第1455回 自分の計画通りに作るのか、何かに導かれるようにして作るのか。

レヴィ=ストロースは、生命原理は、エンジニアリング(設計思想)ではなくブリコラージュで成り立っていると述べた。
 毎月、東京と京都で交互に行っているワークショップセミナーの冒頭で、このことについて詳しく説明してから本題に入ることにしている。
 ウィキペディアなどで「ブリコラージュ」を調べると、「寄せ集め」とか中途半端な説明になってしまっているので、もう少し具体的な説明が必要だ。
 たとえば石工が作る石垣とか、宮大工が作る建築物、工業製品だと、ダイソンが作った掃除機などが、ブリコラージュに該当する。
 設計図を作って、それに基づいて完成させるのではなく、石や木など、物づくりに用いる物の声に耳を傾けるようにして、手や身体を動かして作り上げていくもの。
 日本庭園と、ベルサイユ宮殿の庭園の違いは、ブリコラージュと、エンジニアリングの違いだ。
 ダイソンの掃除機も、創業社長がいろいろなパーツを組み合わせて1000くらいプロトタイプを作って、ああでもない、こうでもないと、完成させていったと言う。
 私は、自分の仕事においても、無意識のうちに、ブリコラージュで行ってきた。
 私は、編集人だから、写真や文章を組み上げていくことが重要なつとめであり、写真構成などにおいても、全ての写真を見て、それこそ耳をすませるように集中して、写真と写真が呼びあっているのを察知するような感覚で組んでいく。
 自分の頭の中で設計図やコンセプトみたいなものを作り上げて、それに適った写真を選ぶとか、説明の道具として写真を選ぶとか組んだりしたことはない。
 このブリコラージュの方法で、川田 喜久治さんや細江英公さん、東松照明さんや石元泰博さんなど戦後の日本写真界の牽引者や、セバスチャン・サルガドやジョセフ・クーデルカなど海外の写真家の写真も構成してきたが、私が選び、組んだ写真のままで、ほぼ全てがOKだった。そして、それを面白いと気に入ってもらえることの方が多かった。
 自分自身の身の回りにある物にしても、デザインや色合いを統一するといったことを重視しないし、コンセプチュアルな作品を所有していない。器などにしても、デザイン重視のものよりも、焼き締めという釉薬をつかわず炎の力だけで焼いたものが好きだ。
 家具は、無垢のものが好きだし、椅子もたくさんあるが、同一規格でそろえたりせず、手触りや風合いとともに、異なるもののあいだの調和を考慮して選んでいる。
 作り手や選び手の頭の中が透けて見えるような物(エンジニアリング=設計思想)というのは、すぐに飽きてしまう。
 毎日、ベルサイユ宮殿の庭園を散歩するよりも、スティーブジョブスも通ったという京都の西芳寺苔寺)を散歩した方が、日々、異なる触発を受けるのではないか。
 飽きるかどうかだけでなく、石壁や建築物などがわかりやすいが、エンジニアリング的なアプローチで作ったものよりも、ブリコラージュで作られたものの方が、長い歳月を生き抜く。石工や宮大工の作ったものは数百年も残るけれど、現代の設計思想で作った家や壁の寿命は短い。 
 そして、ブリコラージュの力というのは不思議なことに、実践し続けていると、感度が鋭くなってくる。石工や宮大工の場合、石や木の声がよく聞こえるようになるだろうし、私の場合、写真の声がよく聞こえるようになる。自分で言うのも何だが、私は、誰かの写真集を作る場合、写真のセレクトと構成が、かなり速い。
 文章も、内容の深度や上手いか下手かは別として、計画的に考えて書いているのではなく、降りてくる言葉をブリコラージュ的に組み合わせているだけだから、かなり速いし、推敲もほとんどしない。
