第961回 無意識の記憶と、人の幸福


 久しぶりに高野山を訪れた。高野山では、陶芸家の三星善業さんの窯出しのタイミングと重なり、また三星さんの弟子の和田直樹君が、ちょうど窯焼きの最中で、幸運だった。http://hiraharagama.doorblog.jp/
 和田君は、この前に訪れた時とは違う窯で焼いていたのだが、その新しい窯のすぐ隣に、レンガではなく土で固めた横穴式の原始的な穴窯も作っていた。彼はこの敷地内に、短期間のあいだに5つも穴窯を作っている。
 彼は、ただ焼き物を作るだけでなく、窯も含めて自分でいろいろなことを試している。焼き物に使う土は、紀伊半島をめぐりながら色々な場所から採取しているし、釉薬に用いる鉱物も色々なところから見つけてくる。今回、私が買った彼の新作(実験中ということだが)は、熊野で見つけたコバルトを使って自然な文様を生じさせている。コバルトは、少量でも美しいブルーを生み出すが、その鉱石は、ブルーの色をして目立つように落ちているわけではない。結晶化した岩石の中にごく僅か黒っぽく見えるだけだ。よくもこんなものを見つけ出すものだと感心する。
 また、窯焼きで使う木材は高野山の木で、その木が燃えて灰となって器に付着し、高温(1200度以上)で溶けて文様と化す。彼は、すべて現地調達で、すべて自分の身体で作っている。自分がやっていることが全て自分の心身に響くことばかりなので、彼は、本当に幸福そうに仕事をしている。
 電気釜で温度を自動的に調整しながら焼く焼き物ではなく、穴窯で木材を燃やして作る焼き物は、窯の温度をあげることも、温度調整も、極めて困難だけど、できあがった器の中に森羅万象のいのちが響き渡る。
 太古の昔から存在している岩石や粘土と、木材の灰を、密閉空間で木を燃やして発生する超高温の火を通して結合させる。当然ながら、太古からの悠久の時を通して連綿と折り重なる命のエッセンスが凝縮する。そのエッセンスを引き出せるのは、人間の理屈ではなく、人間の身体であり小脳に蓄積されている無意識の記憶だ。だって、人間の理屈(大脳)は、地球の歴史に比べれば歴史が浅すぎる。だから理屈でやると、ろくなものにならない。
 人間の身体や小脳の場合は、大脳に比べれば、もう少し地球上の経験がある。
 ちなみに、最近の研究で、高度な職人技術は小脳に記憶されていることがわかってきた。小脳は、大脳の10分の1しか重量はないが、皺が多いので表面積は2倍。神経細胞も大脳の数百億個に対して、小脳は1000個を超える。小さな小脳の方が、大脳よりもはるかに神経ネットワークが豊かで精密なのだ。
 大脳の神経ネットワークは、何かを記憶する時、同じ神経細胞でいくつもの記憶につながっている。限られた数の神経細胞を効率的に使い、より多くの異なる情報を処理している。大脳の同じ神経細胞のネットワーク上で、「全く違った情報」を色々と組み合わせたり離したりする事で、ひらめきを得たり、ないものを空想したり、新しいものを創造したりする事も出来る。人間に特有の自ら変化を作り出す力は、こうした大脳の特性によっている。
 ただ気をつけなくてはいけないのが、こうした大脳の神経細胞ネットワークは、一つの神経ネットワークで雑多な記憶を整理するため、大変合理的ではあるが記憶の齟齬も起こりやすく、それと気付かずに間違いをおかすことだ。
 にもかかわらず、大脳は身体の中で司令塔として君臨しているので、自らの間違いを認めず、強引に押しきろうとすることがある。
 大脳に比べて小脳は、たとえば呼吸を司るなど無意識の領域で生命を維持することに直結しているので間違いがあってはならず、その為、一つのことに関して繋がり合った綿密な神経ネットワークを形成して記憶している。大脳のように応用が利く記憶装置にはなっておらず、きわめて厳格なシステムだ。
 その神経ネットワークは、匠の仕事のように厳格ゆえに、大脳の指令が小脳に送られる時、次の瞬間の状態を実際に動く前に瞬時に察知し、その予想結果を大脳にフィードバックして大脳に再処理を促すとも仮説されている。
 いわゆる第六感と言われるような、理由はよくわからないけれど何か大事なことを察知する無意識の力は、まさに、小脳の高度な情報処理力によるものである。
 脳の研究が進んでいない頃、小脳は、原始的な脳で人間の高次の知能活動とは無縁だと思われていた。しかし、小脳の情報処理は大脳の意識の領域にのぼってこないから大脳の言語力では説明不可能なだけで、たとえば大脳の意識では神業のように思われる達人の技などは、小脳の力が可能にしている。
 小脳は、一瞬で本質を掴み、危険や不吉を察するだけでなく、生命活動において好ましいものを察知する力もある。
 大脳というのは、損得や世間体などを計算することは得意で、いくら小脳が生命活動において不吉なものを知らせていても、それを無視してしまうことがある。
 そうした大脳のひとりよがりは、計算高い世界における駆け引きにおいては通用しても、生物として不幸に導く可能性が高い。 
 たとえば、現代社会では当たり前になってしまっているが、形が悪いという理由だけで廃棄される野菜の山。形の悪い野菜は売れないという決めつけと、規格外のために流通や価格決定に統一性を持たせられないという理由で、収穫量の半分が、廃棄処分にされている。
 家や家具などでも、居心地良さとか風合いの良さよりも、傷があるかどうかが重視され、少しでも傷があると、価格が下がってしまう。
 アート作品などにおいても、人の魂を揺さぶるものよりも、目のつけどころの新しさなど評論家にとって説明しやすい作品の方が、高く評価される傾向にある。
 こうした例は、すべて、大脳の意識判断によるものだが、これ以外にも、目先の都合を優先するあまり様々な関係に歪みをもたらしたり本質を見えなくするなど、結果的に不幸へと導く方向で、大脳が価値基軸をつくっていることは非常に多い。
 一昨日、奈良県宇陀市にある夢雲ギャラリーで開催中の河野滋子さんの展覧会で、廃棄野菜の形を作品化したものがあったが、胎児のような愛おしさと美しさが感じられた。

