消費社会と写真

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(撮影:木村肇 風の旅人 復刊第4号 「死の力」より)

 ポートフォリオレビューで自分の写真を見せに来て、わざわざ、「他人の影響を受けたくないので、人の写真はあまり見ないようにしています」と言う人がいる。文章表現を志している人で、こういう発言を堂々とする人はめったにいないので、写真界には、このように写真表現のことを甘く考えていいという風潮があるのだろうと思う。

 日本は、写真を撮っている人は無数にいるが、にもかかわらず写真や写真家に対する評価が高いとは言えないのは、この発言のように、写真表現を甘く見ていいという風潮が背後に横たわっているからだろう。
 もっと言うならば、日本は写真大国ではなくカメラ大国であり、カメラメーカーの影響力が強く、カメラメーカーにスポンサーになってもらっている各種媒体が、軽い気持ちで写真を撮る人を増やすことでカメラユーザーを増やしてカメラメーカーに貢献することが課せられており、それらの媒体に重宝される評論家や写真家?も、写真のことを軽く扱う風潮を広める一員になっているということもある。

 皮肉なことに、その流れに添った方が写真業界周辺では人気者になるのだが、結果として、社会からは、ほとんど尊敬されないジャンルになってしまう。
 そして、そのように写真のことを軽く扱う人が増えることによって、実は、多くの人が、知らず知らず、その悪い影響を受けてしまうことになる。悪い影響の最たるものは、写真は言語よりも直接的に事物を指し示す特徴があるので、物事にきちんと向き合わなくても(脳を一生懸命に使わなくても)、知ったつもりや、わかったつもりになりやすいということだ。
 政治においても、近年、キャッチフレーズのような一言を多用し、有権者の支持を得ようとする手法が多く用いられているのは、有権者が、わかりやすいものにしか反応しなくなっているからであり、その原因の一つとして、写真を含めた安易な映像表現が社会に溢れているからとも考えられる。
 わかっているつもりになっている多くの人が、まるでわかっていないのは、生きているだけで、知らず知らず外界からの影響を受けているということだ。
 影響を受けたくないので他人の写真は見ないという人は、メディアが垂れ流している安易な映像の影響を知らず知らず受けている自分の感性を、自分の個性だと思っている。
 文章にしても同じで、本を読まない人は、巷に溢れる三面記事のような言語の影響ばかり受けて、言葉をアウトプットしがちだ。
 そうした安易な映像や言語の影響を拭い取るためには、その安易なスタンスに反省を促す力のある写真や言語を、自ら求めて探し出していかなければならない。
 「他人の影響を受けたくないので」などと安易な理由をつけて、そういう努力を自分に課さない人は、実際には、安易な世間の風潮の影響をモロに受けながら、そのことに無自覚なだけなのだ。
 世の中には、ステレオタイプの物の見方を強いる写真が溢れていて、誰もが、その影響を受けて感性を歪まされている。我々は、写真のなかった時代の物の見方を想像しずらい。物の見方というのは、昔からずっと、自分が今見ているような見方だと、かってに思っている。しかし、実際はそうではなく、物の見方というのは、外界の刺激の影響を受けて変容しているのだ。同じ人間でも、多感な思春期の頃と、それ以外では異なっていることが多い。
 写真によって歪まされた物の見方を矯正するには、写真の力が必要だ。写真には力があるということを体感する為にも、巷に垂れ流されている安易な写真とは違う力のある写真を、自ら探し出さなければならない。そして写真が単なるファッションではなく、物を見る力、物に向き合う力を恢復させ、治療する力があるということをわかっている写真表現者が増えないかぎり、日本の写真表現は、いつまでたっても、カメラメーカーにとって好都合なファッションアイテムでしかないだろう。
 日本人は、キレイな写真、うまい写真の存在は知っていても、人の心を強く揺さぶる力のある写真が存在することを知らない人が多い。写真の力によって、物を見る力や、物に向き合う力が変化するなどと想像すらできない状況だ。
 そうした力のある写真は、消費社会と相性がよくないので、あまり人目につかないように扱われている。消費社会というのは、ステレオタイプの大量生産で、物品を効率よく流通させ、消費させる社会だから、それは当然のことだ。
 消費社会を促進させるだけの写真は、消費社会で人気取りになる。消費社会の化けの皮を剥がす力を秘めた写真は、消費社会で敬遠されるか、いろいろな冠をかぶせることで骨抜きにして、巧みに消費される。

 

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