第1389回 情報とリアリティのあいだ。

 


何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる   西行

 

 神社や古墳や祭祀場が、なぜその場所にあるのかという理由は、現場に立ってみなければ感じ取れません。

 そして、その場所に聖域を築いた人たちの心の中を自分ごととして引き寄せないと、その時代のことも理解できないし、その時代のことを理解しようとしないと、過去から現代まで引き継がれてきたことの本質もわからず、未来に引き継いでいくべき本質もわかりません。

 過去と現在と未来はつながっており、そのリアリティを自分ごととして感じて、そのリアリティを伝えていく。この国の文化は、そのように次世代へとリレーされてきました。

 現在社会は、情報が氾濫し、情報とリアリティのあいだが引き離されています。

 リアリティというのは、自分の記憶の深いところと響き合う感覚。その感覚は、自分が意識していなくても、自分の進路に大きな影響を与えている。

 現在の情報過剰な状況のなかで、自分が現場から感じ取ったリアリティを文章だけで伝えきれる人は、相当な文才があります。しかし私は、そこまでの文才がないため、文章と写真を組み合わせるという方法をとっており、敢えてピンホールカメラを使っている。

 精密な描写を誇る高性能カメラで現場を撮影しても、私が感じた現場のリアリティを再現できないというジレンマがあるからです。 

 明確にすることで逆に失われるものがある。聖域の場合、そこに在る物の形よりも、その場が醸し出す気配が大事だけれど、物の形が明確になればなるほど、その気配は弱まってしまう。

 人付き合いにおいても、相手の表情の変化に無頓着なままだと相手との関係性は損なわてしまうが、1000年を超える時空を隔てた人間同士のあいだでも同じ。内実的なつながりをしっかりと確認できるものは、具体的な物の形というより、形から滲み出る気配。

 時間とともに物の形は朽ち果てても、気配は残り続ける。

 日本人が、なぜ神を創造し、その神は、どういう存在だったのか? 起源を遡れば、神に助けてもらうためというより、自分の理解を超えたものに対する「畏れ多さ」が元になっているのではないでしょうか。

 単なる恐怖ではなく、畏れには、敬意や憧憬の気持ちも含まれ、自分の卑小さや驕りを自省する力となるけれど、こうした畏れもまた、気配を通して感じとるもの。

 西行の、「何事の おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という心情に象徴されるように、日本文化の根底に、この「畏れ多さ」が宿っている。

 こうした「畏れ」の感覚が、どのように文化として形成されてきたのか、始原まで遡って知りたい。

 始原のコスモロジー「日本の古層Vol.4」が、まもなく完成しますが、現在、ご予約をホームページで承っています。

www.kazetabi.jp

 この本は、歴史の学習を目的としたものではなく、古代から連綿と伝えられてきた人々の思いの背景を洞察し、過去から現在そして未来へとつなげていくことを念じて作っています。

 世界は激動の中にあり、昨日の常識が明日の常識とは限らなくなっている。それでも人間はいつか必ず死ぬという現実は変わりませんし、自然の営みは、人間の歴史よりも遥かに長い年月を刻み続ける。

 悠久なる自然の時間に比べれば、人間の歴史の2000年などは、ほんの一瞬。

 現代の人間は、神話が創造された時代を今と無関係だとみなして生きていますが、生物としての人間の宿命が変わらないかぎり、神話の時代と現在では、本質的に何も変わっていない。宇宙スケールで見て変わったポイントは、人間の驕りが、以前より強くなったことにすぎないでしょう。

 これまで3冊発行してきた「日本の古層」は、単なる過去の探究ではなく、日本人に特有の世界観や人生観を根元から再認識しようとするフィールドワークに基づく試みでした。

 このたびの「始原のコスモロジー 日本の古層 VOL.4」は、これまでと同じ気持ちで作っていますが、自分がなぜこのプロジェクトを続けているのかということに対して、かなりの時間とエネルギーを注ぎ込んできたことで、より自覚的になることができ、焦点を明確にするために贅肉を削ぎ落とすことに努めました。その結果、一つの集大成であるものの、次への転換点になりうる形で昇華できたと、我ながら思っています。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

 また、本の発行に合わせて、12月16日(土)、17日(日)、東京にて、ワークショップセミナーを行います。こちらも、詳しくは、ホームページにて。

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