自意識を軽々と超える「表現」

 今朝、新日曜美術館で、アウトサイダーアートの特集を見た。アウトサイダーアートのことは田口ランディさんが既に情報発信してくれていたが、私が興味を持ったのは、番組のなかのアウトサイダーアートと、その後に紹介されていたデジタルアートの対比だ。デジタルアートは、数字を並べて、それを「時間」と称し、その数字=時間の途切れた「無」の部分を「死」とみなす。そうしたアートを、原爆の死者たちへの鎮魂として捧げる。また、人間の顔姿の前に生涯の時間をデジタル表示し、その数字がどんどん減っていくのを見せ、「生」の残り時間を意識することで「生」を大切にする意識を芽生えさせることが“狙い”だと説明する。このアートは、かつて、どこかの美術館で見たことがあるが、作者は、日本の現代美術を語るうえで欠かせない人なのだそうだ。
 この表現者にとって、「数字」が「時間」であり、「数字」のないところが「死」なのだが、そのように観念をつくりあげて、その観念に忠実に作業をこなすこの人のスタンスそのものが、「現代の現象」を表しているなあと私は思った。表現を行っているのではなく、自分自身が現代の現象そのものになっているということだ。私が好きなアーティストの一人である森村泰昌さんの場合は、「現代の現象」そのものになっている自分自身の自意識を、さらに突き放すようなもう一つの視点があり、自分の固定した枠組みを崩されてしまうのだが、自意識が作り出すメッセージをなぞるだけのような作品は、窮屈なものを感じる。
 デジタル数字を時間とみなし、数字の断絶を死とみなす表現者は、その作品を提示することで、「生命の大切さを認識してもらいたい」と、真面目に、メッセージを語る。この人にとっては、まずメッセージありきで、そのメッセージを表すための手法を、自分が肌感覚で馴染んでいるデジタルに求めている。
 アウトサイダーアートの表現者たちのように、デジタル数字にのめり込んで、デジタル数字と自分との強烈な呼応だけが表現化されたら、私たちが便宜上利用している「デジタル」が、その利便の枠組みを超えて、私たちに襲いかかってくるような衝撃を受けるかもしれないが、そのような激しい集中ではなく、メッセージという私たちの既成概念を強化するために「デジタル」が利用されているので、「デジタル」が、それじたいの「命」をもって、私たちに迫ってくるという感じではない。
 こうした作品を見ることによって、ある種の切迫感を与えられるのは、作品の「命」によるものではなく、「メッセージ」の強迫観念を感じるからなのだ。
 その種のメッセージは、自分のなかに既にあることで、実は潜在的にそれを脱ぎ捨てたいと思っているのに、それをさらに固定するような圧力がかかるので、苛立を感じる。その苛立は、アートを見なくても現在社会で生きていると至るところで感じるものでもあるので、「作品が、現代の空気を伝えている」という妙な評論が与えられたりする。現代の空気を伝えるのであれば、わざわざ作品にするのではなく、ゲームセンターかどこかの商業施設で十分なのだが、それが「アート」だということで、評論家によって立派なもののように説明される。評論家は、その講釈によって食べて、さらに人とは違うという自意識を満足させるわけだから仕方がない。
 いずれにしろ、「現代」の苛立のなかで、自分らしさの楔を打ち込みたいという表現欲と、どうせ表現するのなら人に評価され褒められ優越を感じられるものをという欲求が混ざり合いながら増殖していくのが、「現代」の表層的な現象なのだ。
 アウトサイダーアートは、そうした「現代」の表層的現象が、いかに狭隘な自己の観念による金縛り状態で息苦しいものであるかを、「理屈」ではなく、「直感」で感じさせる力がある。それこそが、本来の「表現」の力なのだと思う。
 アウトサイダーアートを、障害者芸術などと考えるのは、大きな間違いだ。
 私たちが、“正常”とみなしているのは、おそらく“自意識”の領域が健全に発達しているというレベルのことだ。今日の社会生活は、その健全な“自意識”があることで健全に営まれる。人に迷惑をかけないとか、恥ずかしいことをしないとか、お金を稼いで人並みの生活をするとか、一生懸命に勉強して恥ずかしくない人間になるとか・・・。そうした自意識を鍛え上げて、その自意識の力で社会的に成功して、その自意識をさらに肥大化させて、地位、名声をはじめ、自分を飾り立てるための物やお金や偶像を、さらに過剰に追い求める人もいる。
 そうした行き過ぎを咎める声もあるが、目立つことが素晴らしいことであるという自意識の価値観は、この社会にしっかりと根を張っている。
 そうした“正常”世界の尺度と、まったく別のところにあるのがアウトサーダーアートなのだと思う。
 アウトサーダーアートは、自意識よりも深いところにある生の根元に忠実に生きる人によって生み出されている。その領域は、自意識を強くもっている私たちにもあるものだ。私たちは、表層の自意識の部分だけを“自分”だと感じながら、その“自意識”の部分だけで世界と向き合おうとするが、実際には、自意識の部分は氷山で言えば水面上に出ている部分にすぎない。
 見えていない部分は、無いのではなく、私たちを下側からしっかりと支えている。アウトサイダーアートは、その部分から発せられる。
 自意識が弱いゆえに、根の部分に極めて敏感な人たちが作り出す表現は、自分の自意識を頑に防衛しようとする人たちからすれば、脅威であり、不気味であり、できれば避けたいものだろうが、狭隘な自意識に縛られて生命力を減退させて、そこから何とか脱したい人たちにとっては、自分という氷山の海面下の見えにくい部分にある可能性を照らし出してくれるので、清々しく感じられるうえに、漲るような力を与えられるのではないだろうか。