 写真の選択や構成に関しては、プロとして長年行ってきた仕事なので、速いだけではダメで内容が伴っていなければならないが、膨大な写真の中から高速で写真を選び、高速で構成した私のアイデアを写真家に見せても、だいたいにおいて、不満を持たれたことはなかった。
 写真に関して気難しいと言われた森永純さんや鬼海弘雄さんの写真集も、そのように作ったし、大山行男さんの場合、一般の写真家は最初のセレクトを自分で行ってある程度厳選するが、大山さんはそれをやらないので、何千枚という写真の全てに私が目を通している。
 風の旅人の創刊の時、北海道の水越武さんのところに行って、仕事部屋で一人にしてもらって3時間以上はかけて集中して全ての写真に目を通して選んで構成したのだが、掲載しようと思ったものだけ選んで持ち帰ろうとした時、水越さんは、「それだけでいいのですか?」と驚いていた。
 私はそれが当たり前だと思っていたが、聞くところによると、一般的な編集者は、使うかどうかわからない膨大な数の予備を持ち帰るのだそう。なので紛失されると困るから、デュープをとった上で送っていたらしい。私は、写真を見ながら展開を決めて写真の数を厳選していたので、オリジナルをそのまま持ち帰らせてくれた。
 それ以来、風の旅人は、デュープではなく一点かぎりの貴重なオリジナル写真を使うことが当たり前になり、写真印刷のクオリティの高さを評価されていたのも、そのあたりに理由がある。
 ブリコラージュというのは、エンジニアリング(設計思想)と違って、物を選ぶ人間側に尺度を置かず、物の中に秘められた力を引き出すことを重視する。
 石垣作りにおいて、エンジニアリング(設計思想)だと捨てられてしまうような歪な形の石は、ブリコラージュだと、うまく当てはまると、歯止めのように周りの石の力を受け止めてくれる。
 ブリコラージュは、自分の計画のために人や物を利用するのではなく、生かすという発想になるのだ。
 数日前に 『生成と消滅の精神史』に関する記事で触れたのだが、ホメロス神話のイリアスの時代、古代人が「神の声」に従って動いていた、というのは、このブリコラージュを、象徴的に、神話的に描いただけのことではないかと思う。
 ここ8年ほど私の意識は、どっぷりと日本の古層に向けられているが、この場合も同じで、私は、読書などを通じて自分の頭の中で構築した設計に基づいて計画的に動いたりせず、まず現場第一。
 フィールドワークを重視しているのは、その場の気配や見える景色が、自分の意識の深層と、どう反応するかを確かめるためだ。
 長年行ってきた写真の構成と同じように、一つひとつの風景や、その土地の記憶に耳を傾けて、それらが、どう結びついていこうとしているのか、読み取ろうとして、文章を書いたり、ピンホール写真を撮ったりしている。この場合の写真は、自分の主体的な目的意識が曖昧になるピンホール写真が相応しい。
 カメラで撮影するというのはshootという英語でもわかるように狙い撃つということであり、かなり自己中心的な行為だ。
 それに対して、ファインダーもシャッターもないブラックボックスピンホールカメラは、長時間露光で何ものかを招き入れるという感覚の行為となる。
 そういう感覚で続けていると、不思議なことにシンクロニシティが増える。
 おそらくベテランの石工などもそうだろう。その時に必要な石が、まるで向こうから声をかけてくるように、目に入りやすくなる。
 4月7日に、亀岡の千代川を訪れたのは、フィールドワークのためではなく、京ことばの源氏物語の語り会のためだったが、その会場が、保津川桂川)に面していて、対岸に丹羽富士の牛松山や、愛宕山が見えた。

