第1407回 能登半島の記憶と、人生の転機。

今回の地震津波の被害が大きかった珠洲市聖域の岬。古代は、日本海交通の要だった。

 このたび作った「始原のコスモロジー」には、能登半島の写真が奥付けを含めて5点入っている。

 11月下旬に京都から東京に移動する際、ふと思い立って能登を一周した。能登は、風の旅人を創刊する時に、輪島の近くの間垣の里という竹の防風柵で村を取り囲んだ村を取材して以来で、能登一周に関しては、19歳の時以来だった。

 いずれも私にとって人生の転機の時で、そのことはブログでも何回かに分けて、少し書いた。

 そして、今回、なぜ能登を訪れようと考えたのか?

 「始原のコスモロジー」は、すでに完成間近で、写真の選択とレイアウトは、ほぼ終えていて、あとは文章を推敲して印刷会社に入稿するだけ、という状況だったにもかかわらず。

 近年、能登地震が頻発していたことは知っていた。「始原のコスモロジー」の中でも紹介している千葉の房総半島とか高知の室戸とか能登半島など海に突き出たところの地勢は、日本という島国が4つのプレートにはさまれた脆弱な世界であるということを具体的に明確に示す場所で、現代人は、この脆弱性をあまり意識していないけれど、古代人は、そのことを強く意識したうえでコスモロジーを形成していたと私は考えている。だから、様々な場所をフィールドワークする際に、そうした地勢的な特徴が出ているところを訪れているのだが、11月の下旬に能登行きを決めたのは、その理由からでもあるが、それに加えて、能登半島が、次の号とのつなぎになるという予感があったからだ。

 私が使う「コスモロジー」という言葉は、世界の捉え方を意味する。そして、世界の捉え方は、どのように生きていくかを決定していくので、この言葉は、世界観と人生観が統合されたものということになる。

 いい大学に入学した人間が社会で成功するという世界観を持っていれば、その世界観にそって必死になって努力する。有名企業に就職すれば人生が安泰というのも世界観と人生観の統合で、これもまたコスモロジーだ。

 戦後の多くの日本人は、なぜか、そのように世界観や人生観を安定的なものとして捉え、それがずっと続くと考え、人生計画を立てる傾向にあった。足下の脆弱さを見て見ぬ振りをして。

 私のコスモロジー(世界観と人生観)は、20歳の時に旅に出たことが大きく、その時に体得した感覚は、世界は流動的で不安定であるけれど、それでも人間は、どうにでも生きていける、というものだった。

 私は、世界中の秘境を訪れたが、こんな場所にも人間が生きているんだと驚くくらい、おそろしく過酷な場所でも人間は生きていた。(日本でもそうだが)。

 そして、自分自身においても、旅に出たばかりの時、英語もまったくできないのにヒッチハイクをして野宿をしていたが、逆境に陥ったら救いの手があったり、トラブルが新たな展開を作り出したり、想定外が面白かったり、旅をしているうちに何とでもなるような感覚になり、精神的にも身体的にも、野生化というか、かなり逞しくなっていった。

 それは、私個人に限られたことではなく、おそらく人間が、そういう生物なのだと思う。多くの生物は、生きている環境に最適応しているので、環境が違ってしまうと生きづらくなるけれど、人間は、環境変化に合わせて自分を作り替えることができるという柔軟性があり、その能力が、鋭い爪や牙も、厚い毛皮も持たないのに生き延びてこられた一番の理由だと思う。

 海外の異なる環境でも、いつのまにか適応していた自分を発見した私は、日本に戻ってきてからも不安はなかった。けっきょく大学は辞めているから高卒という最終学歴でも、ハンデを感じなかった。

