人生観と生活感覚と靖国問題

 「国の為に戦って亡くなった人を弔うのが、なぜ悪いのでしょう」と、靖国神社に関するテレビの討論番組で麻生外務大臣が話していた。テレビの世論調査でも、首相の靖国参拝に対して半数近い人が賛成し、特に20代、30代の人で賛成する比率が高かったのには驚いた。

 戦争を経験した人や、両親など身近な人に戦争経験者がいる場合は、戦争の痛みがあるから、間接的であれ直接的であれ軍国主義と関係の深かったものに対する拒否反応が強い。だから、小泉首相靖国参拝について、なぜそれに反対なのか明確に説明できないけれど、肌感覚として反対と言う。

 しかし、戦争の実感から遠ざかり、戦争の肌感覚がわからない人が増えてくる。そうした状況で、上記の麻生大臣の説明のような人情に訴えるような「論理」が示されると、それに同意しやすくなる。

 「国の為に戦って亡くなった人を弔うのが、なぜ悪い」をはじめ、「亡くなった人のために祈ることは、悪いことではない」、「死んだ人が心安らかに成仏できるようにすることは、良いことだ」、「死んだ人の罪をあれこれ批判するのでは見苦しい」、「罪無くして死んだ兵士は、靖国に祀られることを願っていた。その心情を冒涜するものではない」等々。

 「亡くなった兵士の為に祈る行為」と、その行為を下支えする説明がある。それに対して異議を唱える人は、中国や韓国との関係や、A級戦犯のことを説明する。しかし、もともと日本人は、終わったことをぶり返すことを見苦しいと考え、きれいに水に流すことに美徳と感じる人が多い。そういう人たちは、中国や韓国の”こだわり”に対して生理的に嫌悪感を感じたり、憤りを感じるかもしれない。また、亡くなった人が気持ちよく成仏することを邪魔するような理屈っぽい論理を嫌うかもしれない。「お国のために犠牲になった人」を悪く言うようなことをすると、罰が当たると思う人も多いだろう。ましてや、戦死した兵士の遺族の多くは、当然ながら、名誉の戦死であって欲しいと願うだろう。

 それらの感覚は、戦争を嫌う気持ちと同じように肌感覚に基づくもので、そこに感情が織り込まれている。そうした感覚に、上記の麻生大臣のような言葉が当てはめられると、ますますその感じ方と考え方が力を得る。

 小泉首相靖国参拝に対して、中国・韓国との関係を説くことで反対する人は、心の底から中国や韓国との関係を心配して、朝から晩まで憂鬱なのだろうか。いわゆるインテリの頭でっかちの「べき論」になっていないだろうか。テレビで深刻ぶって話した後、そんなことさっぱり忘れて、自分の生活をエンジョイしているのではないだろうか。

 頭でっかちで根を持たない「べき論」は、肌感覚や生活感覚と一体化した心情の前に無力だ。いくら言葉を駆使しても、心の底からそう思っていないことが見透かされてしまう

 

 ならば、「国の為に戦って亡くなった人を弔うのが、なぜ悪いのでしょう」という言葉について、この私はどう感じ、どう考えるか。

 私が、この言葉を聞いて生理的に感じるのは、狡さだ。

 新潟の大震災の時、大量の古着が送られたという。その中に、洗濯はしているものの使い古しの下着まであったと聞いた。

 送った人は、悪気があるわけではない。「困っている人のために送るのが、なぜ悪いのでしょう」と言うだろう。

 これらの行為に私が狡さを感じてしまうのは、いったい何故なのか。

 それは、「人のため」と言いながら、本当は「自分のため」ということを隠しているように感じられるからだ。

 「人のため」というのなら、自分の立場がどうなろうが関係なく、その人のために尽くす。しかし、そこまでの覚悟はなく、その時々の自分の都合で何かをするというのは、「自分のため」にすぎない。自分の都合が悪くなったらそうしないのであれば、最初から「自分のため」と言えばいいと私は思うのだ。

 「あなたのため」と言われて、使い古しの下着を送られると、断りにくい。断る方が悪者になってしまう。使わないにしても、人の善意を無駄にしてような気持ちになって後味が悪い。負い目が残る。それに比べて、「あなたのため」と言う方には、良いことをしたという満足と、すっきりとした気持ちの良さだけが残る。こういうのって、フェアじゃない。相手に負い目を感じさせて、自分はすっきりして満足するのだから、やはりその行為は、「人の為」ではなく、「自分の為」なのだ。

 震災被災者の場合は、そうした押しつけの善意に対する意思表示はできるが、戦争で亡くなった人は、それができない。「亡くなった人のため」などと言われても、文句のつけようがない。断ることもできない。

 靖国で祈る小泉首相は、「心の問題」と言うが、その心の中の状態はどういう具合なのだろうか。

 戦争で亡くなった兵士たちに向かって、「あなたがたのことを思うと胸が張り裂けそうで辛くてしかたがありません。あなたがたが成仏できるように心からお祈り致します」と思っているのだろうか。

