第1397回 つながる縁の力に支えられて。

私の事務所にある鈴鹿芳康さんと鬼海弘雄さんの写真

 鬼海弘雄さんに背中を押されなければ、私は、日本の古層の書籍化を考えなかったけれど、鈴鹿芳康さんとの出会いがなかったら、私はピンホール写真を始めていなかった。

 不思議なことに、鈴鹿さんとは、テレパシーのようなものを感じることが多い。

 先ほども、鈴鹿さんに、新しい本の報告のためにメッセージを送ろうと思ったら、鈴鹿さんから「本を購入したい」と電話があった。今朝のフェイスブックの記事を見てくれたらしい。

 本の購入というのは、利益の問題とは別に、購入の意思じたいが嬉しいもので、なぜなら、その意思は、本の中身に触れたいという強い意思でもあるからだ。

 鈴鹿さんとの出会いは不思議なもので、2014年の春、私が京都に移住してすぐの頃だが、九州の共星の里 黒川INN美術館という100年前の小学校を改装した美術館の創始者でアーティストの柳和暢さんが京都に来た時、突然連絡をくれて、「どうしても会わせたい人物がいる。今から出て来て欲しい」と言われ、今すぐと言われてもと戸惑ったが、縁のようなものを直観して出かけて行った。

 そして、その後、京都で、人があまり来ないところを散歩している時など、偶然、鈴鹿さんとばったり会ったりすることが数度あって、お互いに、奇遇だなあ、不思議だなあと言っていた。

 そして2016年の秋、鈴鹿さんから、今度作る作品集において、文章を書いてくれと、突然連絡があった。

 その作品集は、鈴鹿さんが数十年にわたって8×10の大型カメラを改造したピンホールカメラで撮ったものだが、それまで私は、写真集などの文章依頼を受けたことがあったが、ピンホール写真は、風の旅人でも一度も掲載したことがなく、馴染みも薄かったので、文章が書けるかどうかわからないと正直に答えた。

 しかし、とりあえず見るだけでも見てくれという話になって、鈴鹿さんの家に行き、膨大な数のピンホール写真を見ることになった。

 それらを見た瞬間、「ああ、これは文章書けるな」と思い、引き受けて、すぐに、かなりの文章を書き上げた。鈴鹿さんは、自分がこれまでやってきたことが文章に全て凝縮されていると喜んでくれた。

 その文章を書き上げた後、1年前に作った風の旅人の第50号の巻末に次号の告知として「もののあはれ」を発表しながら、結局、どうすればいいかわからなくなって放置してしまったことを思い出した。そして、その時点では明確なビジョンをもっていたわけではないが、ピンホール写真による表現は、「もののあはれ」に通じるものがあると直観し、京都周辺の樹木や岩を撮り始めた。

 その直観のもとにあるのは、「気配」を写すことだった。

 2011の東北大震災の後、しばらく日本は陰鬱な気配の中に静まっていた。

 そして、私は、震災後に、現地の取材もくわえて43号と44号を作って、これほどの大惨事は、人間社会の転換にならざるを得ないだろうと思って、風の旅人を、いったん休刊とした。

 しかし、1年ほど経った時から、アベノミクスが始まり、日本は、以前の状況に戻ろうとしていた。

 3.11の大震災から何も教訓を得ず、まったく同じ価値観が日本を支配し始めた。

 それで、私は、2012年12月、風の旅人を復刊した。テーマは、「修羅」だった。

 それ以来、「3.11以降の生き方」を軸にして作り続けた。

 その際、日本の伝統的な文化に備わっている「人の傲慢さを抑制する何かしらの働き」を、とくに意識した。 

 自らの存在を強く主張するものよりも、質素で慎み深いものに隠された大切な事を汲み取る感受性。

 つまり自らを謙虚にする文化。さきほどのタイムラインでも書いたが、「現代人は、高度な技術や豊富な知識情報を持つことが叡智だと思っているが、たぶん、本当の叡智は、人の傲慢を抑制するものに宿っているのではないだろうか。なぜなら、高度な技術や豊富な知識情報は、驕った人が使い道を誤ると、自分や、自分と関わる全てを損なう大きな要員となるが、わが身を省みる方向に導いてくれるものは、人と人の間だけでなく、人と森羅万象の間を調和させる。」という考えにそった誌面づくり。

 そして、必然的に、「もののあはれ」というテーマに行き着いた。

 しかし、風の旅人では重要な役割を担うビジュアルにおいて、「もののあはれ」というテーマに合うものがなかった。

 それは感覚的なものだったが、後から振り返ると、けっきょく、高度な技術の結晶である最新カメラで撮った写真は、明晰すぎて、気配を消してしまう。

 もちろん、優れたライティング技術で、物の気配を浮かび上がらせる撮影は可能だろうが、静物ならともかく、外の現場では、そうはいかない。霧や靄の時とか、早朝や夕暮れ時の微妙な光の時を狙えば可能かもしれないが、それでもフィルムカメラなら可能だが、写りすぎるデジタルカメラだと、うまくいかないだろう。