 2年の放浪を経て帰国した当日、手持ち資金が10万円しかなかったということもあり、東京の戸越というところに家賃16000円の北向き、4畳半、風呂なし、トイレ共同のアパートで暮らし始めたが、近くに銭湯があり、旅のあいだ風呂に入れず、週に2度ほどのシャワーで我慢していたことを考えると極楽だった。しかも、翌日から夕食付きの居酒屋小料理店で働き始めたので、食事にありつけるわけで、手元にお金がなくてもまったく平気だった。1日5時間ほどの労働で、たしか10万円くらいの賃金だったと思うが、食事付きだったし、働かない時は古本屋で買った本を読むだけの日々だったが、また新たな旅立ちの前の準備期間の心境で、不自由は感じなかった。

 こういう貧乏な暮らしで、学歴が高卒で、仕事場が夜の居酒屋だと、今の世の中では負け組だとかいろいろ言われているが、心の持ち方次第だということを、理屈ではなく、体験として、私は実感していた。

 その頃は、髪を肩まで伸ばし、髭をはやし、ボヘミアンを気取っていたが、恩師にあたる小説家(日野啓三)との邂逅で、人生観が変わった。それまで私は、アウトサイダーでなければいけないと自分に強いていたが、世の中に適応できないコンプレックスを表現のエネルギーにする時代は古い、世の中で多くの人が普通に行っていることを通り抜けてからでないと表現は対立的なものから抜け出せないということを、この邂逅で覚ることになった。そして、昼夜逆転の生活をやめ、猛烈に働き始めた。それこそ毎日深夜12時までという仕事人間は、40歳の時まで続いた。

 そのように社会的適応の権化のようになって働き、株式上場まで果たした会社だったが、人生とは皮肉なもので、上場の半年後、2001年9月11日にアメリカ合衆国テロが起きて、旅行ビジネスが暇になってしまった。その後すぐ恩師の日野啓三さんが亡くなり、運命的という形で風の旅人を創刊し、出版社経験もないのに編集長をつとめ、テロ後の騒動が鎮まってからも、ずっと風の旅人を作り続けることになった。

 私は、ずっと10年ごとにドロップアウトを繰り返してきたが、60歳は、コロナ禍のなかで迎えた。もうドロップアウトする場所はないし、身体の不調はどこにもないけれど、人生そのものからドロップアウトしたような気持ちで生き続けるという感覚を持っている。どうしても実現したい欲求や野心はない。ずっと気にかけているのは、自分のことよりも子供の未来だ。

 そうした境地で現在行っている「日本の古層」を探索するプロジェクトは、「もののあはれ」のルーツをめぐる旅でもあるのだが、「もののあはれ」という日本のコスモロジーは、古代ギリシャでは無知の知、古代インドでは無我の境地、古代中国では無の思想という、いずれも今から2500年前に生まれたコスモロジーと同質のもので、文明が、あるレベルまで到達すると、古今東西、こういうコスモロジーに至るという法則のようなものなのだ。

 そして日本の特徴的なところは、中世文化である茶道や日本庭園や俳句などのワビとサビ、能の幽玄なども「もののあはれ」の流れの中にあり、日本は、欧米やインドや中国などに比べて、文明がピークに達した時に生まれるコスモロジーを、ずっと長いあいだ、文化の根幹としている。

 現在は、特定地域ではなく世界中が文明のピークであり、古代において文明のピークに達した時、人間はどうすべきかを考え抜いた先人の知恵に最もアクセスしやすいのが、実は、ほんの少し前まで、そのコスモロジーを保持してきた日本なのではないかと私は考えている。

 そして、日本人が保持してきた「もののあはれ」というコスモロジーは、人生そのものからドロップアウトしたような気持ちで生き続けるという感覚に近い。

 私が、11月末に能登を訪問したのは、自分にとって人生の折り返し点で、ドロップアウトの原点である能登の空気を、もう一度確かめたいという思いがあった。

 能登半島は、西海岸の荒々しさと、東海岸の穏やかさが強いコントラストを見せる。

 そして、海岸線の近くまで山が迫り、今回の地震でもそうだが、その海岸線の道が寸断されると、陸の孤島になってしまう世界だ。しかし、そうした過酷な場所で生きている人は、たとえば間垣の里のように、柔軟で風通しも保たれた竹の防風柵の中で暮らすことを選択するなど、自然と人間のあいだに強靭な壁を築かずに生きてきた。

