希望とか救いとか赦しとか•••

 これから熊本に飛ぶ。石牟礼道子さんのお話を伺うために。
 石牟礼さんは、ずっと長いあいだ、重い病気にかかられている。現在も、病院に入院中である。そういう石牟礼さんに、会って話をしたい。
 現在、制作中の、風の旅人の第48号のテーマ「死の力」に、どうしても、石牟礼さんの言葉が必要だと感じている。このテーマにそって、石牟礼さん以外に、相応しい方がいるかどうか、今の私には思い浮かばない。
 2011年3月11日に大震災があり、その後、風の旅人を復刊させたりして色々考えてきたことは、あれだけの災難があって、それでも人間は変われないのかということ。
 変われないとすれば何故なのか?
 変わる必要がないと思うほど、現状に満足しているのか、それとも鈍感になっているのか、もしくは、気付かないふりをしているだけなのか。
 もし、自分に正直に向き合って、変えようと思い、決心し、実際に行動し、変われるとすれば、一体どういうことが大事になっていくのか?
 変われない理由、変わろうとしない理由は、色々あるだろうけれど、突き詰めて言うならば、死生観ということにつきるだろう。
 生と死の意味、位置づけ、その重み、広がり••••。
 そして、その死生観のうえに乗っかっている人間の幸福観。
 何をもって幸福とみなすのか。
 この幸福観も、自分自身の価値基軸だと思っている人が多いが、実際には、そう思うように、そう感じるように、刷り込まれている可能性もある。だから、幸福観を無理矢理に刷り込まれた意識の表面と、意識の深いところにある望みとのあいだに剥離が生じ、精神的にバランスが悪くなり、それを解消する為に、意識せずにすむように、刹那的な、無聊の慰めに耽溺してしまうということがある。テレビチャンネルをお笑い番組にあわせたり、コンピューターゲームに没頭し続けているあいだは、何とかごまかし続けることができる。
 刷り込まれた幸福観というのは何か。それは、自分の手に負える範疇、つまり自分の頭で理解して、自分の力で何とかしなければならない範疇を現実だとみなされて、その現実の中でうまく対処することを自己責任だとみなされて、その責任を負うことが現実を生きることだと暗黙のプレッシャーをかけられて、そのプレッシャーの中で勝ち取るものが、幸福であるという考え方。それが競争原理ということ。
 その競争原理の社会に、民主主義とか平和主義のヒューマニズムが混交しているため、人間は誰でも幸福に生きる権利があるという主張のもと、競争原理のなかで負けた者にも手を差し伸べなければならないという論理があり、ただ物質的、金銭的な配分の、保護というか管理の必要性が説かれたり、支援という名目で、競争原理の勝者の自己宣伝に使われたりする。
 そして、自分の手に負える範疇が現実だから、それを超えたものにさらされた時は、思考停止状態に陥る。多くの人が、この狭められた現実の中で、自分の手に負える範疇を超えた出来事に対する心の備えができていないけれど、運悪く備え不足や適切な対応力の不足によって他者を傷つける立場に立ってしまったものは、管理責任を問われ、詰問され、思考停止でうまく答えられないと、誠意がないと断罪され、裁かれてしまう。善良に毎日を生きている大勢も、運が悪ければ、その立場になる可能性がある。
 でも、本当は、そうした現実認識に少し無理があるかもしれない。そうした幸福観に限界があるかもしれない。
 この現実世界には、自分ではどうしようもないことが満ち溢れている。その大きな壁の前で諦めて、投げやりになり、空虚になり、捨て鉢になるしか方法はないのか?
 自分ではどうしようもないことに対する心の置き方こそが、現代社会において切望される思想だと思うのだけれど、なかなか、そういう現代思想は出てきやしない。ハウツーというか、処世本の類か、現代社会の分析本はけっこうあるのだけど。
 石牟礼さんの文学は、困難な状況のなかでの、祈り、赦し、憧れ、救いが描かれている。そもそも、生きることは困難であり、その困難の解消という手ほどきではなく、苦しんで、悶えている状態を、ただ否定的にとらえるのではなく、人間の美しい姿として描ききっている。人間だけではなく、人間を含めた生類すべてが、途中で倒れるものがあっても、倒れる亡骸をふりかえりながら、憧れを持って次の第一歩を踏み出し、生をまっとうし、そうして命をつないできたことを伝えている。
 その文学の中に秘められた希望は、誰にでも一目瞭然の、煌々と照らし出された物質的存在ではなく、花あかりのように、一輪の花のような、星のような、周りは闇のように暗いなか、うっすらと浮かび上がるような、でも、その薄明かりがあることで少し安心できるようなものだ。
 誰かに助けてもらえるという明確な保証ではなく、一歩一歩、自分の生の証を踏みしめるように、自分の足で歩いていくには、その程度の薄明かりがあれば十分。
 石牟礼さんの言葉に触れていると、希望とか救いとか赦しいうのは、たぶん、そういうものだろうと、うっすらと感じる。
 石牟礼さんの言葉は、わかるようでわからない、そんな花あかりのような言葉だ。

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