第1406回 最果ての能登は、人生の折り返し地点でもあった。

石川県能登町真脇遺跡縄文時代の環状木柱列。

 東京から京都に戻ってきた。一ヶ月少々前、京都から東京に移動する時、前々日にふと思い立って、能登半島を一周することを決めた。

 2023年中に発行するつもりだった「始原のコスモロジー」で使用する写真のレイアウトは、ほぼ出来上がっていて、あとは文章の推敲をしっかりとやって入稿するだけだったから、能登で撮影するものに関しては、次回以降のためという気持ちだった。しかし、能登で撮影したフィルム写真の現像があがってきて確認したら、どうしても今回の本に使いたくなって、入稿直前で、急遽、5カットを差し替えた。今回の地震震度7を計測した志賀町の3点と、津波の被害が大きかった珠州市と、縄文時代から能登半島が海の営みと深く関係していたことを示す能登町真脇遺跡だ。

 そして、この本の後書きを書く時に、その内容に一番響き合っていると感じたのが、志賀町の高瀬宮の写真だった。この文章は、次号の方向付けのためのものだった。

 その趣旨は、日本人の信仰の根幹には自分に都合良く神頼みするのではなく、畏れの気持ちを大切にして自らを謙虚にし、心を清めることが自分自身と世の中の平安につながるという隠れた信心があるという内容で、なぜそういう信仰が育まれたかというと、この国においては、いくら神頼みをしても、地震や台風など、逃れられない試練が数多くあるからだ。

 昨年の11月後半に能登をめぐっている時にもフェイスブックで書いたが、私にとって能登が特別な場所だったのは、大学に入学してすぐ母や後輩が突然亡くなったり、自分も半月板を損傷して長期間ラグビーができなくなった苦しい状態の時に、日本を旅をして、その折り返し点が、最果ての能登だったからだ。

 能登半島は、西海岸は日本海の荒波と強い風にさらされ、ヤセの断崖など荒涼たる景色が続いているが、最先端の珠洲市のところから東の海岸は、突然、別世界の扉を開けたように、波が静かになり、穏やかな光景になる。

 19歳の旅の時、金沢から珠洲までは身体も心もずっと硬直させていたのが、珠洲を境に身体と心の緊張がとけて、ふと力が抜けたような感覚になったことを今でも覚えている。

 そして、恋路海岸の長閑な景色のなかで、私は、海外に旅立つことを決意した。

 けっきょく、そのまま大学を中退し、ドロップアウトの人生が始まったわけだが、はっきりしているのは、その時まで崖っぷちに追い込まれていた自分は、どうせ死ぬなら死ぬ気で生きればいいという開き直りの境地に転換できたということだった。

 それまで臆病だった自分が、死ぬ気で生きればいいと思った時から、かなり大胆不敵になったように思う。失うことのショックや不安に対して、別人のように、縮こまらなくなった。

 この世には神の力にすがってもなんともならない現実があり、状況を好転させるためには、自分を変えるための行動を起こすしかないと悟った。考えるだけではダメで、形にするために手を打って行動するという、その後の人生のモットーのようなものは、その時に芽生えたのではないかと思う。

 日本海に突き出た半島で、その先端の珠洲のところで苛烈さと静穏さが切り替わる能登は、自分にとって明確な、折り返しのイメージだった。

 2001年9.11の時も、2011年3.11の時も、転換点になるのではないかと考えたが、このたびの2024年1月1日も、同じくらいの重みがある。

 2011年3.11の時も寒かったが、今回は、厳寒の最中に起きた。瓦礫の下で助けを待つ人々や、家を失った人々の凍えるような状況は、想像するだけで、辛い。

 阪神・淡路大震災は1995年。鳥取大震災が2000年、新潟県中越地震は2004年、東北大震災は2011年、熊本大震災は2016年、北海道胆振東部地震は2018年、そして今回と、5年のあいだに、日本のどこかで大地震が起きることが、宿命のようになっている。

 繊細で脆弱な日本列島の上で生きているかぎり、この宿命は、どこか遠い世界の出来事ではない。

 

 
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