「心」とか「いのち」のこと

 以下、私のまったくの独断ですが・・・

 一つのモノゴトが成立する時、そこに無数のモノゴトの関係性が生じている。

 そして、モノゴトとモノゴトが関係する時、そこに、引きつけ合ったり反発したり、微妙な力加減でエネルギーが生じている。

 そのデリケートなエネルギーの相互作用が微妙で精巧な関係性をつくる。だから、この世には、まったく同じ関係性はないし、その関係性によって生じるモノゴトも、まったく同じものは生じないと言えると思う。

 「いのち」というのは、おそらく、そのようにモノゴトとモノゴトの間に生じるエネルギーの総体を指すのだろう。いのち全体から、その時々の関係性に応じて、微妙な力加減でエネルギーが分配され、個々のモノゴトの働きが生じている。

 人も植物も動物も、そしてもしかしたら鉱物でさえ、自分を自分たらしめる微妙で精巧な関係性と、そこに生じているエネルギーを何らかの方法で察知する。そして、自分を自分たらしめる微妙で精巧な関係性を維持したり作りかえていくため、意識的であれ無意識であれ、その時々の状況に応じてエネルギーを受け取ったり放出しながら釣合を取っていく”習性”がある。

 人間の場合、そうした”習性”は、最終的に脳による認知によって行われるのだろうが、眼、耳、鼻、舌、皮膚の五官が、その時々の微妙で精巧な関係性をはかるセンサーになっている。それらの五官のなかで、皮膚感覚も脳などの中枢神経系によってコントロールされているような錯覚がある。しかし、中枢神経系は、受容器としての五官から受けた刺激を認知し筋肉など他の部位へと連絡する働きを持つものであって、たとえば植物など中枢神経系をもたない生物が太陽の光をはじめとする刺激に対して反応する性質や、鉱物が元素に対して化学反応を起こす性質と、人間の皮膚感覚は似たようなものではないだろうか。中枢神経で認知されなくても、皮膚は反応している。死体となっても、空気や微生物と反応し続けるように。

 無機物、有機物、脊椎動物に関係なく、微妙で精巧な関係性を維持したり作りかえたりする働きが、この宇宙には存在し、それらの働きを絶え間なく継続させる「いのち」と言うべき大きなエネルギーがある。

 「人間の心」というものは、その「いのち」を敏感に嗅ぎ分ける人間固有のセンサーのことではないだろうか。そのセンサーは、人間の五官という受容器と脳の総合力による賜だろう。

 同様に、植物や鉱物が備える固有のセンサーは、「植物の心」とか「鉱物の心と形容しても構わないのではないか。

 人間が植物と異なるのは、中枢神経のなかに「記憶」する機能を発達させたことだろう。五官から伝わった感覚を記憶してしまうと、五官から刺激が伝わっていないのに、誤って中枢神経に蓄えられた記憶に基づいて他の部位へと連絡が行ってしまう可能性が生じる。

 その誤作動は、自分を自分たらしめる微妙で精巧な関係性を維持したり作りかえるための、釣合を損ねる可能性がある。だから、その”釣合”に対して重要な影響を与える刺激は、脳内にあまり記憶されないようになっているのではないかと思う。

 肌は、自分以外のものとの直接の接点だから、「強い痛み」などの感覚は、それが生じた時の自分の苦しみを覚えていても、感覚そのものは記憶されず、記憶によって始終痛かったりすることはない。

 嗅覚や味覚は、記憶があったりなかったり、なんだかとても曖昧だ。

 そして視覚や聴覚は、他の感覚に比べて、とても記憶されやすい。

 自分を自分たらしめる関係性を維持したり作りかえるうえで、視覚や聴覚は、他の感覚よりもさほど重要でなく、だからこそ、記憶による誤作動が生じる可能性があるのにもかかわらず、記憶されることのメリットを選択しているのかもしれない。

 個体としての自分を自分たらしめる関係性よりも、個体が繋がった共同体を共同体たらしめる関係性が重視され、視覚や聴覚の記憶力の総合によって「言語」という新たな働きを生み出したのかもしれない。

 そうした記憶を持つ人間にとって、「いのち」を敏感に嗅ぎ分ける「心」というセンサーを健全に保つためには、記憶によって純粋なセンサー機能を損ねやすい「視覚」や「聴覚」を脳の力によって再調整したうえで、他の感覚と協働していかなければならない。

 その調整の方法は、思考であり、想像であり、仮定と検証なのだろう。

 自分と世界の関係性のつりあいがうまく取れているかどうか確認し、つりあいのズレが生じていると判断すれば、何らかの方法でその修復を行う。そのプロセスにおいて、「言語」の果たす役割は大きい。

 そして、「芸術」や「祭り」などは、視覚や聴覚などが現実世界の表層に慣れきってしまうために背後の微妙な機微を嗅ぎ分けられなくなってしまう「心のセンサー」を、再び鋭敏なものにするためにも必要なのかもしれない。見るもの聞くものが新鮮な感覚となるように。

 また、自然の営みそのものが、そういう感覚を与えてくれることも多い。たとえば「里山」というのは、人、動物、昆虫、植物など多種多様な有機物と、山や川を形成する水や鉱物や空気という無機物が、それぞれ釣合を取りながら、微妙で精巧な関係性を作りあげており、限られたスペースのなかに、無限の関係性が存在している。また、「富士山」という偉大な山も、単に鉱物の山として認知されているのではなく、その山の風景のなかに、日々の営みや歴史や文化をはじめ様々な関係性が織り込まれていることを私たちは知っており、それらの関係性の総体として、富士山は親しまれ、崇められている。「里山」や「富士山」は、その存在に触れることだけでも、森羅万象の微妙な関係性を維持したり作りかえたりする働きを絶え間なく継続させる「いのち」というべき大きなエネルギーを感じさせ、人間の感覚を新たにする力があるのだ。

 身近なところでは、友人や家族など長く続いている関係でも、慣れが惰性になるばかりでなく、何気ない振る舞いのなかに微妙な機微を発見したり呼応することもあり、自分の感覚が息づくような思われることもある。

 いずれにしろ、植物であれ鉱物であれ昆虫であれ猫であれ生まれたばかりの赤ん坊であれ、自分のセンサーで自分を取り巻く世界と常に呼応し、状況に応じて微妙で精巧な関係を結び、エネルギーを受け取ったり放出したりしながら釣合を取っているものは、自分の心を持ち、自分のいのちを生きていると言えるのだと思う。

 「風の旅人」のVol.23(12月1日)発行のOWN LIFEというテーマでは、上記のことを踏まえて、制作したいと思う。




風の旅人 (Vol.21(2006))

風の旅人 (Vol.21(2006))

風の旅人ホームページ→http://www.kazetabi.com/

風の旅人 掲示板→http://www2.rocketbbs.com/11/bbs.cgi?id=kazetabi