第1399回 シンギュラリティ(技術的特異点)と、古代のコスモロジー。

 昨日と今日は、今年13回目、今年最後のワークショップ セミナー。

 ちょうど一昨日、古代のコスモロジー〜日本の古層vol.4〜が納品されたので、ベストなタイミング。

(詳しい内容は、こちらのサイトへ)

www.kazetabi.jp

 

 今回の本、これまでの3冊より写真が増えているが、最初の部分の文章で、「古代と未来のコスモロジー」というテーマで書き出している。

 ワークショップセミナーの内容も、そこに焦点があてられるのだが、具体的には、2045年とされているシンギュラリティが念頭に置かれている。

 人工知能の能力が完全に人間の能力を凌駕してしまうとされている技術的特異点のことを、一般的には、シンギュラリティとしている。

 日本でインターネット時代が始まったのは、2000年、楽天とかサイバーエージェントが株式上場して、ベンチャー企業が、銀行融資ではなく、未来の成長性を期待する株式市場から巨額のマネーを調達するという、それまでの日本社会にはなかった形のビジネスモデルが始まった時と言える。

 インターネットの将来性が、とてつもなく大きいと誰もが信じ、実際にそのようになった。

 そして、昨年から今年にかけて、人工知能の進化に誰もが驚かされたChat Gptが世界中に広まったが、この人工知能は、インターネット上に流れている情報を吸収して学習して成長するという仕組みになっている。

 この2023年のChat Gptの普及は、2045年をシンギュラリティと設定するのなら、2000年とのあいだの、ちょうど中間時点ということになる。

 2000年当時の楽天サイバーエージェントのビジネスモデルは、今振り返れば、まったく大したことはないのだが、この20年での様々な変化を考えると、これからの20年も、想像を超えたものになるはずで、2045年のシンギュラリティは、真実味を増してくる。

 しかし、そのような方向に進むと、当然ながら、人工知能ではできないことは何なのかという考察と議論と実践が行われるようになるのも必然だろう。

 たとえば私が行っているピンホール写真。

 高性能カメラは、被写体までの距離を自動的に計測し、焦点を合わせ、さらに、測光を行うが、その測光は、真ん中に合わせるのか、画面全体に合わせるのかは使う人間が選択をできる。

 それに対してピンホールカメラで撮影する時の露光時間を決める判断は、画面の真ん中の明るさとか全体の明るさという単純な要因ではない。

 森の中の聖域などは、全体的に陰になっていたり、木漏れ日があったり、全体か真ん中かという決め方はできず、その場の雰囲気で、これくらいだろうと決める。

 この7年間、こればっかりやって3000枚以上そういうことをやっていると、だいたいの勘が働いて、最初の頃に比べたら失敗の数がかなり減ったわけだが、こういう勘は、人工知能に変わりにやってもらおうとは思えない。うまくいくかどうかという問題だけでなく、勘を働かせるという行為自体が、対象と自分とのあいだに対話(関係性)が生じているわけで、その貴重な関係性を放棄したいとは思えないからだ。

 そうした対象との対話(関係性)は、木の性質を読む宮大工の仕事もそうだろうし、石垣を組み上げる際に、石の声に耳を傾けると言う石工も同じだろう。

 技術的特異点という意味で使われているシンギュラリティだが、本来の意味に、「唯一性」というのがある。まさに、宮大工が作る建築物や、石工が作る石壁も唯一であり、私は、自分が撮るピンホール写真も、唯一だと思っている。それは、優劣の問題ではなく、自分と対象との対話によって作られるもので、自分の経験や感性や思考や判断という微妙な要素が、その対話に反映されているからだ。

 人工知能に取って変わられるようになっていくと、自ずから、そうした方向へと回帰していくのが、人間の生理ではないかと思う。

 お金儲けを企む輩にうまく丸め込まれて洗脳されてしまわないように警戒して、自分の内面の声に耳を傾けていれば、本当のところ、何が自分を満たすのか、ということに向き合わざるを得ない。

 実は、こうした技術的特異点は、2045年だけでなく、古代にも起きていた。

 それは、古代にも現代と同じレベルの技術革新があったということを意味するのではない。

 現代人にとって、自分の存在を脅かすかもしれないものが人工知能というだけで、古代において、たとえば、大量の鉄の武器などが開発され普及した時にも、同じような不安があった。

 どちらの技術が凄いかどうか、なんて関係ない。 

 同じ一言でも、まったく平気な人もいれば、傷ついて自殺してしまう人もいる。

 心の準備も含めて、その時の人間に対するインパクトの大きさの問題であり、大きなインパクトがあった時、人間は、それまでの考え方、生き方を変えざるを得なくなる。

 そういう意味で、古代にもシンギュラリティがあったということ。そして、その時、人間は、どのように自分を改めたのか、どのようなものを創造したのか、その変化をどのように表現したのか。

 これが、私が行っているワークショップセミナーの主旨であり、今回制作した「始原のコスモロジー」の主旨でもある。

 コスモロジーという言葉をわかりやすく言うと、人間が、自分が生きている世界をどのように解釈し、その解釈に基づいて、どのように生きようとしているか、ということ。つまり世界観と人生観の合体。

 たとえば、壁の中に取り囲まれた環境に生きていて、壁の外が危険極まりないものだと思い込んでいたら、その壁を自分たちを守るための壁とみなし、壁から外に出ようとはせず、一生を終える。

 しかし、壁の外に、楽しいことがいっぱいあると思い込めば、その壁は、自分たちを閉じ込めるためのものと判断され、なんとか壁から脱出できないものかと考え、チャレンジしながら生きていくことになる。

 進学校に入って、偏差値の高い大学に入れば、有名企業に就職できて、定年まで安泰で、巨額の退職金を得て、老後も安心と信じ込んで、そのレールにそって一生懸命に頑張るのもコスモロジー。 

 有名ブランドで着飾って、タワーマンションに住むと、勝ち組だと思われて、優越感に浸りながら生きられて、その優越感こそが幸福の証だと思いこんでいれば、その種の情報に敏感になる。これもまたコスモロジー

 どう生きるかは、世界をどう捉えているかということと、緊密につながっている。

 面白いのは、古代におけるシンギュラリティの時に創造された思想哲学というのは、無の思想、無我の境地、無知の知、と古代ギリシャもインドも中国も、あまり変わらない。

 古代日本はどうかというと、禊と祓い、つまり身と心を清めること。

 現代は、どうかというと、「足るを知る」という言葉が適切かなと私は思っている。

 足るを知るというのは、少ない物で生活していくという次元のことではなく、かなり深いものがある。

 たとえば、石工が石垣を組み上げる際、そこにある大小様々な大きさや形の石の全てが、組み合わせ次第で、有効なものになるという前提で行う。これが「足るを知る」だ。

 現代的なエンジニアリング的発想だと、設計図に基づいて、それに適したものを、どこかから選り好みをして集めてくるという発想になる。

 人間、選り好みをしだすとキリがなく、隣の芝生は青く見えるというのが続いていく。実は、この分別が、人間の不幸の始まりであり、聖書では、それを、アダムとイブが食べた禁断の果実という言葉で表現している。

 アダムとイブの子供のカインは、アベルを妬んで、アベルを殺してしまい、そのカインの罪を、その後の人類が背負うことになる。

 

 

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