ここ数日書いていることは、先週に行ったワークショップとフィールドワークで訪れた京都の松尾大社、月読神社から、亀岡の聖域で説明したことを、あらためて文字化している。
昨日、蘇我と物部の戦いが、京都の月読神社を前線基地として、亀岡から丹波・丹後に展開していったと書いたが、その戦いの痕跡が、亀岡にはどのような形で残っているのか?
記紀には記録がないが、丹波・丹後地方に伝わる民間伝承、地元の縁起、神社仏閣の由緒書などに、聖徳太子の異母弟である麻呂子皇子による鬼退治の伝承が残されている。
麻呂子皇子の鬼退治伝承は、亀岡から始まって、最後、丹後の間人にある立岩に鬼を追い詰めるところまで続く。
麻呂子皇子の鬼退治の伝承と、蘇我と物部(穴穂部皇子を支援)の戦いの関わりは、蘇我と物部の戦いの時、麻呂子皇子によって鬼が追い詰められたとされる間人の立岩のところに、聖徳太子の母親の穴穂部間人が隠れていたという伝承から、想像することができる。
今でも、間人の立岩の正面に、穴穂部間人と幼い聖徳太子像があるのだが、聖徳太子は、蘇我と物部の戦いの時には蘇我氏の陣営で戦っているのだから、この母子像は、矛盾している。
普通に考えれば、穴穂部間人は聖徳太子の母親なのだから、聖徳太子の弟の麻呂子皇子が鬼を追い詰めた場所に隠れていたという伝承には、違和感を覚える人も多いだろう。
それはともかく、穴穂部間人が、実際にこの場所に隠れていたかどうかは定かではないが、そのような伝承が残っている理由は、この場所が、穴穂部間人の母親の小姉君の実家のある場所だったからだ。
つまり、麻呂子皇子が追い詰めた鬼というのは、穴穂部間人の同父同母の穴穂部皇子の背後勢力だった可能性が高い。
伝承では、麻呂子皇子の丹波・丹後における鬼退治は、亀岡の篠村から始まっている。
亀岡の篠村八幡宮は、足利尊氏が、鎌倉幕府打倒の旗揚げをしたところである。尊氏は、1万騎あまりの軍をこの地に集め、源氏復興を願う願文や鏑矢を奉納し、旗立楊に白旗を立て、まずは京都の六波羅探題を攻撃した。
麻呂子皇子は、この篠村のあたりで商人が死んだ馬を土中に埋めようとしているのを見て、「この征伐利あらば馬必ず蘇るべし」と誓をたて祈ると、たちまちこの馬は地中でいななき蘇った。掘り出してみると俊足の竜馬であった。
この場所を、「馬堀」としたのだが、亀岡には、今も、馬堀という地名が残っている。
麻呂子親王は、この馬に乗り、生野の里を通りすぎようとした時、老翁が現れ、白い犬を献上した。この犬は頭に明鏡をつけていた。親王はこの犬を道案内とした。
生野の里がどこなのかはわからないが、亀岡には犬飼川が流れている。犬飼川は、源流部で猪名川の支流の源流部に近く、猪名川は、清和源氏(多田源氏)発祥の地である多田(兵庫県川西市の)を流れ、瀬戸内海へと注ぐ。
亀岡の犬飼川流域は、古代、隼人という海人勢力の隼人の拠点だった記録が残っている。
隼人は、犬を飼って屯倉の管理などを行い、隼人が発する吠声(はいせい)という犬の鳴き声は、邪気を払い、場を清める力があると信じられていた。
麻呂子皇子の道案内となった「白い犬」は、この隼人である可能性が高いが、「隼人」という特別な名がつけられたのは奈良時代以降のことであり、麻呂子皇子の時代は、隼人という名ではなかった。しかし、この海人勢力は、呪術的な力を持つと信じられており、麻呂子皇子の道案内した白犬が、頭に明鏡をつけていたというのは、その呪術性を暗示しているのだろう。
そして、この亀岡の犬飼川沿いに鎮座しているのが、小幡神社である。
この神社は、亀岡駅の西3Kmほどの曽我部町に鎮座する延喜式内社で古い歴史を持つ。
この場所は、江戸時代の画家、円山応挙が生まれ育った場所で、社宝として円山応挙の絵馬が保存されている。
さらに、大本教の出口王仁三郎ゆかりの神社で、王仁三郎は幼少より小幡神社を信仰し、27才の時の高熊山での修行は、小幡大神の神示によるとされる。
小幡神社の元宮は、この高熊山の頂上にあったとされ、出口王仁三郎は、この高熊山の岩窟で、一切の飲食をたち、無言のまま静座する苦行を七日間にわたり続けたとされる。
また、現在の小幡神社の裏山の上には、16基の古墳が確認されており、そのなかの堺塚古墳は竪穴式石室を持つので、西暦500年以前の古いものである。
この小幡神社の祭神は、第9代開化天皇と、彦坐王、小俣王の三代であるが、史実と深く関係してくるのが、小俣王である。
小俣王は、子孫が当麻氏である。当麻氏というのは奈良県の葛城にある当麻寺を氏寺とする豪族であるが、この当麻寺の開基が、当麻皇子とされ、当麻皇子は、麻呂子皇子の別名である。
麻呂子皇子は聖徳太子の異母弟だが、彼の母親が、葛城の当麻勢力の娘だったのだ。
すなわち、亀岡の小幡神社の祭神が、小俣王であるというのは、その子孫に位置付けられる当麻氏、すなわち当麻皇子=麻呂子皇子が、小幡神社に深く関わっているということになる。