 「もののあはれ」のカタログみたいな、侘びとか寂びとかのテーマで、日本庭園とか茶道具とかを集めたところで、それは、着物を着て美術館にお出かけするくらいの趣味的なものでしかない。

 風の旅人は、本質を掘り下げることが作り続けるためのエンジンであったので、けっきょく「もののあはれ」というテーマは、実現しなかった。

 それから1年くらい経った時に、鈴鹿さんのピンホール写真に出会ったのだった。そして、この方法なら、なにかやれそうな気がするという手応えを感じ、すぐに自分もピンホールカメラを手に撮影を始めた。

 それまで、いろいろな写真家に、「きみも写真を撮れ」と言われ続けてはいた。

 写真論のようなものを書いているのだから、その実践も必要だろうということなのか、優れた写真家の写真を浴びるように見てきたので、写真に対する感覚は備わっているだろうということか。

 写真を撮れと言われてもできなかった理由は、ただ一つ。

 私は、通り過ぎの光景を自分本位に切り取るだけの写真は、けっきょく消費写真だと思っていて、その領域で良し悪しを競い合うことに意義を見出せなかった。

 たとえばエドワード・カーティスのように、アメリカ先住民と30年にもわたって共同生活をして、彼らの内面を引き出す、その一瞬だけシャッターを切っていたという写真家を尊敬していた。

 鬼海弘雄さんも、被写体の本質を引き出すことに長けた写真家だった。

 カーティスのような長期間でなくても、後世まで残り続ける写真を撮っている写真家の姿勢は、同じであり、被写体が人物であれ風景であれ、深い対話が伴っている。そのためには、一つのことに、相当な時間をかける必要がある。

 私が、そういう努力をしなかったのは、自分が一つの領域に没頭するのではなく、それらの優れた仕事をしている人たちの力を束ねることが自分の仕事だと考えていたからだ。

 私は、どうにも気が多いので、海の中とか森の中とか、一つの領域を根気よく徹底的にやり続けることができない。

 そうした理由から、周りから言われても、自分が写真撮影に真摯に取り組むことはなかった。カメラを手に持って、ファインダーから覗いても、そこに在るものに対する自分の思い入れが浅いと、テンションも上がらなかった。

 しかし、ピンホールカメラで撮影を始めてからは、自分の内側にある感覚とぴったりと当てはまって、継続的に取り組むことができた。

 その場所の光の状態を読んで、自分で露光時間を決めるという、昔のカメラ撮影だと当たり前の感覚が残っているピンホール写真は、自分の判断が被写体とカメラのあいだに存在していることの手応えがある。

 何事もそうだが、機械任せというのは楽ちんかもしれないが、自分が希薄化する。機械任せで自己主張をすればするほど、他に取り替え可能なものになっていく。

 それに対して、機械に頼らずに、自己主張ではなく、他者(被写体)の魅力を引き出すことを心がければ、媒介者としての自分が、他に取り替えのきかないものになっていく。その手応えこそが、自分が存在することの歓びになる。

 その際、何を引出したいかという見極めが大事で、その見極めのために、カメラを構えない時の思考の時間が必要になる。

 2023年は、AI時代の幕開けとなったが、AIで画像処理をしてもらったところで、その画像が、いったい何になるかといえば、せいぜい観光誘致ポスターのようなものだろう。

 京都を訪れた外国人が、訪れる前に見ていたポスターのイメージと、現実とのギャップが大きすぎると、不満を訴えているようだ。

 物事のリアリティとは何ぞや。

 冒頭で、鈴鹿さんとのテレパシーのことを書いたが、ピンホール写真のような、おぼろげな気配が世界には満ちていて、テレパシーというのは、明晰なメッセージではなく、おぼろげな気配のように、伝わってくる。

 おぼろげな気配を感知しない人は、スルーしてしまうが、そこに何かあるという直観を得て、行動すると、そこから色々なことがつながってくる。

 2014年の春、柳さんが、私に電話して鈴鹿さんに会わせたのも、理屈ではわからないけれど何か感じるものがあったからで、私も、突然の連絡であったものの、柳さんの声の背後に何かを感じたから、すぐに動いた。

 何事かはわからないけれど、背中を押すものがある。その気配の導きが、良きものなのか邪悪なものなのか見極めることは大事だが、その見極めは、日頃、自分の潜在的意識を耕すことを心がけているかどうかで違ってくるように思う。

 読書とか旅とか、自分の想定範囲を超えたところでの出会いが、自分の潜在的意識を耕すことにつながるのではないかという気がする。

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始原のコスモロジー 日本の古層Vol.4の納品日が決まりました。

12月15日(金)です。

現在、ホームページで、お申し込みの受付を行っています。

本の発行に合わせて、12月16日(土)、17日(日)、東京の事務所で、第13回目のワークショップ セミナーを行います。

 

 

www.kazetabi.jp

また、本の発行に合わせて、12月16日(土)、17日(日)、東京にて、ワークショップセミナーを行います。こちらも、詳しくは、ホームページにて。