第1400回 ものづくりや表現の羅針盤。

 

自分が作ったものに対する人の評価というのは、気にならないというと嘘になる。

 でも、その評価が自分に影響を与えるかというと、まったく関係ない。

「テレビや雑誌に取り上げられました!」みたいなことも、テレビとか新聞といった記号的な組織の評価基軸など、あまり意味がなく、その組織に所属する担当者の物事を見る目が確かかどうか、深い考察力や洞察力を持っているかどうか、本当に信頼が置ける人物なのかどうかが、重要だ。

 私は、顔のよくわからない人、どういう信念や世界観を持っているのかよくわからない人の意見には、ほとんど関心がなく、自分が尊敬している人に褒められたら嬉しいし、その人に厳しく言われれば、素直に耳を傾ける。

 私は、出版元が別会社のものを除くと、風の旅人は50冊、鬼海弘雄さんの「 Tokyo View」や森永純さんの「Wave」の写真集、大山行男さんの「Creationシリーズ」が2冊、そして、日本の古層シリーズが4冊で、これまで58冊の本の制作と販売を手がけてきて、有難いことに、その全ての本を購入してくださっている人がいる。

 この人たちも、外の目としては重要で、私が軸のブレたものを作ると、すぐにわかってしまうだろうと思う。

 風の旅人を創刊した時は、恩師である日野啓三さんが、これを見た時にどう思うか、ということを常に念頭に置いていた。

 そして、創刊号では朝日新聞が、第2号で読売新聞が書評を書いて評価してくれたけれど、そんな評価とは関係なく、写真家の野町和嘉さんに、3号くらいまでは厳しい意見を言われた。

 ようやく4号の時に、「なんか、よくなったんじゃない」みたいなことを言われ、その後しばらく経ってからは、「最近、なんか抽象的になりすぎてんじゃない」とか言われた。あまり褒めてはくれず、悪いわけではないんだけれど何か気になるような時に、はっきりと言われ、その都度、私も、やはりそうかなあと感じたりして、それらの言葉を心の片隅に置いていた。

 さらに写真家の鬼海弘雄さんは、ビジュアルの構成と思念の深さのつながりのような側面で、私にとっての羅針盤になるような意見をくれた。

 そして、文章や編集も含め、総合的な面では、映画監督の小栗康平さんと、批評家であり思想家であり剣術家の前田英樹さんが、最も手強い存在だった。

 小栗さんと前田さんは、もう20年近く、池袋のうどん屋を兼ねた飲み屋で定期的に会っていて、そこに、生前の鬼海さんや、小説家の田口ランディさんなど、色々な人が集うという形だったのだが、映画であれ美術であれ文学であれ、前田さんと小栗さんは、手厳しい。そう簡単に、いいね!などとは言わない。

 そして、私にとって、このお二人は、現代社会の表現世界において、もっとも信頼の置ける目をもった存在だ。

 前田さんは、風の旅人の誌面で白川静さんが執筆している内容を見て、「佐伯さん、この風の旅人は、白川さんの遺書になっているんだよ」と、鳥肌が立つような、これ以上、身の引き締まる言葉は他にはない、畏れ多い言葉で褒めてくれた。

 小栗さんは、いつも丁寧で正直な感想をくれた。

 私が、日本の古層を作り始めてからは、小栗さんは、以前と変わらず丁寧で正直な感想と、これからのヒントになる言葉をくれた。

 前田さんは、無視しているかのように、いつも、一言もなかった。私は、「言うに及ばず」というレベルなんだろうと受け止めていた。

 それが今回の「始原のコスモロジー」に関して、すぐに、ほとんど同時に、二人から返事が来て、褒めてくれた! 

 びっくりした。とくに前田さんは、ほとんど人を褒めない人なので、目を疑った。

 良いか悪いかは内容の充実度ではない。自分の立ち位置の設定の仕方とか、アウトプットの方法が大事で、思考の流れも、これによって変わってくる。思考の流れによって、蓄えられた情報の文脈も変わってくる。右から左に情報を流すだけではダメ。

 今回の「始原のコスモロジー」において変化があるとすれば、そこのところで、これは、昨年、Vol.3を出した時に、小栗さんに指摘された言葉がきっかけだった。

 小栗さんは、せっかく文章を読み込んでいる時に写真があって、意識が中断されるので、写真は写真、文章は文章でまとめて見たいという意見をくれた。

 それは単なるレイアウトの問題ではなく、私の作り方としても、書いている文章に寄せた写真を近くにもってきたり、掲載している写真に寄せた文章を書いたりしてしまっていた。

 カタログ誌ほどではないけれど、いわゆる説明的なものになっていた。

 そうすると、それは情報でしかなくなり、言葉の文脈に意識が届きにくくなる。文脈というのは、文章に没頭することで辿り着ける源泉だから。

 小栗さんは、文章を読む時に、文章の表ではなく裏に潜入することが当たり前の人なので、意識が中断されるという指摘は、私の作り方だと、言葉の裏に入っていけないということを意味している。

 そして、そのような作り方をする私も、けっきょく、写真とか文章の裏に深く入っていくことができなくなる。

 これに気づいたのは、もともと風の旅人を作っていた時は、文章コンテンツとは関係なく、写真を先に組みあげていたからだ。その理由は、写真表現が、意識の深層への切り込み隊長になるという感覚を私が持っているからだ。

 写真の全体を組み上げた時点で、言葉がなくても、一つの世界ができる。言葉は、その後に、写真のあいだに織り込んでいくのが、風の旅人を編集する時の方法論だった。写真の説明としての言葉ではなく、写真が作り出す世界に、それらの言葉が響き合うかどうかという判断の仕方になる。

 今回の「始原のコスモロジー」は、風の旅人を作っていた時と同じようなスタンスで作った。そうすると、文章を書いている時も、部分ではなく、常に全体が意識される。個々の写真と直接的につながっていなくても、写真全体と響き合うものに整えられていく。

 そうすると、なぜ自分がこの一連の仕事をしているのかという自分の歴史的立ち位置みたいなものがわかってくる。そのことが、アウトプットの仕方に影響を与える。 

 つまり全体が、一つの生命体のように有機的に結びついていく。

 しかし、そのように有機的なものを作るためには、写真と言葉が、完全に自分にとって身体の一部のようになるトレーニングが必要で、今年の初めから行ったワークショップセミナーは、そのトレーニングのためと考えて始めた場だった。

 いつもぶっ続けで5時間を超える時間を参加者に付き合ってもらったが、ワークショップのたびに膨大な資料を作ってアウトプットを繰り返すというのは、自分の情報知識を横に流す作業ではなく、粘土をこねて焼き物を作るようなプロセス。だから、やっている私は、あまり疲れない。

 さらに、この1年、ピンホール写真の方も、かなりよくなった。このアナログ機械を使いこなす技能が上達したということもあるけれど、自分の中に全体像があったうえで、撮影していることが大きいと思う。

 今までと異なるアプローチをする時は、心配や不安も大きいが、瞬間反応のように、日本で最も信頼の置ける人から反応があったことは、大きな達成感がある。

 そして、それだけでなく、今回は、幾つか初チャレンジのことをやっていて自分でも反省点が見えているので、方向性は間違っていないという確信と、次は、もっと良いものにできるという手応えがある。

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 始原のコスモロジー 日本の古層Vol.4は、現在、ホームページで、お申し込みを受け付けています。

www.kazetabi.jp