日本のこと

 「風の旅人」は、VOL.21(8月1日発行)で、一つの区切りとして、Vol.22から新たな展開をしていきたいと考えている。

 掘り下げていきたいテーマは、日本人のこと。今日、靖国問題日本海の測量問題、愛国心に関する教育問題、「国家の品格」などのベストセラーをはじめ、不吉な「ナショナリズム」が、それとはわかりにくい形で少しずつ水面上に現れてきているように感じられる。

 そういうものに対して警戒心を抱き、反対する論調もあるにはあるが、表層的で、ヒステリックで煽動的なスタンスなものであったり、現実と遊離した聞き飽きた正論であったりで、それらを繰り返し聞かされる方も、うんざりし始めている。

 私の考え方の根本にあるのは、この民主主義の時代における政治というものは、一握りの政治家の身勝手で行われているものではなく、国民一人一人の潜在的意識を反映するのだということ。その潜在的意識の中には、政治的無関心(になってしまう心)も含まれている。

 そして現在、政府が、あれこれ手を打ちながら国民の意識を統一していこうとしているのは、政府が戦争を欲しているというよりも、将来のこの国の資源問題が大きく関係しているのではないかと想像する。

 安定的に資源を確保しておくための現在の行動と、資源が少なくなる危機的な状況の時に、国民生活を管理しやすい状態にしておくために事前に手を打っておくことが、見えないところで重大政策になっているのではないだろうか。

 国家という抽象的な存在ではなく一つの企業体をイメージすればわかりやすい。企業の中枢部にいる人間は、企業を守るために、自らの使命感によって将来の危機に対する備えを第一に考えるもので、早め早めに必要な手を打っておこうとする。そうした使命を持っている人は、愛社精神が大事だと考える。だからおそらく、国家も同じ原理で運営されているのではないかと推測する。もちろん、メディアが報じているように国家や企業で腐敗しているところもある。しかし、大きな全体はその腐敗している部分によって回転しているのではない。腐敗している部分を攻撃することも大事なことだが、その部分ばかりに執着していると、そこが健全にさえなれば問題が解決できてしまうような錯覚を与えてしまうが、実際はそうはならない。本当に問題がある部分は、健全に見える大きな全体の構造そのものの中に含まれているのだ。

 単純に言うと、こんな小さな島国に1億2000万人もの人間が生きていて、24時間営業の店が国中に溢れ、賞味期限が切れたお弁当などが大量に破棄され、ペットボトルやスーパーのビニール袋など、一家から排出されるゴミの量が異常に多く、電気製品などの買い換えサイクルも早く、速度至上主義のために夜中に物資を輸送するトラックがぶんぶんと走り回るなど昼夜の区別のない状態を維持する資源をどのように確保するかと真剣に考えると誰しも気が遠くなるだろう。

 自由の名のもと、そうした身勝手がさらに膨張するとなると、「国家愛」の名のもとに不自由を強制することを政府が画策してもやむを得なくなってしまう。資源などに対して危機的な状況が実感できない状態だから、そうした政策に反対する人も多いけれど、もし本当にどうにもならない状態になったら、反対する人は少なくなる。その時には、メディアはこぞって政府の説得を応援するに違いないし、「現実がこうだからしかたないよ」と、現実に合わせて自分の方針を簡単に変えてしまう国民性ゆえに、たちまちその流れは巨大化し、その圧倒的に多数の現実支持者を相手に、全てが飲み込まれる可能性もある。

 だから、政府統制が必然になってしまう最悪の状態になる前に、私たちの生活の方向性を少しずつ修正していかなければならない。しかし、その修正が強制的なものになると、いたずらに反発を呼ぶだけだから、うまくいく筈がない。