千代川地域の保津川桂川)のほとり。保津川の向こうに丹羽富士の牛松山が見える。

 

 川の向こうは、以前に訪れたことがある小川月神社だと思い、桜も綺麗だし、待ち時間が3時間ほどあったので周辺を散策することにした。
 この千代川の一帯は、月読神の聖域であることや、瀬戸内海沿岸や紀ノ川に集中している石棚付き石室を持つ古墳が集中的に作られた場所であることは知っていて、以前、探検したことがあった。
 そして、源氏物語の公演時間が近づいたので戻ろうと思った時、ふと、以前このあたりを探検しながら、田んぼの真ん中にあって、車では近づけず、道路沿いに駐車スペースもなく、諦めた神社があったことを思い出した。
 この日は徒歩だったので、田んぼの畦道を歩いて近づいて行った。鎮守の森がこんもりとしていて、なかなか風情がある神社だった。これが、藤腰神社だった。

導かれるように田んぼの畦道を歩くと、こんもりとした鎮守の森があり、丹生の女神にも通じる野椎命という蛇神を祀る聖域があった。

 

 そして祭神を確かめたところ、野椎命だったので、驚きとともに合点した。全てのパズルが解けたように感じた。
 その内容は、昨日の記事に書いたのだけれど、、野椎命というのは、この一ヶ月ほど、何回か記事にした大山祇神三島明神)の妻で、南九州の吾田の海人族の女神だ。
 大山祇神三島明神)の妻で、吾田の海人族の女神は、地域によって名前が異なる。四国では大宜津比売、近畿では天津羽羽神、静岡の掛川あたりや神津島で阿波比売、伊豆の大島で波布比売。
 野椎命もそうだが、いずれも共通しているのは、竜蛇の女神だということ。
 そして、イザナミが生きていた時、つまり陰陽の調和が保たれていた縄文時代からの精神を反映している女神で、最近のタイムラインで何度か書いた「丹生の女神」の祈りに通じる存在だ。
 亀岡の月読神の聖域が集中しているところに、この野椎命の聖域がある。
 日本書紀のなかに描かれている月読神に関する奇妙なエピソード。保食神の食べ物の提供の仕方が気に入らないからと殺してしまったこと。古事記の中で、スサノオが大宜津比売を殺してしまった理由も同じ。そして、殺された女神たちは、大地豊穣の神となった。これは、古代ギリシャの蛇神であるメドゥーサと同じだ。
 亀岡の千代川に、石器時代縄文時代から続く千代川遺跡があり、さらに、明らかに外から進入してきた勢力のものだと思われる石棚付き石室を持つ古墳が集中していること。そのうえ、この場所の近くに、第26代継体天皇天皇に即位する前に、次の天皇になることを望まれながら恐れて逃げてしまった倭彦王が被葬者とされる古墳まである。 
 この場所は、間違いなく、古代における新旧の価値観が、せめぎあったところだ。
 新旧の価値観がせめぎあったところは、亀岡もその重要な場所の一つであるけれど、ここが全てなのではない。
 先週訪れた吉野の丹生の聖域もそうで、その場所にも、祟り神を鎮める御霊神社が多く築かれていた。亀岡の場合は、野椎命の代表的な聖域である稗田野神社のすぐ近くに御霊神社がある。
 不思議なのは、昨日のタイムラインでも書いたが、それらの新旧攻防の聖域が、なぜか、一本の規則的なラインでつながっていることなのだ。
 これについての私の考えは、そのライン上の一点が新旧攻防の舞台だったのでなく、おそらく、その周辺地域全体が舞台だった。そして、日本の場合、後からやってきた勢力は、前の勢力を駆逐してしまうことを行わず、門客神のように門を守る神にしたり、御霊信仰によって祟り神を守り神にするということを行っているので、地域全体の中から特定場所を選んで聖域として残す際に、各地に起きたことの連関性を示すために、聖域を規則的に配置することを行ったのではないかと思われる。
 いずれにしろ、何の目的も持たずに、源氏物語の語り会の待ち時間に、ふと脳裏に降りてきた導きのまま足を運んだところにあった蛇神=野椎命の聖域が、この一ヶ月ほどずっと追い続け、吉野まで足を運んでいたことともブリコラージュ的に組み合わさった。
 最近は、このシンクロニシティが、かなりの深度で起きていることが実感される。

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 日本文化と日本の祈りの本質を掘り下げる。
 4月27日(土)、28日(日)、東京で、ワークショップセミナーを開催します。
 詳細と、お申し込みは、ホームページにてご案内しております。
 また新刊の「始原のコスモロジー」は、ホームページで、お申し込みを受け付けています。

 

www.kazetabi.jp