第1405回 日本列島の上に生きることの意味

高瀬宮(石川県志賀町

 昨日の大晦日フェイスブックに、次のような記事を書いて、いつも通のように、翌日の今日、ブログに同じ記事をアップしようと思っていたが、能登の大地震が起きて、戸惑っている。

 昨日書いた記事は、このようなものだった。

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 日本人の信仰の根幹には、自分に都合良く神頼みするのではなく、自らの心を清めることが、自分自身と世の中の平安につながるという隠れた信心がある。

 また、どんなに穢れにまみれようとも、禊や祓いを行うことで、新たに生き直せるという、生まれ変わりのための祈りもある。

 罪や穢れは傲りからきていると自覚し、その傲りを抑制し、自らを謙虚にすることで全てが調和する。それが、無宗教と言われる日本人が特に意識していない陰の信仰だった。

 人類の歴史は、自分たちが信じる神や信条(イデオロギー)を掲げて、争い、憎み、平気で殺すということを繰り返しているが、世界の片隅の島国において、なぜ、唯一絶対神を掲げる一神教が根付かず、多様な神々が共存する社会ができあがったのか。

 それはおそらく、神を主体にするのではなく、人間の心の持ちようこそが重要だと悟らざるを得ない状況に見舞われていたからだろう。

 いくら神頼みをしても、地震や台風から逃れられないのだから。

 しかし、そうした天災が、人災よりもましなところは、必ず、再生のチャンスを与えてくれるところにある。

 禍福は糾える縄のごとしであると自然は教えてくれる。だからこそ、心の持ちようが大事だった。

 それに対して、人間が引き起こす災いは、一方的で徹底的で、想像を絶する残酷さが止むことがない。それは、人間の本質が、臆病で、疑心暗鬼で、妄想的で、自分に災いをもたらす可能性のある相手を、徹底的に排除しようとする心性があるからだろう。

 心の清めを軸とする日本人の信心は、そうした保身や執着を、邪悪と負の連鎖の根元と受け止めていた。

 天災は、人間を謙虚と諦観に導き、時に人間を清めることになるが、人災は、人間の心に執着や憎悪を作り出し、穢れに導く。

 日本人にとっての幸いは、それまでの暮らしを一変させるような災禍が、人災より、天災によるものが多かったことだろう。

 もちろん、日本の歴史においても、時代を変えるような人災が起きてはいたが、天災と同じような感覚で、水に流した。そのことは、歴史から学ばない日本人を作ったが、切り替えの早い日本人を作った。

 それが良いことか悪いことかを論じても意味はなく、日本の風土や歴史が、そういう日本人を作ってきた。

 最悪なのは、傲りや保身の気持ちに囚われ、自分に都合の悪いことだけを水に流すことだろう。

 神を主体にするのではなく、人間の心の持ちようを重視してきた日本人は、自らを謙虚にする信心を失った時、捨て鉢の突撃精神を大和魂などという言葉で美化し、足並みを揃えて奈落の底に落ちていく。

 歴史は、そのことを教えてくれるが、日本人は、歴史を水に流すことが得意で、歴史から学ぶことは苦手だ。 

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 そして今日、お正月番組が、一斉に、能登で起きた地震の報道になっている。

 昨日、人災と天災のことについて言及した際にアップした写真は、このたびの地震で最大の震度7を計測した石川県志賀町の高瀬宮だった。

 石川県志賀町は、原発があるところだが、巌門とかヤセの断崖とか、松本清張ゼロの焦点に登場する場所だ。40年前、私が大学を中退して海外への旅を決意した際に訪れたが、最果て感の強いところで、一ヶ月前に、40年ぶりに、訪れたばかりだった。

聖域の岬(石川県珠洲市

 

左:巌門 右 機具岩 (石川県志賀町

真脇遺跡(石川県能登町

 このたび発行した「始原のコスモロジー」においても取り上げた房総半島と能登半島を中心とする日本海岸は、土地の様相としてかなり気になる場所だ。太平洋と日本海に飛び出た二つの半島は、日本列島がプレートの狭間にあって、その地下のエネルギーが明確に地上に現れていることを実感させる場所になっている。

 太平洋プレートが押し付ける房総半島は、今でも明らかに隆起し続けているところだし、その反対側の場所にある能登半島は、近年、地震が頻発していた。

 能登半島というのは、日本列島の中で、岐阜県の北部から島根の隠岐にかけての最も古い地層帯の一部なのだけれど、大地の表層部分は、安山岩など比較的新しい時代の噴火活動の堆積物が海岸沿いの奇岩を形成している。それは、新しい地質でも6000万年前の岐阜とはかなり異なる様相であり、それだけ能登半島は、新しい時代も、劇的に変化し続けている場所だということになる。

 日本海に飛び出た能登半島は、日本列島の下で起きていることが、もっとも地表に現れやすい場所であり、ここで起きる天災は、能登という限られた一地域の自然災害というより、これから日本列島に何が起こるのかを啓示するような場所ではないかと、私は思っていた。

 能登の志賀には、良質な日帰りの天然温泉があり、一ヶ月前、京都から東京に移動する際、温泉でくつろいだ後、すぐ近くで車中泊をした。日本は、どこに行っても、温泉があって、宿に泊まらなくても温泉の恩恵を受けながら旅をすることができる。

 私たちは、そのことを当たり前のこととして享受しているが、それは、地下水を温める場所の上に私たちが暮らしているということでもある。

 また、私たちは、毎日のようにお風呂に入ることを習慣にしているが、そのお風呂の水は、そのまま飲料水として使える水であり、そんな場所は、世界でも限られている。

 日本というのは、現代の日本人が、ほとんど意識しなくなっているが、世界中で、かなり特殊な自然環境の国だと思う。

 今回の地震は、その揺れが北海道まで届いており、津波の到達した地域も、かなり広範囲にわたるし、大きな余震も続いている。

 元旦のお祝いのために準備をしてきたことが、一瞬にして無になってしまった方もおられるだろうし、ちょっとしたタイミングが、命運を分けてしまったということもある。

 いつ、何が起きても不思議でない。これが、この国で生きることの実相であり、そうした諦観のうえに、自分の人生を整えるしかないのだろうか。

 

 
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