*第944回 交換価値や象徴価値から、提供価値の時代へ

 花見シーズンということもあって、連日、海外からのゲストがやってくる。airbnbって、けっこう楽しい。いろいろ問題もあると伝えられているけれど、確率でいうと、問題があるのはごく僅かなのだと思う。今のところ、おかしなゲストはいない。みんな丁寧で、人の家に泊まっているということを、きちんとわきまえている。問題が多ければ、世界中でこんなに数多くの人が行う筈がないので、上手に行えば、メリットの方が多いのだろう。私個人は、とても面白システムだと感じる。
 中国、アルゼンチン、アメリカ、イギリス、ベルギー、オランダと、連日、異なる国の人がやってくるし、家族だったり友人同士だったり恋人同士だったり様々なので、それぞれの関係を見ているだけでも面白い。アルゼンチンの家族は、大学を卒業して1年ほど世界各国を放浪している息子と両親が私の家で落ち合い、父と息子で、「いつになったら帰ってくるのだ」、「そんなの今は決められない」と言い合っている。今日は、イギリスの家族が泊まっているけれど、小学生の娘がとても可愛い。旅行中だけど、毎日、きちんと宿題をやっている。この頃の子供って、本当に天使のよう。
 また、一昨日は、日本に住んでいる男性のアメリカ人が、アメリカからやってきて駆け足で日本を旅行している女性二人をエスコートしていた。ギターを持って旅しているので、その理由を聞くと、彼は、福島の仮設住宅などを訪問してギターを弾いているらしく、私の家でも、ギターを弾きながら女性達と一緒に歌を歌っていた。
 彼は、柄谷行人の英語版の本を読んだというアメリカの学生で、日本の思想、哲学にとても興味を持っていて、夜遅くまで話し込んだ。原発事故後の福島も、地域文化や共同体がどうなってしまうのか、きちんとフィールドワークしたいと言っていた。彼は、風の旅人を見て、凄すぎると言って、買ってくれた。彼が柄谷行人を読んだのは、英語で読める日本の代表的知識人の思想を通じて、西欧を客観視する視点と、日本人の思考特性を同時にかみ砕こうとしたのだろう。
 思想界には、西欧思想を右から左に流すだけの思想屋さんもいるし、そういうものを超越していると自負している人もいるだろうけれど、いずれにしろマルクス主義やカントを必死に読み解いて、「資本主義や国家制度を超克するためにはこうでなければならない」と導き出した原理は、けっきょくうまくいかなかった。
 原理を考え抜く時点で入手できる知識や情報だけでは、想像できることに限界があるからだと思う。
 そして、たとえ知識人と、我ら凡人のあいだで知識量が違えども、同じ社会の中で生きて暮らしているかぎり、生理的な感覚として、可能だろうと感じること、無理があると感じることは、そんなに違わないし、未来に対するイメージとか時代社会に対する閉塞感も、そんなに変わらない。想像力は、見知っている事物に左右される。見知っている事物が変われば、想像力が変わり、そして思想も変わるのではないかと思う。
 いずれにしろ、思想における知識をたくさん持っていても、実際の社会に現れている事物に対する情報力が、一般人とそんなに変わらない思想家は、君たちとは違うんだよという矜持を保つため、”素人”が簡単に近づけないような言い回しや、自らの権威付けを一生懸命にやるしかない。そうした努力のあげく、どんなに分厚い本を送り出しても、世界は何も変わらない。なので、最後の手段として、「批評の終わり」とか、「芸術の終わり」などと煙に巻いて、”君たちよりも一歩先にいる醒めた賢者”という自己演出で、自分の価値を保とうとする。
(思想界に限らず、科学の分野においても、研究費の確保のために、自分を権威付け、象徴価値を高めることは重要な戦略である。)
 思想家や芸術家などのカリスマ性というかタレント性が商品価値になると考えている人達は、今もなお彼らを上手に利用し続けようとする。写真界でも、写真というニッチ分野における高齢の写真家タレントの過去の作品を、何度も繰り返して特集する安易な企画が、とても多い。
 そうした最後の足掻きのようなことはまだ続いているけれど、もうそろそろ、本当にどうでもよくなってきた。なぜなら、ここ数年で急激に起きている事態は、どうやら、人間の欲求のあり方を変えてしまいそうで、それにともなって、価値基準も変わりそうな予感があるからだ。欲求のあり方や価値基準が変われば経済も変わるし、結果的に国家体制のあり方も変わってしまうかもしれない。
 その変化は、原理の力ではなく、草の根的な展開によって、じわじわと広がっていくような予感がある。
 人は生きていくために、物やサービスを交換しているのだが、世界に物とサービスが増えるにつれ、使用価値→交換価値→象徴価値という段階をたどって、生活に直接必要なもの以外のものへの関心と欲望が増大していった。
 戦後の物不足の時代は、まずは使用価値のあるものが必要で、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』だった。
 バブルの頃は、土地や不動産など交換価値の上昇を見込んで投資が増大した。そして、家の中に生活必需品がそろった後は、欧米では召使いに運ばせるルイヴィトンのバックを自分で持つ人が異様に増えた。日本人は、ルイヴィトンのバックのような象徴価値に弱い人が多いけれど、天皇を象徴とするこの国の制度の影響なのだろうか。
 そして、アベノミクスというのは、使用価値とはあまり関係なく、象徴価値と交換価値のあいだを激しく行き来させることで経済的な数字を上昇させようとする経済政策だから、いくら数字が上昇しても、豊かさの実感が伴わなくて当たり前なのだ。
 こうした状況の中、政府の狙いとは別に、象徴価値と交換価値の堂々めぐりから少し外れて、提供価値とでも言うべき基軸を持って生き始めた人達が増えている。
 自分が持っている物、時間、空間を提供することの面白さや喜び。airbnbでも、お金儲けが目的で交換価値にとらわれてしまうと、自分が投じたコストやエネルギーと対価のことを気にし続けることになる。しかし、自分のところに来るゲストに、この地の良さを知ってもらいたい、限られた時間を充実したものにしてもらいたいという気持ちが自然に生じると、そのために時間を割いて、丁寧なマップを作ったり、時には、無償で案内したり、いろいろとアドバイスをする。数日間だけ滞在するゲストよりも自分の持っている情報知識の方が多いのだから、それらを提供できる。自分がこの場所に余った部屋を持っているのだから、それを提供できる。相手が、今この瞬間の時間と空間を満喫しているのを見ると、こちらも楽しい。
 また、自分が余った時間と、今使わない車を持っていれば、UBERを使って、それらを提供する。それができる状態にあるから、それを行う。無理はしない。
 サルマン・カーン氏が、10億ドルを誘惑を蹴って推進している無料教育サイトから、日本でも、eboardのようなものが広がってきているのは、とても素晴らしい流れだ。
 http://www.eboard.jp/