 現代人が、”形が悪い”とか、”見た目が悪い”と言う時、その良悪の基準というのは、規格化しやすい(だから、たくさん作りやすいし処理しやすい)かどうかといった大脳の意識操作が加わっているので注意が必要だ。
 規格化しにくい物は、それだけ唯一性が強く、だからこそ、愛おしさ、慈しみ、有り難さ、畏れ多さ、かけがえのなさという感情を呼び起こす。
 そうした感情が、役に立つかどうかという判断で切り捨てられてしまうことが、現代の不幸だろう。
 芸術の定義はいろいろあるだろうが、大脳の意識操作に簡単にひっかかるようなもの=規格化しやすいものは、真の芸術とは外れている。
 なぜなら、芸術こそが、小脳の無意識の中に潜んでいる大切な記憶に直接働きかけて、意識化させることが可能な人間行為だからだ。
 大いなる自然は、小脳の無意識に働きかけて生命にとって大切なことを意識の中に蘇らせることができる。
 そして、人間的行為でもそれが可能であれば、その行為こそが芸術であり、ジャンルは関係ない。
 絵画や彫刻に限らず、工芸であれ、食べ物づくりであれ、同じだろう。
 河野滋子さんが行っていることも、和田直樹君や彼の師匠の三星善業さんが行っていることも、本人は無意識であるが、小脳の深いところで感じるものに忠実に行っているかぎり、きっと、彼らが作り出すものを見たり触れたりする人たちの中で、生きていることそれ自体の味わい深さや、かけがえのなさを実感する人たちがいるのではないか。心に残る仕事というのはそういうものであり、どれだけ売れたかなどという数の問題ではない。
 作品を通じて、人の心に残るものが実現さえすれば、十分に幸福だろうし、死ぬ時も、悔いを感じないだろう。
 そうした真理を無意識に察知している人は、生命の本質を掴み、自分の天命を心得ているからなのか、個性的で味のある顔をしていて、一度会うと忘れない。
 小脳が察知している大切なことを無視し、大脳の世俗的な意識分別ばかりを優先すると、他人からどう見られるか、世間での位置づけはどうか、といったことを過剰に意識するためか、本音もあまり語れず、だから他の人と同じ顔に見えるし、どこかで会っても、その顔を忘れてしまうことが多い。
 人は誰でも死ぬ運命にあるが、最終的には、忘れられない人、物、事の記憶だけが、その人の人生を意味付けるものになる。死の瞬間に、その数にこだわるのか、深さにこだわるのかは人それぞれだが、どちらが幸福感とつながっているかは、その人の小脳の無意識が判断することだろう。
 
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