その理由は、この場所が「穴太」であることだ。
小幡神社のすぐそばに西国33箇所の穴太寺がある。この寺の創建は奈良時代初期とされ、由緒ある寺であるが、奈良時代、この穴太寺から、古事記編集に関わった稗田阿礼の生誕の地とされる稗田野神社まで、10kmにおよぶ古代都市遺跡だったことが、数年前の発掘調査でわかった。
奈良時代初期、この都市遺跡に穴太寺が作られたのは、鎮魂のためである。
何を鎮魂するのかというと、それ以前に、この場所であった大きな戦いの敗者の魂だ。それゆえ、稗田野神社のそばには、無念の思いで亡くなった霊を鎮める御霊神社も鎮座している。
「穴太」というのは、「穴穂部」と同じである。
大阪の八尾に穴太神社が鎮座しているが、この場所が、物部守屋とともに蘇我氏を中心とした勢力に滅ぼされた穴穂部皇子と穴穂部間人が生まれ育った場所だった。
近江にも石垣作りの穴太衆で有名な「穴太」という地名があるが、穴太というのは、古代、朝鮮半島からやってきた技術系の渡来人である。
穴穂部皇子や穴穂部間人というのは、その血統を引いている。彼らの母親の小姉君(欽明天皇の妃)が、そうだからだ。
しかし、血統というのは単純なものではなく、婚姻によって複合的なものとなる。
麻呂子皇子によって鬼が追い詰められた場所で、穴穂部間人が隠れていたという伝承が残る丹後の間人は、日本海三大古墳の一つ神明山古墳が築かれている場所である。
この場所は、竹野川の河口であり、竹野川流域には弥生時代からの遺跡が多い。その理由は、竹野川の河口域は、砂洲によって外海と切り離された潟湖になっており、良港であっただめだと考えられている。
そのため、ここを拠点とする大陸との交流が盛んだった。
また、竹野郡誌に竹野神社と隠岐の興味深い記載がある。 隠岐国島前という所に渡邊助蔵というものがあり、此者より馬が奉納されていたという。
つまり隠岐とのあいだに船舶による交通が早くから開けていた。そのため、 この場所に鎮座している延喜式内社の竹野神社は、航海者の崇敬が厚かった。
そして、この竹野の間人から竹野川を8kmほど遡ったところにニゴレ古墳がある。5世紀中頃の古墳とされるが、舟形木棺に埋葬され、頭位から完形の鉄製甲冑、左側から刀剣、足位から鉄鏃束がそれぞれ副葬品として出土した。さらに、海上交通を示唆する準構造船を模した船形埴輪が出土したことで注目されている。
すなわち、この地の古代豪族は、海人交通を担い、馬も獲得していた軍事能力に優れた勢力だったことが伺える。
「穴太」という技術系の渡来人が、この勢力と結ばれた。そこに婚姻でつながったのが蘇我稲目で、生まれた娘が小姉君だった。蘇我稲目は、この小姉君を欽明天皇に嫁がせた。
学校の教科書では、蘇我氏の繁栄は、蘇我稲目が二人の娘を欽明天皇に嫁がせて勢力を強めたからだと教えられるが、真相は逆で、新羅討伐を宿願とする欽明天皇には、小姉君の実家の軍事力が必要だったのだ。
小姉君の息子である穴穂部皇子が、敏達天皇の死の時、自分こそが王であるという態度をとり、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(後の推古天皇)を犯そうとする暴挙にでたのも、自分の背後の力があってこそであり、この穴穂部皇子を、物部守屋や天皇にしようとした。
そうすると、この強力な小姉君の実家に対抗できる勢力が何なのかということになるが、それが、穴穂部皇子・物部守屋打倒に動いた麻呂子皇子や聖徳太子の父、用明天皇の母親の堅塩媛の実家の勢力である。
この堅塩媛も、蘇我稲目の子で、欽明天皇に嫁いだ。
小姉君の母親の実家と同じく、堅塩媛の母親の実家の力を、新羅打倒を宿願とする欽明天皇が必要としたからである。
欽明天皇の時代は、小姉君の母親の実家の勢力と堅塩媛の母親の実家の勢力は、一つに束ねられていた。そして欽明天皇の世継ぎは、欽明天皇と宣化天皇の皇女である石姫皇女のあいだに生まれた敏達天皇だったため、堅塩媛と小姉君の実家勢力の対立を避けることができた。
しかし、敏達天皇が亡くなった時、この二つの勢力のバランスが崩れた。
小姉君の子の穴穂部皇子が、堅塩媛の子で敏達天皇の皇后の豊御食炊屋姫(後の推古天皇)を犯して、自分が王になろうとしたのである。
そのことが、穴穂部皇子を支援する物部守屋と、それに反対する蘇我馬子たちの戦いへと発展していく。
蘇我と物部の戦いは、単なる仏教をめぐる戦いではない。
この戦いの時、蘇我氏側の背後にいた堅塩媛の母親の実家の勢力が、何であるか?
歴史は、男の権力争いのように伝えられているが、古代、生まれた子の養育は母方の実家が担っており、当然ながら、その子は母親の実家との結びつきが強い。そのことを踏まえないと、古代の真相が見えてこない。(つづく)
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