 「自然な気持ちとしてそうした方がいいと思える新しい価値観」が少しずつ育まれていくことが大事なのではないかと思う。

 今日の報道の多くは、政府の政策を批判し、すぐその後に、日経平均株価の上昇や、日本経済に影響を与えるアメリカの右肩上がりの経済成長を歓迎する。こうした報道は、自らを省みることを嫌う人々に媚びて問題をすりかえているだけで、歪んだ消費経済を強化することにしかならない。だから、こうした番組の合間に、消費者金融の媚びたCFが大量に挿入される。

 「自然な気持ちとしてそうした方がいいと思える新しい価値観」をイメージするためには、自分の足元を見つめ直す必要があるのではないかと思う。

 といって、日本という国のことをあれこれ分析するのではない。先日の日記で「国家の品格」について考えを述べたように、「日本国」とか「国家」という言い方をしてしまうと、自分を省みることがなくなってしまう。実体として国家というものがあるのではなく、あくまでも一人一人の集まりなのだから、まずは自分と向き合って考えていくことが先決だろう。

 日本国のことをあれこれ言う前に、自分の中に、どのような形で日本が反映されているか考える必要がある。日本人特有の思考特性や行動特性は、自分のなかに何かしらの形で反映されている。風土の影響もあるだろうし、躾や教育の影響もあるだろう。躾や教育のあり方そのものが、日本人の思考特性の反映かもしれない。また、街を歩いている時に目にする様々なモノも、日本人の思考特性や行動特性が反映されており、意識せずに見ていても、無意識のなかに擦り込まれている可能性も大きい。もっと言うならば、日本語を使ってモノゴトを考えたり対話することじたいに、知らず知らず日本人特有の思考特性や行動特性を育む構造が含まれている可能性が大だ。

 そして、明治維新後の急速な国際化の流れ、大戦後のさらに急速な国際化の流れ、1400年も前にも同じように急速な国際化の流れがあり、今日のブランド品大好き現象のように、国際化と称される現象が起こる際に、いつも何かしら似たような傾向があり、そのような傾向が自然と生じてしまうところにも、私たち日本人の潜在的な思考特性や行動特性が原因していると想像できる。そう考えると、「今日の国際化時代に、日本人という狭い視点で考えるのは時代遅れだ」とする指摘する思考特性もまた、その延長線上にあることになる。

 意識しようがしまいが、日本人は日本人であることを避けて通れないように思う。ならば、日本人であることがどういうことなのか、自分事としてじっくりと省みる必要があるのではないか。

 そのことは、「日本国の一員であることを意識せよ」ということと同じベクトルにあるように受け止められる可能性があるが、私としては、まったく逆方向だと思っている。

 「日本国の一員であることを意識せよ」というのは、「一つの大きな集団のなかで無個性となり、全体の円滑な動きのなかの優秀な歯車となるべし」という思想だと思う。その思想の中では、自らがいったい何ものであるかを問う視点は不必要とされる。一人一人は、自分の頭で考えることなく、与えられた情報を忠実に受け入れるのみなのだ。

 そして、その状態は、国家統制が行われる以前に、現代の学校教育や、企業社会や、商品経済社会のなかに根深く整っている。右か左の違いがあるだけで、情報操作によって、集団的に盲目的に進み出す状態は、既にできあがってしまっているとも言えるのだ。 

 構造的にそうなってしまっている状態で、「危機」を扇動的に叫び行動を誘発することもまた、思考停止状態のなかの一連の行動にすぎないように私には感じられる。

 目に見えてわかりやすいところに囚われるのではなく、根本的なところに向き合っていくこと。

 一人一人が自分の足元を見つめ直し、「自然な気持ちとしてそうした方がいいと思える新しい価値観」を、自分の頭で深く考えてイメージし、育み、自分ならではの行動に結びつけていけるような環境づくりが何よりも大事で、表現メディアの責任はそこにあるのではないかと私は思っている。

 そして企業もまた、健全な運営を長期にわたって行うためには、そうしたスタンスを一人一人が持つことが大事だろうし、国もまた、きっとそうなのではないかと思う。