第1396回 畏れのなかに含まれた敬意や憧憬。


 神社や祭祀場などの聖域が、その場所に在る理由は、現場に行かなければわからない。

 ひっそりとそこに在る物は、時の風化によって本来の形を変容させていても、何事かの気配を今に伝えており、その気配は、その場所に立ってみなければ感じ取れない。

 聖域とされる場所は、異界との境界であり、その陰には何事かが潜んでいる。それが何なのか明確にわからなくても、不思議と心が動かされるものがある。

 西行は、「何事の おわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という歌を詠んだが、1000年の時空を隔てても、西行が感じた何事かを、少しは共有できる。

 現代でも、私たちは、「かたじけない」とか、「畏れ多い」という言葉を使う。 

 その言葉には、人や物事に対して、自分ごときでは不十分なのではないかという謙遜の気持ちが含まれている。

 日本人が、なぜ神を創造し、その神は、どういう存在だったのか? 起源を遡れば、神に助けてもらうためというより、自分の理解を超えた何事かに対する「畏れ多さ」が元になっているのではないだろうか。

 単なる恐怖ではなく、畏れには、敬意や憧憬の気持ちが含まれ、自分の卑小さや驕りを自省する力となるが、この「畏れ多い」という感覚を失ってしまうと、人は傲慢になる。

 寺や神社にかぎらず、古くから大切にされてきた聖域の多くは、自分の力の及ばない領域との境界で、人の傲慢さを抑制する何かしらの働きがある。

 また、長い歳月を経て日本人が育んできた文化は、光が当たる表ばかりに意識をとらわれず、裏の陰の部分に心を配ることが重んじられている。

 そうした文化の歴史的な積み重ねによって、自らの存在を強く主張するものよりも、質素で慎み深いものに隠された大切な事を汲み取る感受性が育まれた。

 自らを謙虚にする文化を作り上げてきたことじたいが、この国の深い叡智なのだろう。

 現代人は、高度な技術や豊富な知識情報を持つことが叡智だと思っているが、たぶん、本当の叡智は、人の傲慢を抑制するものに宿っているのではないだろうか。

 なぜなら、高度な技術や豊富な知識情報は、驕った人が使い道を誤ると、自分や、自分と関わる全てを損なう大きな要員となるが、わが身を省みる方向に導いてくれるものは、人と人の間だけでなく、人と森羅万象の間を調和させる。

 人を救う道が、果たして、それ以外のどこにあるのだろうか。

          

(始原のコスモロジー 日本の古層Vol.4  あとがきより。)

 

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始原のコスモロジー 日本の古層Vol.4の納品日が決まりました。

12月15日(金)です。

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本の発行に合わせて、12月16日(土)、17日(日)、東京の事務所で、第13回目のワークショップ セミナーを行います。

 

 

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