 そうではなく、「安らかに成仏してください。」という言葉と交換するように、「私にお力と勇気と覚悟を下さい」とでも祈っているのではないだろうか。小泉首相の心は正確にはわからないが、人が祈る時というのは、そのように自分に対する加護を期待するのではないかと私は思う。

 加護を期待するのは、悪いことではない。しかし、いったい何に加護を求めるかが、この場合は重要になるのではないか。

 靖国神社は、一般の神社と違って、天皇への忠誠で戦死した臣下だけが英霊として祀られている。ここには、太平洋戦争の最大の犠牲者というべき沖縄戦、空襲、原爆で死んだ人々の殆どが祀られていない。

 なにゆえに、兵士と、そうでない人を分け、兵士として死んでいった人たちに祈り、加護を求めなければならないのかという疑問が残る。

 こうしたスタンスの一番深い所には、「国を守るのは兵士である」という思想がしっかりと根づいているのではないか。

 「靖国参拝の是非」を議論しても話が抽象的になるだけであり、正面から議論すべきは、「国を守るのは兵士である」という思想に対する是非ではないだろうか。

 メディアは、北朝鮮の無鉄砲さを頻繁に伝え、日本が何かしらの危機状態にあると感じさせる。それに対して、「北朝鮮の軍事装備は古く、脅威ではない」とか「わが国はアメリカ軍の後押しがあるし、北朝鮮は、そんなにバカではない。だから脅威ではない」といった反論もあり、戦争に対する議論は、北朝鮮や中国が脅威かそうでないかといった表層的なものに流れやすくなる。

 北朝鮮や中国が脅威かそうでないかは横に置いて、「国を守るのは兵士なのか、そうでないのか」というところを、しっかりと考えて備えておく必要があるだろう。

 さらに突き進めて言えば、「国を守る必要があるのかどうか。そもそも国とは何なのか」ということも、考えて備えておかなければならないだろう。

 靖国神社へのお参りする本当の目的は、亡くなった兵士を弔うというより、自分たちへの加護を求めるためだろう。死んだ兵士達のことに思いを馳せ、自分自身を鼓舞し、勇気や覚悟を得るために祈る人もいると思う。本当の戦争でなくても、社会には戦場はたくさんあり、それぞれの戦場で人は戦っている。だから、戦争で死んだ人を思い、自分の困難など大したことなどないのだと自分を勇気づけて頑張ろうとする人もいるのだろう。

 だから、祈るのは、人のためではなく、自分のため。人のためなどという狡い言い方はやめにした方がいい。

 まずは、そのことをはっきりとさせることが必要だと思う。

 そのうえで、自分たちの加護を、やはり兵士に委ねるべきかどうかを、一人一人が考える必要がある。

 もしも、この国における自分の権益が侵されそうになった時に、「兵士なんかいなくもいい」と思いきれる覚悟を持てるかどうか。

 自分たちを守るために相手を殺す覚悟を持つ人もいれば、「兵士に守ってもらわなくてもいい」と思う覚悟もある。

 しかし、難しいのは、どちらの覚悟にしろ、覚悟のある人は、そんなにたくさんいないことなのだ。

 覚悟のある人が多数にならなければ、「自分たちのことを兵士やアメリカに守ってもらわなくてもいい」という社会状態にはならない。

 「戦争はいけないことだけど、自分は守って欲しい」という心情の集まりが、「やむを得ない自衛戦争」という覚悟のない人でも良心を痛めずに賛同できる狡い論理を生んでいくだろう。  

 覚悟のない人が大多数の状態で何かしらの危機が訪れると、その人たちは「死ぬ覚悟で相手を殺せる人」をヒーローにして、そのヒーローを持ち上げながら自らの保身をはかろうとする。なかには、覚悟があるわけではないが、ヒーローになることの見返りに、自分を鼓舞し、自分を強く見せる人もいるかもしれない。また、家族を守るため、国を守るためと説得されたら、それに異議を唱えることも心情的に難しく、やむを得ないと引き受けるのかもしれない。

 戦争は、そうした集団の心理構造の上に起こるものではないかと私は思うが、ヒーローになることも求めず、自分を守ることも求めず、国や家族を守ることも求めないという覚悟を、はたして人間は持つことができるのだろうか。

 それはとても難しい。生きている以上、自分を守り守られたいと思うのが人間の心情だとすれば、いったいどうすればいいのか。

 靖国神社の英霊や兵士に守られずに、自分たちを守る方法と、守るということの本当の意味を考ること。

 戦争に限らず、「現実がこうだからしかたがない」などと、周りに迎合しながら守り(逃げ)の姿勢に入ってしまうと、自分にとって大切なものを見失い、結果的に守るべきものを守れなくなるという人間の法則を知っておくこと。

 たとえば、ガンジーのような自分の信念にもとずいた非暴力主義の徹底こそ、何よりも本当の勇気と忍耐と覚悟が必要なものだろう。

 それは、守ろうとせずに、最終的に大切なものを守る生き方。力を誇示しているわけではないが、とても強い生き方。

 靖国問題は、最終的に自分の人生観や生活と関係あるところに引き寄せて考えなければならないのではないかという気がする。



風の旅人 (Vol.21(2006))

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