第1403回 勘の働きと、人工知能。

14

 

ピンホールカメラというのは、単なる木箱に針穴が空いているだけで、その針穴から差し込んだ光が、フィルムに画像を定着させる。

 裁縫で使うような針で穴を空けると1mmくらいの穴になってしまい、光の量が多すぎて画像全体がぼけすぎてしまう。それもまた味わいがあるといって、コンセプチュアルで思わせぶりな使い方をする人もいるが、私とは、このカメラを使う考え方が違う。

 私のピンホールカメラの針穴サイズは、0.18mmで、かなり小さい。これくらい小さくなると光が絞り込まれて、ある程度、画像が明確になってくる。

 私の生理的な感覚だと、このくらいの明確さがちょうどよくて、実際に、視力1.0くらいの裸眼で見る時の見え方に近い。

 日本は湿度が高く、空気の層によって物の輪郭はぼんやりとしているのだが、高価な光学レンズは裸眼よりも鮮明に写し出してしまい、その写真は、記憶の中の風景とは異なっている。

 また、ピンホールカメラは、レンズも自動露出測定器もついていないし、ファインダーもない。だから、露光時間や、どこからどこまで写っているかの判断は、勘に頼るしかない。

 私は、ブローニーフィルムという中判カメラ用のフィルムを使っている。フィルム1本で8枚撮影できるが、最初の頃は、1、2枚まともに写っていれば合格点だったが、さすがに7年に渡って、こればっかり使ってきたので、最近ではフィルム一本で6枚くらい合格点をつけられるようになってきた。

 機械任せではなく人間の勘を頼りにする行為は、失敗の可能性もあるけれど、向上することの喜びがある。

 巷ではAI技術の進化について様々に論じられているが、AIが人間の仕事を奪ってしまうといった話は聞くが、人間の幸福感について、もう少し真剣に考える必要があるのではないかと思う。

 何の不自由もない生活が幸福だと思っている人が多いが、人間は、達成感とか、成長の手応えを感じたい生物で、土地を耕すとか植物を育てるとか、物を作るとか、子供達を育てるといった、苦労があるからこそ歓びが大きくなることを、わかっている人と、わかっていない人がいる。

 これがわかっていない人は、いくら自分の周りに物を集め、便利で快適な環境を整えたところで、満たされない思いが、生涯にわたってつきまとうだろう。

 物作りにおいても、機械任せのものは、失敗の少ない平均的な物を数多く作ることに長けていても、繊細で微妙な味わいが無くなることで、物足りなさが生じる。そのため、長く手元に置いておきたいものになりにくい。

 この繊細で微妙な味わいを掬いとるのが、人間の勘であり、これが反映された仕事は、人の心を動かす力があるし、長く付き合うほどに味わいが増してくる。

 私は、「日本の古層」の本を、毎年1冊ずつ作っており、今回で4冊目になる。これは、かなり速いペースなのだが、それでも、最初の本と今回では写真が違ってきているようで、「写真がよくなった」という感想を、かなり頂いている。

 被写体の前に三脚を立てて、針穴を開いて、じっと待つという単調な行為なのだが、それでも、写る写真が変わってくるのだから面白い。

 実は、最初の頃に撮った写真でも、非常にうまくいった写真は、けっこうある。偶然性に頼っている撮影方法なので、そういうことはよくある。だから、「写真がよくなった」というのは、一枚ごとの良し悪しというより全体の構成が関わっている。以前に比べて失敗が少なくなったので、一冊の本を作るにあたって、テーマにそった選択をできるだけの写真が揃っている。さらに、そのテーマを、より深めたとしても、テーマに負けない構成ができる写真が多く撮れていることが「写真がよくなった」原因だと思う。

 1冊目から3冊目は、「sacred world」というテーマだったが、4冊目は、「始原のコスモロジー」とした。

 「聖性を感じる場所」の写真構成と、「コスモロジー」という大きなビジョンを構築できる写真構成のあいだには、大きな開きがある。

 「聖性を感じる場所」の表現なら、一列に並べるだけでもいいが、「コスモロジー」の表現は、より重層的なものでなければならない。

 そして、「聖性を感じる場所」から「コスモロジー」へのテーマの変化は、原始的な撮影方法をとることで生じてくる心理的な変化が反映されている。

 長時間露光で撮影する現場が、自分にとって、「一つの場所」というよりは、「時空的体験」になってくるからだ。

 これは、数回程度では起こらない感覚だが、1000回を超えて続けているうちに、その場所で物を見ているというより、その場所の時空の中に自分が在るという感覚になってくる。

 私は、自分で撮影し、自分で文章を書いて、自分で編集・構成とデザインをするので、自分が現場から得た感覚を一貫させて作ることができる。

 勘を頼りに掴んだものは、勘を頼りに調整される。

 経験と勘を頼りにする仕事が、分業になりにくく、一人が全体を担うことになるのは、勘で掴んでものを他の作業者に伝えることが難しいからだ。

 AI時代において、人間の勘という数値化しずらい力が、議論の対象になっていない。

 人間の「勘」が鈍ることの弊害は間違いなく大きく、「勘」は、生命力と直接結びついている。とりわけ、極限状況においては、どんな数値よりも、「勘」が、決定的な働きをする。

 「勘」というのは、自分の目を信じる力とも相互関係にある。

 物を買う時でも、人と出会う時でも、美術観賞などにおいてもそうだが、自分の目が、本当に良いものだと感じているわけでもないのに、他の人の評価付けや、宣伝やラベルの説明で良いものだと判断することを続けていると、「勘」は鈍り、ますます自分の目で判断できなくなる。

 AI時代において、物事の判断を、AIに委ねるようになればなるほど、人間の「勘」は鈍り、そうすると、ますますAIに委ねざるを得なくなる。

 人間の本来の能力の低下も問題だが、果たして、AIが、人間の勘の力をも学習し、取り込むことができるのかどうかということを考えておかなければならない。

 「勘」というのは、城の石壁を作った石工が、石がどこに行きたいかを聞く力であり、宮大工が、木の声を聞いて組み上げる力でもあるのだが、こうした力をAIが学習できるのかどうか。

 AIは、現状ではインターネット上に出回っている情報を学習しているわけだが、これが、企業内のクラウドの情報を取り込むようになったとしても、世の中に出回っている情報から学習して進化するものである。

 そうすると、AIは、宿命として、世の中に出回りにくい匠の心の声を、聞き取れないのではないかと思う。

 

_____
 始原のコスモロジー 日本の古層Vol.4は、現在、ホームページで、お申し込みを受け付けています。

www.kazetabi.jp

 

 2024年の始まりにあたって、1月13日(土)、14日(日)、第14回、ワークショップセミナー「始原のコスモロジー」を、1月13日(土)、14日(日)に、京都で開催致します。
 ホームページから、お申し込みを承っています。

www.kazetabi.jp