第1323回 写真をわかるとは?

 写真表現に深く関わるところで仕事をしてきた一人として、写真について評論や解説をしている、とりあえずプロの写真家や言論関係の人の言葉で、「写真のこと、まったくわかっていない」と嘆きたくなる言葉がある。

 それは、写真を語る時に、たとえばモノクロ写真であると、濃淡とか、モノクロであれカラーであれ、ディティールの再現性とか切り取り方のセンスとか、そういうことしか語れていないケースだ。

 それらの写真には、いろいろな場所で出会った人々や、事物や風景が写っている。

 写真に映し出された人々や事物や風景について何も語られず、ディティールがどうのこうの、濃淡がどうのこうのという言葉しか出てこない場合、たとえ、言葉を尽くしてその写真を褒めていても、その写真家の仕事を褒めていることになるのだろうか?

 もし、それが、その写真家の仕事を褒めているとすれば、その写真家は、いったい何のために、人や事物や風景にカメラを向けているというのか?

 写真家が被写体にカメラを向けるのは、その被写体に対して何かしら心動かされるものがあるからではないのか? それとも、自分の写真の腕を試すには好都合だと思い、その技を誇示するためにシャッターを切っているだけなのか?

 もしも、その写真家が被写体に心を動かされてシャッターを切る、つまり被写体の中に潜む魅力を引き出したい、そしてそれを伝えないという思いならば、自分の写真のディティールの再現性や構図が云々よりも、その被写体に対して鑑賞者の心が動かされた時に、自分の写真はうまくいったと思えるのではないだろうか。

 「写真がわかる」というのは、構図がどうのこうの、ディティールの再現性がどうのこうの、というのを、もっともらしく説明することではない。それこそ、そういうテクニックは、もはや、AIに任せれば上手にやってくれる時代になってきている。

 「写真がわかる」というのは、写真の中に秘められている撮影者と被写体の心の動きや、関係性や、写真の背後に隠れている何かが、写真を通して現れていることを、きっちり察知できるということだ。

 だから「写真がわかる」ならば、それらの言うに言われぬ何かを、より浮かび上がらせるように写真を組み上げることができる。

 写真がわからない人は、そうした組み合わせができない。だから、写真集を組んだり写真展の展示で、鑑賞者の心が動いたり、写真の背後にある何かに思いをはせるような構成ができない。

 写真がわからない人は、カテゴリーやジャンルや状況設定や時系列で組んでしまったりする。つまりそれは、説明的な配置にすぎない。

 写真というのは、言うに言われぬものを掬い取って、それを、言うに言われぬ感覚のまま伝えることができる表現だ。

 簡単に説明できるようなこと、言葉で伝えた方がいいようなケースは、わざわざ写真にする必要はなく、言葉の方が誤解が生まれない。

 言葉に置き換えることが難しい微妙な味わいや気配などは、写真でこそ伝えられるから、それがうまく伝えられている写真は、優れた写真と言える。

 たとえば、鬼海弘雄さんの「ペルソナ」や、森永純さんの「波」などは、その代表だと思う。他の表現方法では到達できないものを写真が示している。

 これらの優れた写真を言葉で説明する時、ディティールの再現性が素晴らしいなどと、写真家のテクニックを褒めるような言葉を用いるだろうか?

 おそらく、そうではなく、被写体のなんとも言えない味わい深さや奥深さに唸ることになり、よくもまあ、そういう被写体の魅力を引き出せたなあと感嘆する。

 そのように被写体に秘められた力を写真で引き出せているということを的確な言葉で写真家に伝えられれば、その写真家の仕事を讃えているということになるだろうが、被写体については触れずに、写真のディティールや構図などで写真の価値を説明している人は、この時代の写真家のミッションじたいをわかっていない。写真の素人が、あれこれ論じるのは害が少ないが、専門家と称して、写真関係の媒体で論じたり、写真学校やワークショップの類で、そういう教えを広めている人がいる。

 写真学校って、悲しくなるほど高額な授業料だと誰かに聞いた時、そんな大金を払って本当の写真力を伸ばすことにつながらない教えを受けるくらいならば、そのお金で旅に出て、いろいろと魅力あるものに触れて、心動かされて、実際に写真を撮り続けた方がよっぽどマシだろうにと思った。

 こういうことを書くと、写真学校で給与をもらっている人は怒るだろうけれど、表現って、それぞれが現場で学ぶものだろうし、現場での出会いの方が、表現力を高めるうえで大事だということは、その人たちもわかるはず。

 写真について説明する時に、構図だとかディティールの再現性などの言葉しか出ない人は、”出会い”の大切さ、”出会い”が自分の運命を変えることがあり、出会いこそが写真の生命線ということがわかっていないのかもしれない。

 写真の魅力は、”出会い”によって、その”出会い”を呼び込み、それをかけがえのないものに昇華させる表現者の作法によって、ほぼ90%以上が決まってしまう。

 

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