第1322回  CHAT GPTの先の未来

 CHAT GPTを子供に使わせるべきかどうか? とか、大学生が、これを使って論文を書くようになってしまうのではないか、とか、どうでもいいような議論がなされている。

 仮に大学生が、CHAT GPTで論文を書いたとしても、問題になってくるのは、それを評価する側に、論文をきちんと評価できる能力が備わっているかどうかということ。

 CHAT GPTは、それを使うかどうか、使わせるかどうか、という議論ばかりになっているが、そもそも、CHAT GPTで代用できる内容のものに価値があるかどうかという問題がある。

 それは、他の誰がやっても同じ内容になるという類のものだ。

 これまでの社会での成績評価は、畢竟、他の誰がやっても同じ内容になるものを、どれだけたくさん、どれだけ速く、どれだけ間違いなくできるかどうかで競われていた。

 難関とされる東大入試に勝利する者は、その能力に秀でていたにすぎない。

 だから結局、そうした難関大学の先の職業分野である官僚的特性の強い組織に属する人たちがアウトプットするものの内容は、他の誰がやってもあまり変わらない。

 この仕組みの中で重視される価値観は、「計算通り」ということ。「物事がうまくいく」というのは、「計算通りになる」ということでしかない。

 CHAT GPTのような新しい機械は、「計算通りになる」ことが、そんなに価値のあることではない、という現実を突きつけてくるわけで、「計算通りになる」ことが重視される世界で幅をきかせていた人たちが、優位性を失う。そして、「計算通りになる」ことを目指す仕組みの中に歯車のように組み込まれていた人たちが、そういう仕事を失う。

 ならば、「計算通り」でないことが、「自由気まま」なのかというと、そういうことではない。

 スティーブ・ジョブスは、なぜ、あれほどまで人の心を惹きつけたのか?

 ジョブスが創造した「Ipad」などは、使われている部品にアップル社のオリジナルはなく、どこか他の会社が作っている部品(日本製が多いと言われていた。今はどうかわからない)を組み合わせることで、Ipadという、これまでにない製品が生み出された。

 ジョブスは、「計算通り」の物には何の価値も感じていなかっただろうし、そのアイデアは、極めてオリジナルだった。だからといって「自由気まま」だったわけではない。

 彼は、編集能力に優れていたのだ。別の言い方だと、ブリコラージュだ。

 ブリコラージュに対立する言葉はエンジニアリングで、これは設計思想。つまり、計算通りを目指している。1+1が2になる世界。

 ブリコラージュは、寄せ集め、組み合わせ次第で、1+1が、3にも4にもなる世界。

 これまで、ブリコラージュについて説明する時に私が例えにしているのは、石工のつくる石垣の世界だ。形や大きさがバラバラの石を巧みに組み合わせることで、強固な石垣になる。

 ブリコラージュは、無から有を産み出すのではなく、すでに存在しているものの力を、最大限に発揮させることに自分の能力を使う。その奥義は、物事は何一つ単独で存在するのではなく、「縁」、つまり関係性の中で存在意義を発揮するようにできていることを覚ること。

 ならば、CHAT GPTにしても、どんな機械にしても、使い方次第だということだ。それらに従属させられるのではなく、それらをブリコラージュする立場に立つことが大事。

 そして、そのためには、大局を見る力が必要になる。

 大学生が、CHAT GPTで論文を書くようになることで本当に問われてくるのは、大学教授の側に、大局を見て判断する能力があるかどうかだ。

 大学現場だけでなく、あらゆる現場で、そのことが問われるようになる。そして、そうした状況に対応するために、その後の教育がどう変わっていくかが、最も大事なことになる。

 これまでの教育は、「計算通り」の人間を多く育てることに貢献した。これからは、そういうわけにはいかない。ただそれだけのことにすぎない。

 

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