性に目を向けると、そこに不変のものが見えてくる。
 有元さんの写真集の中の人物達は、東京にいるのか他のどこかにいるのか、現在に生きているのか別の時代に生きているのか、どうでもいいと思わせる力がある。有元さんは、流行アーティストがモチーフにしたがる宣伝文句にもなりやすい記号情報(たとえば、「巨大カオス都市、東京」といった類の)に迎合するのではなく、普遍性のある人間の濃密な身体性だけを探し求めて、10年間、東京の街中に目を凝らし続けた。
 情報が氾濫する現代社会においては、誰もが喜びそうな美しい珊瑚礁に生息する魚の群れよりも、深度8,145mの暗闇に生きる一匹の魚の発見が、生命に対する私たちの認識を揺さぶる力がある。
 生命とは何か、生きることとはどういうことなのか?を、根底から問うこと。時代がどんなに移ろうとも、この問いは、ほとんど何も変わっておらず、有元さんは、東京という記号化されやすい状況設定の中で、敢えて、この真なる問いに迫る表現行為をやってのけた。
 彼が撮った東京の人物達は、みんな深海魚のように姿形が畏ろしい生命そのものである。
 鬼海弘雄と有元伸也という二人の写真家が、示し合わせたように東京の二つの大型の同じサイズの写真集を作ったわけではないが、この二つには共通のものがある。それは、誰もが目を奪われがちな社会の”変化”を無化していることだ。
 誰もが当たり前のように思っている変化、多くの人が価値あるものと考えている変化に意識をとらわれずに、不変(普遍)のものを見つけ出して凝視する目こそ、太古の昔から芸術家が備えていたものであった。
 私たちの多くは、私たちの認識を変えるものは”変化”だと信じている。しかし、変化に触れるから認識が変わるのではなく、認識が変わるから本当の変化が起こる。変化を意識し、変化に対応するために変化を消費しているだけで、認識が変わらないままだから、ストレスが大きくなる。認識が変わればストレスもなくなり、そこから新しい一歩が始まるだろう。
 私たちの硬直した認識を少しでも変える力があるかどうか。芸術家の仕事の価値は、そこに尽きる。
 しかし、悲しいかな、多くの人達が、変化を消費することが時代の風を感じることだと錯覚しているため、真なる芸術家の仕事は、その時代においては、もてはやされることはない。
 有元さんの「Tokyo circulation」も、鬼海さんの「Tokyo view」も、そんなに多く売れなくてもしかたない。発行元も、それを承知の上で作っている。
(第3回に続く)

 『Tokyo circulation』(写真家 有元伸也)の詳細はこちら→

 『Tokyo View』(写真家 鬼海弘雄)の詳細はこちら→