合理と不合理

 人間に限らず、自然界のモノゴトは、最終的に合理的にできているように見える。数億年もの歳月を生き抜いてきた昆虫などを見ても、極めてシンプルで合理的な生存戦略を持っているように感じられる。省エネでなくては、生存競争の激しいなかで、長く生きていけない。だから、合理性そのものを否定しても仕方ないと思う。

 それでも敢えて、私は、西欧が推進してきた近代合理主義に疑問を感じている。それは、合理的だから否定したいのではなく、合理的に見えて、それはモノゴトの一面にすぎず、実際にはとても不合理なことを行っているのではないかと感じるところがあるからだ。 

 単純な事象で言うならば、たとえばダム建設とか原子力発電所は、当面の問題を処理するうえで合理的かもしれないが、耐用年数を終えた時の処理に莫大な費用がかかるうえに環境に与える影響も大きい。すなわち、問題の先送りにすぎず、合理と主張しながら長期的には不合理であるということだ。ただ、こうした論じ方は、既に様々なところで論じられて議論されているだろう。「長期も大事だが今ある問題をクリアすることが大事なのだ」と反発を受け、短期的視点対長期的視点の戦いになるだけのことかもしれない。

 だから、そうした目に見える物理的な側面での話しは、この場ではやめにしたい。

 私が西欧の近代的合理主義と、それに基づく「科学」で一番気になるところは、感覚や感情を始めとする人間の「心」に帰属する全ての取り扱いについてだ。

 主要な価値を物理的な側面だけに置くならば、長期と短期の問題はあるかもしれないが、西欧の合理主義は、理に適った部分もあるのかもしれない。しかし、もし主要な価値を心理的な側面に置くならば、西欧の合理主義は、とても不合理なことを行っているのでないかと思うことがある。

 例えば、少し前、私は伊勢神宮に行った。新幹線と特急で行けば東京から僅か4時間ほどで伊勢神宮に行ける。そして、感動もした。でも、昔の人は、江戸から苦労の果てに伊勢神宮に辿り着き、お参りする時に、「有り難うございました」と唱えながら、涙をぼろぼろと流したと言う。私には、そこまでの感銘はなかった。私はこれまで世界70ヶ国くらい旅行したと思うが、そこまでの感動はどこにもなかった。便利な交通機関で数をこなすことより、一回のお参りで涙を流すほどの感動体験ができるのなら、そのほうが省エネで合理的なのではないか。

 そのように、西欧近代合理主義が実現してきたものは、最初から、モノゴトの価値をはかる上で、「心」が抜け落ちていたのではないかと思うことがある。

 西欧科学は、人間自らのことも、科学的に厳粛な世界のなかの素粒子の構成物の運動として理解しているのではないだろうか。

 「心」もターゲットにしているかもしれないが、それは、物理的に、もしくは素粒子的に、または電気的に、脳のメカニズムとして機械的に論じられようとしているのではないだろうか。従来の科学に対する問題意識の高い人々の「クオリア」に対するアプローチは別として。

 「世界」と「心」を分離し、物理的な側面で合理的に事を進めてきたのが、西欧の近代合理主義ではないかと私は理解している。また「知識不足だ!」と指摘されるかもしれないが、大局的にそうでないかと思う。

 そのようにして分離されて排除された「心」には、「手触り」とか「空気感」とか「気持ち悪さ」とか「有り難さ」が含まれる。それらの主観的印象にかかずらうことを「不合理」とみなす「物理的合理主義」は、「仕事」などにおいては、最終的にとても不合理な結果に終わる。つまり失敗する。その理由は、「仕事」における有機的関係性の重要性が欠落してしまうからだ。

 「心」というものに拘泥しやすい発想は、近代合理的な発想から見れば、非合理で、知的冷静さがないということになるかもしれない。

 しかし、心の熱さもまた、自然界の気流の乱れのようなものかもしれない。気流の乱れは、未だ合理的に説明しきれない側面もあると思うが、説明できないからといって、存在しないものではない。

 合理的にそのメカニズムを説明できなくても、何とどう関連しているかは、辿っていくことで察することができるかもしれない。辿っていくと、論理的に説明できなくても、モノゴトが複雑に関連し合っているという手応えは、肌感覚でわかるかもしれない。「仕事」で言うならば、場の空気を読むという感覚だ。

 そして、自分の心もまた、物理的なメカニズムを理解できなくても、様々なモノゴトとの関係の中にあり、未だ私たちには理解できない方法でつながっていることが、何となくわかるかもしれない。

 西欧の合理主義をベースにした科学によって、物理的な側面における合理性を実現し、人間は物理的な恩恵を受けることができた。

 「仕事」においては、コンピューターや物流の発達の恩恵は計り知れないものがある。しかし、それだけでは、通常の「仕事」はうまくいかない。

 しかし、その物理的合理性だけで強引に「金儲け」を行おうという動きもある。例えば、先日に述べた遺伝子組み替えによる農業支配をはじめ、ディファクトスタンダード早期獲得競争のような類だ。そうした類のものにとって、人間の「心」は邪魔者にすぎない。

 また最近、不気味だなあと思うのは、ロボット化された兵器だ。湾岸戦争の頃から顕著に始まっているが、味方の兵士を傷つけないようにするため、ロボットを操作することで敵を攻撃するという方法だ。

 ベトナム戦争の頃迄は、戦場という極限世界のなかで、心を壊す兵士が多かった。そして、今日でさえ、現場で生と死の恐怖にさらされる者には、それが付きまとう。しかし、数日前にテレビで見たのだが、アメリカ国内にいながらコンピューター画像で敵を攻撃していると証言する人物には、戦争の苦悩がまるで感じられなかった。兵士を傷つけないという合理性によって、何か大切なことが殺ぎ落とされている。それは、人を殺す痛みだろう。

 物理的合理性と科学技術によって、人間の物理的な側面での生活が向上したことを認めるにしても、この合理性だけをさらに追求していったところに、人間の幸福があるとは思えない。なぜなら、この合理性は、最初から人間の心を抜きに、世界を理解し、世界を組み立てようとしているのだから。

 物理的合理性を超えて、心を軸にした世界との関係性のなかで「理」を求めていくという思考特性が、かつての日本人には当たり前のことだった。その頃は、その思考特性の意義を「論理」で説明できなくても、経験を通した得た肌感覚によって理解していたし、その理解を人々の間で共有していた。

 もしも肌感覚という灰色部分を殺ぎ落とし、物理的な側面だけで世界を捉え、その法則の外のモノゴトをクールに殺してしまうことを続けていると、結果的に、人間の生存にとって不合理なことが起こるように思う。

 「心」を実態のない印象的なものとしてみなし、合理的計算の外に置くような「仕事」は、人間関係をはじめとする様々な有機的な関係性を損ない、結果的に長続きしない。大きな目で見れば、人類という種の活動もまた同じなのだろう。





風の旅人 (Vol.20(2006))

風の旅人 (Vol.20(2006))

風の旅人ホームページ→http://www.kazetabi.com/

風の旅人 掲示板→http://www2.rocketbbs.com/11/bbs.cgi?id=kazetabi