能登半島の先端、輪島郊外の間垣の里。(今回作った始原のコスモロジーでは掲載しなかった。次の本のキービジュアルだった)。

 輪島の近くの海岸線にある間垣の里は、日本海の荒波と強烈な風にさらされている場所だ。その対策のためにコンクリートの壁を使うと、周辺の環境が違ってしまうだけでなく、大工事で作ったものは壊れた時に修復も大変であり、それよりも、簡易に作れて、壊れたらすぐに作り直せる竹の柵の方が良いのだろう。

 なによりも、竹の柵の中で生きている方が、万全ではないという危機意識も保ち続けられる。

 自然の力の前に人間の作るものが万全であるわけがないのに、コンクリート壁のなかで生きていると、その危機意識が弱まってしまう。それは、人間にとって生命力が減退するということでもあり、実は、人類という種にとって、それこそが最も危険な状態である。

 本当は安全ではないのに安全と思いこんでいたり、本当は、常に変化し続ける現実であるのに、ずっと同じ状態が続くように錯覚していたり、人間はいつか必ず死ぬということを前提に頭を使うべきなのに、死を遠ざける謀りばかりに頭を使う。

 11月下旬に能登半島を一周して、今回、津波の被害の大きかった珠洲と、震度7を記録した志賀など、5カットを、急遽、差し替えた。

 直感的な判断であるけれど、その判断の根本に、後書きのところで掲載した志賀町の高瀬宮の写真がある。

今回の地震震度7という最大の揺れを記録した志賀町の高瀬宮。

 この写真が象徴しているものは、この写真に添えた西行の歌、「何事の おわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」に秘められた畏れの感覚であり、現代文明の暮らしのなかで人間が失った最も深刻なものが、この畏れだと思うのだ。

 単なる恐怖ではなく、畏れには、敬意や憧憬も含まれ、自分の卑小さや驕りを自省する力となるが、この「畏れ」という感覚を失ってしまうと、人は傲慢になる。

 現代人は、高度な技術や豊富な知識情報を持つことが叡智だと思っているが、たぶん、本当の叡智は、人の傲慢さを抑制するものに宿っている。

 高度な技術や豊富な知識は、驕った人が使い道を誤ると、自分や自分と関わるもの全てを損なうが、人の傲慢さを抑制するものは、人と人との間だけでなく、人と森羅万象のあいだを調和させる。人を救う道は、傲慢とは逆の方向へと人を導くものであり、コンクリートの壁ではない間垣の里の竹の柵は、その調和を象徴している。

 私は、今回作った「始原のコスモロジー」で、この輪島郊外の間垣の里の写真は使わなかった。この写真は、次の号のイメージのコアにあった。

 入稿前に差し替えたのは、このたびの大地震津波の被害の大きかった珠洲市聖域の岬の写真と、震度7を記録した志賀町の巌門と機具岩の写真で、これらの地域は、19歳の自分にとって人生の折り返しを象徴する場所であった。

 そして、巻末で小さく掲載した石川県志賀町の「高瀬宮」こそが、次号のキーイメージである間垣の里とのつなぎだった。

 畏れという感覚を失うと、周りを傷つけたり損なったりするだけでなく、自分自身を損なっていくのだという森羅万象の中の法則を、人間が覚ることができるかどうか。

 文明のピークにおける一切の人間問題の解がここにある。

 

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 始原のコスモロジー 日本の古層Vol.4は、現在、ホームページで、お申し込みを受け付けています。

www.kazetabi.jp

 

 2024年の始まりにあたって、1月13日(土)、14日(日)、第14回、ワークショップセミナー「始原のコスモロジー」を、1月13日(土)、14日(日)に、京都で開催致します。
 ホームページから、お申し込みを承っています。

www.kazetabi.jp