”野生”と表現

 写真展や写真集、音楽、本、映画、イベントなどの情報が編集部にたくさん届けられる。 今の社会には、本当にたくさんの”表現”や”娯楽”があり、またそれらを分析したり紹介したりする”情報”があり、それらによって人間の時間が食われている。
 一体なにゆえにこの時代は、そうした情報や表現が溢れているのだろうか。
 未来の人間がこの時代を振り返る時、表現や娯楽や情報の過剰な時代として位置づけることは間違いないだろう。
 そうしたものがまったくなくても生きていけるような気がするのだけど、無ければ不安で仕方がないという人もいる。
 実際には、多くの表現や情報や気晴らしに接しても、自分のなかの肝腎の部分には届いていないことの方が多い。むしろ、肝腎な部分を取り巻く部分を厚く肥大させて、ますます肝腎な部分に届きにくくなっているような気もする。

 今年の冬、庭の桜に巣箱を設置し、その近くに餌場と水場をつくり、毎日のようにヒマワリの種をやり、水を取り替えてやった。そうしているうちに、最初は警戒心の強かった鳥たちが集まるようになり、シジュウカラが巣箱に卵を産んだ。最近では、巣箱の中で雛がピーピーと鳴き続け、親鳥がどこかでつかまえた毛虫を口にして高速で巣箱に飛び帰ってくる。
 ピーピーと鳴き続ける雛たちは、私の足音を聞くとぴたっと鳴くのを止めて様子をうかがうように沈黙しているが、親鳥が帰ってくるなり、またピーピーとけたたましく鳴き始める。親鳥たちは、最初の頃は警戒心が強く、人の気配を察すると巣箱に寄りつきもしなかったが、害のない人間だとわかるようになってからは、私が適当な距離さえ保っていれば巣箱に入るようになった。
 野生動物のふるまいというのは、世界との微妙な関係を通じて刻々と変化していくので、飽きることがない。飼い慣らされたモノは、いつもいつもパターン化したふるまいのなかで緊張感なく充足してしまうので、見ている方も、つまらなくなってしまう。
 同じことが、”表現物”でも言えるだろう。
 この社会に無数の情報や表現が溢れているけれど、肝腎の部分に届いてこないのは、”野生”のモノが備える大切な何かが欠け落ちているからではないだろうか。
 この都市文明において私たちを取り巻くほとんど全てのモノゴトは、人間の大脳操作によって野生から遠いところで作られている。野生からの距離が、文明の発展度とも言える。
 大脳操作によって作られるものは、大脳によって飼い慣らされたものであって、”あらかじめ何となくわかってしまっているモノゴト”だ。どんなに最先端とか最新とか言われても、”自分たちが何となくわかってしまっている範疇”にある。
 そうした既知感というのは、安心ではあるけれど、どことなく物足りたなさが残る。その物足りなさが枯渇感とか飢餓感になり、次々と表現や情報を求める。そこに手を伸ばすことで肝腎なモノに触れることができるのではないかと期待しながら同じことを繰り返していく。しかし、振り返ると、数を重ねたわりには、表層的な変化の軌跡しかない。
 そうした循環が、今日の情報と表現の過剰状態を作り出しており、無数の評論家が、その循環のおかげで自分の存在価値も得られるので、”それらしいこと”を言い続けている。
 私たちが、都市文明ではなく、野生に取り囲まれて生きていれば、おそらく、今日のような過剰な”情報”や”表現”や”娯楽”を必要としないだろう。目の前にあるモノゴトと見たり聞いたりするだけで、肝腎なことに接しているという感覚が得られるだろう。現代人を蝕む焦燥感や虚無感を感じるのではなく、もっと異なる世界の感じ方があるだろう。
 しかし、現実には、私たちは、野生の中ではなく、大脳操作によってつくられた、人間にとって都合がよいけれど常に既知感のつきまとう飽きたらない世界に生きている。
 生活を野生に戻すことは、もはや現実的ではないが、”野生”に接している感覚こそが、おそらく、”肝腎なモノに触れている”という感覚と近しいだろう。
 ならば、この社会のなかで、”野生に接している感覚”は、いったい何によってもたらさせるのか。
 野鳥など野生動物を通じてそれらの感覚を知るということも一つの方法としてあることはある。しかし、現実生活を覆い尽くす多大なる大脳操作の現象と匹敵するだけの力が、この都市文明のなかのごく限定された領域に閉じ込められている野生動物にあるとは思えない。それらの存在は、あまりにも儚く、脆く、濃密な人為の前でかき消されてしまう。

 野生動物よりも、むしろ雑草などの野生植物の方が、都市のなかでも強かな力を放っており、雑草があることで生息できる小さなおぞましい昆虫たちとタッグを組んで、大脳優位の私たち現代人からすれば、少し違和感があり、避けたいと思う世界をそこにつくりだす。
 おそらく、そうした雑草と小さな昆虫に見られるような関係こそ、人間の誕生以前から森羅万象が繰り返してきた本質的営みであり、そういうものこそが、本当は”肝腎なモノ”なのだろう。

 私たちの大脳は、大脳が誕生する以前の世界を、大脳の解釈のなかで整理しようとし、整理できないものはその存在を認めようとしない。
 しかし、人間は大脳優位で生きていながらも、大脳以外の様々な部位で、大脳以前から綿々と連なってきた働きによって生きている。だから、大脳の部分では少し避けたいと思いながらも、生理的(小脳の部分の反応?)に、それを求めてしまうものがある。
 血液の流れなども大脳以前の働きであり、大脳が計算して避けようとしても、血が騒いでやってしまうということもある。生きているということは、そういう衝動を完全に抑えきれるものではない。
 表現でも、人間でも、そのように大脳のコントロールを超えた、ある意味でおぞましく、豊かで根元的な世界を垣間見せるモノが自分の傍にしっかりと在りさえすれば、自分のなかで”血が騒ぐ”ということじたいを自分自身が受容できる。自分のなかの生を殺さずにすむ。
 そして、他の多くの表層的な情報や表現や娯楽や人間関係は、大脳が計算しやすく無難に接せられるモノゴトにすぎないと知り、”ただそれだけのこと”という冷静な受け止め方が今よりもできるようになり、それらに振り回されることもなくなる。
 でも、雑草や小さな昆虫が形成する世界のような”表現”は、この大脳社会で簡単に受け容れられる筈はない。そういうものが生き残る余地はあまりなく、あってもたちまち刈り取られてしまい、大脳に飼い慣らされて”クリーン”になった無数の”アート”や、それと似たメカニズムの当たり障りのないモノゴトが地上を支配する。しかし、それでもなお僅かな隙間を見つけて生え続ける強靱さが無ければ、本物の野生ではないのだろう。