 また、人口13万人、約4000人の認知症の人が暮らしている富士宮市において、認知症サポーターの数は1万人を越えて増え続けているが、全国的にも、同様の取り組みが広がっている。
 そして面白いことに、こうした無償の活動に対して、支援のためにお金を提供する人達もいる。人間の欲求は、自分が所有することばかりに向けられるわけではないのだ。
 このように「提供する欲求」をかなえる状況を実現するためにも、まずは食べていくための手段が必要だという現実がある。
 生きていくために必要な物を買ったり、サービスを受けたりするためには、お金は必要だ。しかし、象徴価値に対してあまり欲求が生じなくなると、お金の支出は、かなり減る。旅行をする場合も、一流ホテルに泊まるステイタスや快適さよりも、airbnbで一般の家に泊まることの面白さを欲すると、旅行費用もかなり安くなる。新品の家具で揃えるのではなく、オークションや、リサイクルショップで質のいい物を探す。贅沢を我慢するのではなく、これまでの通念とは違う”贅沢さ”があるのだ。
 思想家達は、その時点において思考の種になるようなものをかき集めて、考えに考え抜いて、世界を分析し、かくあるべき世界を提唱してきた。
 現状を止揚(古いものを否定して新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨てられるのではなく、古いものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階とし保持される)する現実の運動が、いろいろと試みられてきたきたけれど、原理に基づいて新しいものを立ち上げようとしても、原理自体が古い構造の中のものだったので、新しい展開には至らなかった。
 新しいものは原理から生じるのではなく、歴史が準備していく。その準備には、人間の欲求の変化が含まれている。マルクスはそのことをきちんと理解していたが、マルクスの思考が主義となり原理となってしまった。
 自分が持ってしまった過分なものを提供し合うことで、暮らしがうまくまわるようになっていくと、資本主義や国家の体制は、自然な形で、止揚されるのだろう。武力による力づくの革命でなく。 
 提供し合う社会というのは、消費は落ち込むし、資本主義の原理で動いている企業は倒産する。税収が増えないと、政府の役割も変わらざるを得ない。税金を集めて、それを配分するのではなく、提供を促進する制度に変えていかざるを得ないのではないか。ろくでもないことに使われるかもしれない税金制度ではなく、自分の提供欲が満たされ、その提供によって多くの人が支えられるという制度に。 提供できるのはお金だけではなく、時間や、心身を働かせることも含まれる。
 そして人は誰でも潜在的に、自分が物やサービスを使ったり交換したいという欲求が減退してくると、自分がもっている”もの”を提供し、人に喜んでもらいたいという欲求が増してくる。そうした欲求が、自然な形で発揮できるような制度が整っていけばいい。

 原理に基づいて急激にそうした社会体制を実現しようとすると、社会不安が増大するのは当然のことだ。だから、そうならないように、原理は捨てて、できるところからゆっくりと始まっていくことになるのだろう。自分の暮らしをまわしていくために、タダで提供するのではなく、今のところはある程度の金額を受けとって。そうすることで、提供を受ける側も、必要以上に気を遣わずにすむから。






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鬼海弘雄さんの新作写真集が、まもなく完成します。
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