第1424回 半島は、なぜ聖域なのか。


 今年制作する予定の「日本の古層VOL.5」は、カラー写真を使って「もののあはれ」をテーマに深く掘り下げるつもりで、昨年の末に能登半島を訪れて取材した。これらのピンホール写真は、カラーで撮っていた。

 しかし、この取材後、心にひっかるものがあって、ほとんど完成間近だった「日本の古層Vol.4 始原のコスモロジー」で、5点ほど写真を差し替えて、能登半島の写真を入れた。Vol.4の本は、モノクロ写真で構成しているので、能登半島の写真もモノクロで入れた。その時は、正月の大地震のことは想像できていなかったが、ここ数年、能登地震が続いていることは意識していた。だから、能登の地勢が感じられるようなところを訪れていた。

 今、この能登のカラー写真を見ると、なんだか、向こう側の世界への出入り口のように見える。

 半島というのは、もともと、異界との境界の雰囲気の強いところだ。そして、能登もそうだが、なぜか、日本各地の半島に、原発が多く作られている。

 半島というのは、あまり見せたくないもの、意識させたくないものを隠すのに適した場所なのか。

 何かしら大きな問題が発生した時に、一方が行き止まりだから、被害が及ぶ範囲が限られると考えられているのか。(震災支援の時に、これが大きな弊害となるが)。

 いずれにしろ、日本における境界というのは、古代から聖域であるところが多く、欧米など大陸の国の境界は、こちら側と向こう側を分け隔つ壁であるのに対して、島国の日本の場合は、のれんのように間を仕切ってはいるものの、霊的には、行き交い自由の場所だ。

 現代人は、自分が生きている現実の壁の中に閉じこもって「現実」のことを考える癖がついているけれど、そういう視点だと、現実を相対化できないから、どこまでいっても現実の細かな分析を続ける堂々巡りになる。

 「もののあはれ」というのは、現実の壁の向こう側に自在に行き来することによって、現実を相対化し、全ての現実を宇宙の必然のなかで見つめ、愛おしむ視点だと思う。

 能登は、正月の大震災によって、海の底が地面となり、至る所で断層にそって地面が数メートル持ち上がったところができた。

 我々の日常感覚における「現実」には、そうしたパワーを秘めた地面の下の本当の現実が、意識されていない。

 現代人感覚の現実は、本当の現実の半分以下の極めて限定的な区分にすぎないにもかかわらず、今を生きる私たちは、その限定的な区分が世界の全てのような錯覚に陥って、処世を企んでいる。

 

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