パパタラフマラの稽古を見て感じたことなど







 昨日、パパタラフマラの稽古を見るために両国まで行き、その後、演出家の小池博史さんと、夜遅くまで話し込んだ。

 話は、いろいろな局面に広がったが、その軸には常に二つのことがあった。「わかる、わからない」と、「新しい、古い」ということだ。

 パパタラフマラの作品は、表現者のあいだでは「わかる(何かしら感じるという意味において)」人や、「新鮮さ」を感じる人が多いが、演劇界の批評家のあいだでは、「わからない(何をやりたいか感じ取れないという意味において)」、「退行だ」といった批判を受けることが多いらしい。

 そうした状況の中で、小池さんは、「わかる(感じる)人に、わかってもらえればいい」という心境には簡単になれない。なぜなら、絵画、彫刻、小説、映画では、作品が残り続け、現時点では理解されなくてもゴッホのように後になって認められ、かつ人間の精神のベクトルに影響を与えることが可能だが、舞台の場合は、そうはいかないからだ。

 表現者は、よく「自分の為に表現する」などと口にする。しかし、「自分の為に」という言葉は曲者だ。自分のことしか考えていない人もいれば、社会および人間全般を自分ごととして引き受けてしまっている人もいて、人によって、「自分の為」の範疇がまるで違っている。現在、恵比寿の写真美術館で開催中の森村泰昌展を見れば、自分の為に表現することが、人によっては、20世紀全体、そして未来を射程に入れたものであることが、明確に実感できるだろう。

 小池博史さんも、社会全体及び人間の未来のことが自分自身の問題意識として、常に存在している。同時に、自分の表現が、絵画などのように残らず、その瞬間を体験した人達だけで共有されて消えていく宿命であることも自覚している。にもかかわらず、言語を操る評論家が、彼の表現を「何をやりたいかわからないので、つまらない」とか「退行している」などと、自分の鈍さを省みることなく安易に書き散らかし、その記号的言語が事実のように後に残ることに対して、やりきれない思いを抱えている。後に残るということで、言語の方が圧倒的に優位なポジションにあるのだから。

 小説などのように、評論家の書いた文章と小説を並べて読ませて、多くの人が冷静に判断できる状況があれば、評論家の鈍さは一目瞭然となるが、舞台芸術は、それができない。

 私は、評論家ではないが、パパタラフマラの舞台を通して、どんなことが行われているか、観念ではなく、自分のリアリィとしてわかる(実感できる)。

 言葉と身体との問題について、近代文明が歪め、喪失したものを、どのようなプロセスで取り戻すべきか、表現を通じて試み続けていることが伝わってくる。

 とりわけ重要なことは、身体と言語の関係の再認識のプロセスを、観念だけで主張せず、具体的な物である肉体を主に行っていることだ。観念は、地上の現実を無視したところまで肥大化し、妄想となるが、肉体という制約は、現実世界のリアリティを常に確認させる力となる。逆の視点でみると、観念は、自分が意識的に整理できることだけしか事実として認めない頑迷さもあるが、肉体は、自分の意識に先行して世界の何ものかを察知し、咄嗟に動くことがあり、人間の意識の範疇を超えたものと交流する自由さも持ち合わせている。

 空を飛びたくても飛べないなど観念に比べた肉体の不自由さは、比較的多くの人が認識しているが、観念こそが不自由であるという認識は、あまり持たれていない。小池さんの表現の喫水面は、肉体という制約を通して現実世界のリアリティの範疇に留まりながら、観念の不自由さから解放されるところにある。海上で風を受けて走るヨットは、水面下にしっかりとしたセンターボードがあってこそ潮に流されず、転覆せずにすみ、自由でいることができる。そのセンターボードが肉体なのだ。

 しかし、そのセンターボードを、現実の経験によって作り替えて行くのではなく、観念で前もって決めてしまう不自由な人もいる。肉体を使った舞踏表現を志しながら、頭が硬く、「常識的に、できない」と決めつけてトライしようとしない若者が増えていると、小池さんは嘆く。

