第1306回 ”ことば”と写真家の関係

 

「写真集制作のためのポートフォリオレビュー」というのを始めたのだけれど、写真表現を行っている人で、「文学には興味がない」とか、「自分は言葉が苦手だから、言葉にならないことを写真で表現する」などと軽々しく言う人がいるけれど、果たしてそれでいいのだろうか?

 

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 私がこれまで仕事をしてきた素晴らしい写真家で、深い文章を書く人は多かった。鬼海弘雄さん、ジョセフ・クーデルカ、川田喜久治さん、野町和嘉さん、水越武さん、ユージン・スミスの文章も素晴らしいし、ほとんど例外なく、優れた写真家は、優れた文章を書く。画家だって、音楽家だってそうだ。ピカソセザンヌ加山又造東山魁夷武満徹など、数え上げたらキリがない。

 そうした優れた表現者も、言葉にならない領域を表現しようとしている。言葉で伝えられるレベルのことであれば、あえて写真や絵画で表現するよりも言葉の方が伝わりやすいのだが、「言葉にならない領域」というのは、その人が、言葉をどれだけ掘り下げているかによって違ってくる。

 言葉で掘り下げていない人が口にする「言葉にならない領域」というのは、その人にとってはそうかもしれないが、他の人にとっては、言葉で言った方が早いんじゃない、という程度のものかもしれず、だから、その人の写真には、他の人には真似のできない何かが備わってこない。

 鬼海さんは、癌の治療のため、抗がん剤を投与されて心身ともキツかった筈だけれど、病院の枕元にはたくさんの本があった。写真関係の本は一冊もなく、文学本が大半だった。

 文学から遠い人で、「自分には悪気がなかった」と、平気で言えてしまう人がいる。相手に対して雑な対応をしていても、自分が鈍感もしくは想像力が足りないから不誠実の認識に至らないだけなのに、「自分は悪気がなかった」と言い訳をしてしまう。

 優れた写真家は、そうした無神経さを自分自身に許さないので、とても丁寧に誠実に相手に対応する。

 それは当然のことで、なぜならカメラという道具が、使い方によっては暴力になってしまうことを、よく知っているからだ。カメラは、使い方を間違えば、人を傷つけたり真実を歪めたり被写体を自分に都合よく利用するだけのものになる。

 20世紀までは、そうした暴力的な自己主張にすぎないものがアートだと持てはやされたことがあったが、それは、人や物をどれだけ消費するかを競争する社会だったからだ。未だにその感覚を引きずっている自称アーティストがいるとすれば、それは時代遅れの鈍感さゆえのことであり、そうした資質は、芸術性からもっとも遠い。

 消費社会の行き詰まりは、鋭敏な感性の人たちなら誰でも意識できていることで、精神の羅針盤である表現者が、それに対して無神経であっていいはずはない。

 人や物を消費するのではなく、人や物の中に本来備わっている力を引き出すことが、21世紀の表現者のミッションであり、そのためには、被写体に対する誠実さや配慮、被写体に耳をすますことが、とても重要になる。

 カメラという道具の良し悪しは、カメラを使う人の心構えで大きく違ってくる。カメラによる表現活動を志している人は、その道しるべになるという信念や覚悟をもって欲しい。

 現在、写真家を名乗る人は無数にいるのだが、いわゆる写真愛好家の中で、良いとか悪いとか新しいとか古いと評価し合っているだけで、他の表現領域においても尊敬されている写真家は、ほんの一握りだ。

 私はその何人かを知っているが、その人たちは、被写体に対して誠実に取り組んでいる人たちであり、人や物の中に本来備わっている力を引き出すことができる人で、深い文学性を備えている。そういう人だけが、写真界という領域を超えて、普遍性にいたっている。

 目の付け所が斬新だとか、構図が素晴らしいとか、シャッターチャンスを逃さないとか、自分の餌を探すように周りをギョロギョロ見て、フィルム代のかからないデジタルカメラということもあって何枚もシャッターを切っていればセンスのいい一枚があるかもしれないという感覚でやっていると、世界の深いところと自分の内面が写真を介して深くつながるという喜びとは無縁なので、けっきょく、写真愛好家のコミュニティで、「いいね!」と言ってもらえることだけが目標になる。

 カメラを使う技術を身につけているだけでも特別だった時代ならば、カメラ愛好家内の評価にも少しは意義があったが、今はスマホで誰でも簡単に写真が撮れる時代だ。

 鬼海弘雄さんは、カメラを持って1日中歩き回っても、2、3回ほどしかシャッターを押さなかったが、それはシャッターを押すことにとても慎重で、自分の無神経さによって、物事の本質を歪めてしまうことを恐れていたからだ。

 「人間の尊厳」などという言葉が安易に使われる時代だが、人間の尊厳を損なう方向に進んできた近代に発明された写真表現を、人間の尊厳を取り戻すために使うのか、それともさらに貶める方向に使うのか?

 近代兵器のカメラで無神経に撃ちまくる人は、そんなこと考えもしないだろうが、21世紀の写真家を志す人は、そうした文学的な問いを自分に課した方がいいのではないかと思う。

 

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