第1425回 「日本文明が与えることができる優れた教訓のかずかず」 レヴィ=ストロース 

 

 第15回ワークショップセミナー(東京)を終えた。

 この場で最初に私が話をしているのは、エンジニアリングとブリコラージュの話。

 これは、20世紀の最高の知性、文化人類学者のレヴィ=ストロースが唱えていることで、近代文明の中で生きている私たちは、エンジニアリング的発想に陥っているが、本来の生命原理というのは、ブリコラージュであるということ。

 エンジニアリング発想というのは、設計思想と言葉を置き換えてもいいが、物事を計画的に設計して組み立てていくのが正しいという発想。それに対してブリコラージュは、ウィキペディアなどでは「寄せ集め」という言葉で説明されているが、私は、正しくは、「(洞察的直感による)最適組み合わせ」とした方がいいと思っている。

 洞察的直感とは、思いつきという程度のことではなく、体内の言うに言われぬ感覚に基づいて、理性的にはどうだかわからないものの、そうした方がいいと心の内側が自分に働きかけるような感覚だ。

 これは人間に限らずどんな生物にも備わっている力であり、動物の場合は、野生的本能という言葉で説明されている。人間の場合は、理性を肥大化させてきたために、この野生の本能的な声を聞く力が弱まっている。

 それでも、人生における大事な局面において、理性よりも、この”野生の力”を大事にして、それを行動原理にして生きている人もいる。

 理性的な設計思想や計画的行動というのは、理性的には正しいかもしれないが、この理性分別が、果たしてどこまで信じられるものなのか、という疑問も残る。

 理性分別には、計算が働く。そして、その人の経験に左右されがちで、自己都合になることも多い。

 経験は大切だが、経験に囚われず、というより、経験を積み重ねていたとしても自分の経験したものの表層ではなく本質的な領域に思いを馳せることを繰り返しているならば、個人の経験を超えた、何かしら普遍的な真理に近づけるかもしれない。

 カントは、この経験から独立した先天的認識能力および先天的意志能力を、「純粋理性」とした。

 このカントの「純粋理性批判」は、哲学史上、最も難解な名著の一つとされるが、カントが訴えようとしたことは間違ってはいないと思う。

 彼が生きた18世紀のヨーロッパは、近代科学の最初の波の中にあり、科学を使えば世界の全てを説明することが可能だという空気に満ちていた。その状況の中で、「科学は本当に客観的な根拠をもっているのか」、「科学の客観的分析で世界の全てが説明できるとすると、人間の存在価値はどこにあるのか」という問題を冷静に見つめ、カントは、人間の理性について考え抜いた。人間は、どこまで世界を本当に知ることができるのかと。

 こうした科学の問題は、人工知能時代が始まる現代においても同じであるが、この問題について、カントほど真摯に考え抜こうとする哲学者や思想家や評論家が、どれだけいるのかという問題がある。そんな状況のなかで、自分の思想を構築することより他者の思想を借りてくることの多い学者さんは、「科学万能主義」が席捲し始めている現代にこそカントの「純粋理性批判」を読み直す価値があるなどと言う。

 カントを読み直すのはけっこうだが、そこから先どうするの? カント哲学を紹介して、分析して、説明しても何にもならない。

 カント以降、カントが突き詰めた問題意識を、別の形で突き詰めた人もいるわけで、そうした知見を織り込んだうえで、21世紀という時代状況に即した「言葉」と「実践」が必要だ。

 かつての哲学好き青年のように、カントの「純粋理性」という言葉の意味について激論を交わしたところで、前に進めない。

 カントが突き詰めた「純粋理性」という言葉は、レヴィ=ストロースが異なる言葉で語っている。それが「野生の思考」だ。

 この二つは、基本的には同じで、科学的思考万能の時代に対する問題意識から発生しているが、レヴィ=ストロースの時代は、カントから200年経っており、その間に、科学万能主義がもたらす新たな矛盾や歪みも生じていた。

 レヴィ=ストロース文化人類学者であったから、生きた人間そのものが自分の思考の対象だった。そして、多くの文化人類学者が、異文化圏に生きている人たちを科学的に分析し、整理している状況に対する疑問を感じていた。それらの研究者は、博物館に展示してラベル分けするために、生きている人間を研究しているようなのだ。(美術館の展覧会も似たようなもので、生きた芸術を整理箱に収めて陳列している)

 20世紀における科学的思考万能の歪みは、各種の文化や、人生観、ライフスタイル、消費活動、物づくり、人付き合いの隅々まで行き渡ってしまった。

 多くの表現者もまた、美術館やギャラリーに展示したり本という形にすることを目的設定して、その目的と計画のために、表現素材を利用するのである。

 そして人々は、自分を飾る目的のために、物を買い、経歴を整え、時には人付き合いの相手を決めるのである。なにかしらの物を作る時も、樹木や石など全てのものは、自分の計画を進めるための代替え可能なピースにすぎない。

 レヴィ=ストロースは、他の文化人類学者たちよりも、自分が向き合っている生きている人間たちに対して、深い愛着があった。だから彼らを博物館の展示品のように分析したり整理することに対する躊躇いがあった。

 このレヴィ=ストロースが、おそらくカントよりも深く備えていたものがある。それは、日本文化に対する造詣だ。

 だからレヴィ=ストロースは、科学的思考万能の時代に対して、カントと同じ問題意識を持ちながら、カントが「純粋理性」という概念で説明しようとしたことを、他の言い方で説明することができた。