 「できる、できない」の二者択一の分別は観念支配の世界だ。今日の日常生活において、私達は、私達が潜在的に持っている力の半分も発揮せずに生きているのだが、それに気づかず、観念は、そこに限界線を引いている。色々試みることで、結果としてできるようになることは多い。それまでの自分が考えてもみなかった方法が有ることに気づくことが喜びなのに、最初から、その喜びを放棄した思考特性に陥る人がいる。ガイドブックに書かれている場所をなぞることを旅の満足と考える人も同じだ。それは、既存の価値観を追確認することで安心したいという心理の現れなのだろうか。

 「できる、できない」だけでなく、「わかる、わからない」も同じ。自分の中に蓄えてきた知識情報と常識の範疇で分析して合点がいくことが「わかる」ことであると、現代人の多くは思っている。しかし、もしそうであるなら、その「わかる」は、現時点での自分の常識を超える力にはならない。自分の中に固まった常識を再確認するという退屈な「わかる」を積み重ねるために、本を読み、表現に触れて、果たして未来の自分は、どう変化していけるのか。自分の潜在能力の半分も発揮していないかもしれない現状のままで、本当に満足なのか。一つのことを再確認すると、他に再確認しなければならないことが見えて来て、今日のように情報過多の時代においては、むしろ不安を増大させるだけではないか。

 「わかる」というのは、答えがわかるということではない。自分の中に、自分が意識できていない部分が確かにあるという手応えを感じること。それは、開発の余地のある自分自身に気づくこと。開発の余地といっても、社会で成功するとか出世するという単純なことではない。自分でも気づかないうちに、世界との関係が自分の中に記憶化されており、その手応えをより掘り起こすことで、世界のリアリティを引き寄せることができる。出世とか社会的成功といった妄想的観念世界の上下左右の問題ではなく、自分自身の“根”に、やり方次第で少しずつでも近づいて行けるような感覚が、“わかる”こと。

 こうした感覚における自己開発は、上に述べた再確認の不安さはない。なぜなら、知れば知るほど、体験すればするほど、世界のリアリティが間違いなく近づいてくるからであり、そうなると、そうしたベクトルを持つものとの出会いも増え、わかる感覚が、加速していく。

 混迷を極め、明日がどうなるか見えない現実世界での救いがあるとすれば、そういう手応えでしかないように私は思う。

 学校教育の影響だと思うが、今日の多くの人は、自分の知識情報で物事をわかろうとする。そして、わからないのは知識情報が足らないせいだと思わされ、自分よりも知識情報をたくさん持っている人に理解の鍵を与えてもらおうとする。現代アート等でも、キュレーターや評論家は、自らのポジションを守ろうとして、「作品を理解するために知識が必要だ」と主張し、自分こそがその知識を与えられる立派な存在であると威張っている。解説言語と相性の良い今日のカタログ的メディアも、彼らとタッグを組んで、強力な観念の呪縛システムをつくりあげているのだ。

 しかし、この評論システムおよび学校教育システムは、20世紀の唯物論に基づく実証主義的世界観の抽出物であると気づかなければならない。

 現実世界の中で、何か新しそうない事実を見つけて、その構造を解析し、普遍化すること。それが、実証主義的な新しさだ。どれだけ目ざとく新しそうな事実を見つけるかが競争原理となる。そういう新しさを目ざとくみつける評論家が、感度の良い評論家ということになっているだけだ。

 そうした狭い了見の競争によって、次々と新しいと言われる事物が世の中に溢れて混沌状態になり、どれもこれも同じように見え、驚きも、ときめきもなくなっていく。

 そうなると、物の見え方や感じ方は、自分の心の持ち方次第という、唯心論的な考え方が増大していく。現実に働きかけるのではなく、自分の心を整えるための、癒し、セラピーが流行する。世界を解析する実証主義的な解説は自分には関係なくなり、世界をどう感じ解釈するかは自分次第というスピリチュアルな前向きさが、じわじわと広がってくる。しかし、これもまた観念の世界に軸足を置くものであり、現実世界と関係なく観念が肥大化すると、狂信的な宗教的エネルギーにつながっていくこともある。癒し系の表現者は、まさか自分がその種のことに加担しているとは思っていないだろうが、無数の支流が流れ込んで、そういう状況が作られていくのだ。その自覚を少しは持つ必要があるだろう。

