自分達が暮らしている場所、そして子供達に対する責任って?

00072_3


  健やかさということの本質を、真剣に考えなければと思う。
 あっという間に、この国の情勢がきな臭くなってきた。
 憲法改正の動き、大多数の国会議員の靖国参拝、核の不使用共同声明への署名拒否、何よりも、そうした動きに対して、「当たり前だろ、嫌ならこの国から出ていけよ」と堂々と言う人が急増していること。
 加工食品ばかり食べているうちに麻痺してしまった舌のように、健やかさや、人生の味(人はなぜ生きるのか、そこまでして生き残り続けたいのか)という感覚が、すっかりわからなくなってしまっている。

 ちょっと風邪をひくとすぐに医者に行ったり薬を飲むという対症療法ばかり繰り返しているうちに、自分の身体そのものを健やかに保つ方法がわからなくなってしまっている。敵(風邪)が目の前にいる。だから薬(武器)が必要だと。大した風邪でもないのに、肺炎になる(北朝鮮の核攻撃)かもしれないと脅かされ、劇薬(核武装)に手を出すかもしれない。病気そのものより、その劇薬が、身体を蝕んでいくことを知らずに。


 子供は大人の背中を見て育つ。人は誰でも死ぬのだけど、大人は、背中を通して、子供世代に何か大切なもの(教訓)を、リレーしていく。
 先の戦争の教訓を、なぜそこまであっさりと忘れ去ることができるのか、本当に不思議だ。戦後生まれの人間はしかたがないとしても、この国にはまだ戦争の経験者が数多く残っているし、政財界のトップにも在籍している筈。
 単に平和を唱えていれば物事がうまくいくとは思わない。だからといって、安易な二項対立で、「他にいい意見がないのなら、こうするしかないだろ、嫌ならこの国から出ていけよ」という恫喝しかできない自分に羞恥を感じない大人。国家に同化できる俺らだけが、この国家を使う権利があると開き直っている。
 自分達が暮らしているこの島国に対する貢献というのは、そんなに単純なことではない。国家防衛の意識さえ持っていれば、この土地を荒らし、蝕む権利もあるというわけか。そこまで言うなら、そういう主張をするあなたと同胞の税金だけで、この国を運営してみなよ、ということになる。できやしない。けっきょく、そのように威嚇した相手からもお金を巻き上げて、それを国家の安全や防衛という自分の主義主張に注ぎ込むだけのこと。
 一人ひとりのエネルギーをどの方向にもっていくかによって、局面はいくらでも変わる可能性がある。選択は一つではない。ましてや、過去において大きな失敗をした選択を辿るバカは、もはや考えるという性質を与えられた人間ではない。
 この島国に対する貢献を、単純化された安全保障ではなく、いろいろな角度から一人ひとりが考えて実践するという難しい道を行くことからしか、この国は、新たな場所には出ていけないし、救われないと思う。
 
 この写真は、次号(www.kazetabi.jp)で使う齋藤亮一さんの写真。大人になった自分の中に、このシーンの中の子供の記憶がある。実際に同じ状況であったかどうかはわからないが、こういう状況に対して、大人になった今でも、ある種の憧れのようなものがある。大人は子供に向き合わなければいけないという評論家は多い。しかし、私は、大人が、子供に見せられる背中を持っているかどうかの方が、遥かに大事だと思う。