 それが、「野生の力」であり、その野生の力に基づく実践原理が「ブリコラージュ」であり、その実践における心構えが、対象への愛や尊敬だった。

 カントは、表層的な理性や経験に囚われない「先天的認識能力」というものが大切だと考えたが、それ以上に大事なことは、その「先天的認識能力」の発動のさせ方だ。

 エンジニアリングという計画的設計思想に陥ってしまうと、先天的認識能力を発揮しにくい。なぜなら、計画的設計思想というのは、判断尺度が、自分の経験や理性的設計にあるからだ。

 設計図を描いてしまうと、どうしても、その設計図通りに事を進めたくなる。

 人生においても、計画して将来設計を描いて、そのために、一つひとつのステップを積み重ねていけば、もし何かしらの状況変化が起きて世の中が変わり、自分の描いていた設計図通りに事が進まないだろういう野生的直感があったとしても、なかなかその事実を受け入れられず、潔く別の道を探すということができないために手遅れになってしまうことがある。

 レヴィ=ストロースは、ブリコラージュこそが生命原理だとした。生命活動においては、状況変化に応じた臨機応変さが何よりも大事。状況に応じて、その都度、最適な組み合わせを洞察して判断して、自分の行動に結びつけること。それが野生の思考でもある。

 原始に近い営みを続けている人間世界では、身の回りにあるものは、そのようにブリコラージュで成り立っていることをレヴィ=ストロースは見出していた。

 しかし、設計とか計画がないからといって、単なる行き当たりばったりということではない。設計や計画が、自分の側の都合だとすると、ブリコラージュは、そうした自己都合を取り除いて、自分が向き合っているものに秘められた声を聞きながら物事に対応するということになる。別の言葉で言うと、それが、対象への愛や尊敬ということになる。

 こうした摂理を言葉で説明してもわかりにくいので、私が、よく説明の喩えにするのが、石工の作る石垣や、宮大工の作る建物や、中世日本の日本庭園だ。

 石工や宮大工や庭師には設計図がない。石工は、石の声を聞き、宮大工は、木の声を聞いて仕事をする。そのように彼らが作り出したものは、設計図に基づいて作ったものより、遥かに長い時代、生き残っていく。

 この石工や宮大工の判断能力こそが、カントの言う「先天的認識能力」なのだ。

 カントは、そういう能力が大事だと言っているだけだが、石工や宮大工は、その能力を使って実践的な仕事をしているのである。

 だったら、「科学万能主義」が席捲し、その問題が深刻になってきている現代、カントの「純粋理性批判」を読み直すべきだ、などというより、石工や宮大工の仕事の奥義を学んだ方がいい。

 石工は、「石の声が聞こえるようになるには20年かかるよ」と言う。「20年もかかるのかよ、やってられないな」と思う人もいるし、「20年続ければ石の声が聞こえるなんてすごい」と思う人もいるだろう。 

 石工や宮大工の仕事は、一つの喩えであり、どんな仕事にも、この奥義はある。

 石工にならなくても、石工の奥義で、自分が取り組んでいる仕事に向き合う事はできる。

 レヴィ=ストロースにとって、それは、文化人類学という領域だった。

 医療従事者や心理カウンセラーにだって、写真家にだって、石工の奥義はあるのだ。

 そして、この奥義は、カントを悩ませたもう一つの問題、「道徳」においても関わってくる。

 自己都合的な表層的理性が主張する正しさは、多くの局面において「道徳」を損なっていく。もはや道徳とか倫理という言葉では収まらない暴虐さえ引き起こすことは、現在のイスラエルの状況を見ても明らかだ。

 カントが生きていれば、この問題を乗り越えるのが、「純粋理性」であり「先天的認識能力」だと言うかもしれない。しかし、西洋哲学の限界は、いくら深い探究であっても「言葉が最初にありき」で、その言葉の先の扉を開けないことだ。

 それに対してレヴィ=ストロースは、東洋思想にも造詣が深かったし、フィールドワークという実践的活動に軸足を置いて洞察し、その上に言葉を編んでいった。

 石工や宮大工も、実践的活動を通じて、物と物との関係を身体的に体得していく。

 自分自身も、自分の対象物も、生きているものは刻々と変化していくのだが、言葉ありきで言葉に重きを置きすぎると、その変化に応じられない。だから、カントのいう先天的認識能力は、言葉で固定できない。カントを読むのであれば、その限界を認識したうえで読む必要があり、そこに書かれていることではなく、書かれていることの背後を洞察しなければならない。翻訳本で、それを適切に行えるかどうかという問題もある。

 また、たとえカントを読まなくても、何かしらの実践的活動を通じて、その作法さえ間違えなければ、石工や宮大工のような、先天的認識能力に通じる道はある。

 私が、ワークショップの中で、「日本の古層」の話をするのは、歴史好きのための歴史のお勉強ではなく、石工や宮大工のようなコスモロジーが生まれるに至ったこの国の文化背景を洞察するためだ。

 それが、この科学万能の時代の問題を乗り超えるための先天的認識能力に通じる道だと思うからだ。

 レヴィ=ストロースは、こう言っている。

 「私は、西洋世界が耳を傾けようとさえするならば、日本文明が与えることができる優れた教訓のかずかずを知らないわけではありません。・・、自然への愛や尊敬に席を譲らないで、文化の産物の名に値するものはない、ということであります。」

 日本における自然というのは、花鳥風月にとどまらない。人間を含めて因果的必然の世界全体のことである。

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