 上に述べた実証主義的なものと唯心論的なものの共通点は、行っていることを、言語的に記述しやすいこと。けっきょくどちらも、身体ではなく頭が優位にあるからだ。

 現在の状況の中で、本当の意味での新しいことは、それがいったいどういうものか、既存の言語では記述しにくい。なぜなら、言語的説明と相性のよい実証主義や唯心論に偏っておらず、その二つのあいだを結ぶ延長線上にある。

 すなわち、現実の中の事物(肉体もそこに含まれる)を無視する唯心論ではなく、自分の認識の枠組みの中で整理する実証主義でもなく、事物を介して、自分が未だ認識できていないけれど確かに自分の中に存在しているものを、誠実に、掘り起こしていくこと。それは、深い記憶の井戸を垂直に掘っていくことであり、自分の井戸を掘っている最中は孤独な作業である。その記憶は、自分のこれまでの人生で出会った人、風景、書物、表現全てと関連し、それを掘るプロセスにおいて、また新たな出会いがあるから、掘れば掘るほど、人類の歴史の全てに通じる果てしなき水脈へと近づいて行くものになる。

 その途方の無さに、孤独のなかで呆然とたたずむこともあるだろうが、同じように井戸を掘り続けている人の存在を身近に感じることもある。それが救いであり、表現や人と出会いことの喜びだ。遥かなる底の方に、全ての井戸をつなぐ地下水脈が流れている気配。表現を見て“わかる”というのは、自分が掘り続ける井戸の先の状況を察知すること。自分の掘り続けた井戸よりも、さらに深く掘っている井戸があることを感じる時、その表現は、自分にとって新しいものとなる。だから、その新しさは、何も今年発表された新作である必要などどこにもない。白川静折口信夫ガルシア・マルケス三島由紀夫等々、自分よりも遥かに深く、掘り進めている先人は数多くいる。その先人達に深い敬意を持ち、今を生きる自分の井戸を少しでも掘り進めて行くことが、表現者の誠実な態度だろう。表現者や評論家を信じられるかは、その一点に尽きる。そういう意味で、森村泰昌さんや小池博史さんは、信じられる表現者なのだ。

 逆に言うと、既成の権威が操作する現実の縛りの中に思考停止をさせたり、”癒し”などと砂糖菓子のような甘みでごまかし、自分の井戸掘りを放棄することを促すような表現や、その表現を持ち上げる者は、どうにも胡散臭い。

 社会的に表現者(アーティスト)と称しているかどうかは、まったくどうでもよい。むしろ、既成の社会的肩書きにしがみついている者は、既成の社会のなかでの成功を目指しているにすぎず、彼らの行為が、未来への架け橋になるとは思えない。


 たとえば農業でも林業でも、どんな方法であっても、自分の井戸を掘り始めるために何かを始めて続けている人は、誠実なる表現者の困難な取り組みが、少しは自分ごととして、“わかる”のではないかと思う。

 自分の井戸を掘らず、他者の流布する実証主義的な観念を安易に受け入れたり、世界の様々な事物から目を背けて唯心論的な壁の中に閉じこもっているかぎり、その範疇のことは理解するけれど、現実と深く結びついた水脈があるだろうという手応えは、わからない。

 自分が掘っている井戸の先に、現実と深く結びついた水脈がおそらくあるだろうとわかっている人は、現在の地上世界を覆っている唯心論的世界や、実証主義的世界の歪みや限界や問題を、自分ごととして深くわかっていると思う。

 こうして自分が書いているようなことも、昨日、小池博史さんと語るまで、自分の中に潜在化していながら特に意識していなかったことであり、人と出会うことによって、自分の認識が掘り出され、具体的に形になる領域が増えて行く。表現や人との出会いは、そのようにして人を触発し、世界を広げていく力があるのだなあと、今さらながら思う。