第1287回 古墳の形と、国譲り神話と、鬼退治の関係。

 第1285回のブログで、前方後方墳前方後円墳の違いを、弥生時代「方形周溝墓」と「円形周溝墓」の違いの延長と捉えて説明した。一人の王が軍事や祭祀など全権を担う統治システムと、複数人物による分権統治システムの違いではないかという仮説を立てて。

 そして6世紀に入り、全国的に前方後円墳前方後方墳が作られなくなり、近畿では奈良盆地の丸山古墳(第29代欽明天皇陵と考えられる)が突出した巨大さを誇り、それ以外の地域では、関東と九州だけに前方後円墳が多数作られる状況となったが、それは、この時期になってようやく、奈良盆地を中心とする勢力の統治範囲が、九州と関東以東を除く地域に及んだことを示すのではないかと考えた。

 従来のヤマト王権説だと、3世紀くらいからヤマト王権の支配領域が少しずつ日本中に拡大していき、前方後円墳がその支配領域を示していると説明されるが、当時の日本は統一文字を持っておらず、広範囲に渡る統治のためには、法令などの整備や、税金を徴収するにしても記録文章が必要であり、そうした文字を持たない統一国家は、世界中を見渡しても存在しえなかった。さらに、4世紀後半くらいまでの日本は騎馬も持たなかったとされており、だとすれば、山に覆われた広大な日本全体を軍事的に統治し続けるのは困難だった思う。

 実際に、ヤマト王権の直轄地とされる屯倉(みやけ)は、5世紀には畿内に限られており、全国的に拡大されたのは、第26代継体天皇即位後の6世紀のことである。

 なので、前方後円墳の全国的な広がりは、ヤマト王権の支配地域の拡大というよりは、弥生時代の円形周溝墓の延長としての前方後円墳が象徴する統治の仕方(一人の王が全権を担う形で、その地域を治める)の普及であり、それに対して前方後方墳は、複数の埋葬者がいた弥生時代の方形周溝墓の延長で、軍事と祭祀など役割分担による統治の仕方を表しているのではないかという考察が、第1285回のブログで書いたことだった。

 そして、次なる段階の7世紀になると、古墳の形に大きな変化が生じる。

 大王級の墓が、すべて方墳となるのだ。

 聖徳太子の父とされる第31代用明天皇の方墳と、第33代推古天皇の方墳は、大阪の太子町に築かれ、第32代崇峻天皇陵は、明治になってから宮内庁桜井市倉梯岡上陵としたが、学者のあいだでは、桜井市にある大型方墳の赤坂天王山1号墳であるというのが定説となっている。

 そして、第34代舒明天皇の最初の墓は、2017年の調査で、明日村にある日本最大級の方墳である小山田古墳である可能性が高まった。

 第30代敏達天皇に関しては、宮内庁が太子町の前方後円墳である太子西山古墳としているが、考古学的に疑問が多く、学者のあいだでは、太子町の長方形墳の葉室塚古墳が真陵であろうとする説もある。

 いわゆる聖徳太子の改革として後の時代に評価される時期、第31代(もしくは第30代)から第34代の大王の墓が、方墳になっている。

 そのことについて専門家は、方墳というのは、その時代に勢力を誇った蘇我氏系の王の墓だと安易に整理してしまっている。

 しかし、舒明天皇蘇我蝦夷が擁立に関わっているものの蘇我氏との血縁は全くない。

 この時代に築造された大規模の方墳が存在する場所において、興味深く、不可思議な事実がある。

 第1285回のブログでは、前方後方墳が築かれた場所を地図で示した。

 その中で、3世紀という古墳出現期の古墳としても最大規模の二つの前方後方墳である京都の向日山に築かれた元稲荷古墳と神戸の西求女塚古墳が、同じサイズの同じデザインで、しかも、近隣に縄文時代の石棒や弥生時代の銅鐸など古代からの祭祀道具とか関わりの深い場所があることを伝えた。この二つの古墳と日本最古の前方後方墳の近江の神郷亀塚古墳が、冬至の太陽の日没ライン上に配置されているということも含めて。

 さらに、神戸の西求女塚古墳から冬至の太陽の日の出ライン上に、三角縁神獣鏡などが大量に出土した葛城の新山古墳(かぐや姫伝承の里)が築かれ、上記の4つの前方後方墳のあいだが全て50km間隔であること。その上、葛城の新山古墳から冬至の太陽の日没ライン上に日本最大の西山古墳(天理市)があり、そのラインの中間に、鏡作神社(田原本町)があり、この神社の神宝の鏡が愛知県犬山市前方後方墳である東之宮古墳から出土した鏡と同じ型であるなど、前方後方墳の配置に関しては、かなり規則性に基づいていることが地図上の事実から明らかに伝わってくる。

 その地図に、7世紀の大王クラスの方墳の位置を重ねたのが、下の地図だ。

 これを見るとわかるが、興味深いことに、前方後方墳の配置と、7世紀の大王クラスの方墳の配置の関係に、規則性が見られる。

 黒いマークは、3世紀からの古い時代に築かれた前方後方墳(島根の松江だけが、かなり遅く6世紀になってから前方後方墳が築かれた)であり、紫のマークが7世紀前後の大王クラスの方墳である。

近畿の部分を拡大すると、こうなる。

 紫のマークが7世紀に築かれた方墳だが、西の端が、大阪の太子町の用明天皇陵と推古天皇陵と敏達天皇陵の可能性の高い葉室塚古墳の集中地帯、真ん中が明日香村で、舒明天皇が最初に埋葬された小山田古墳(右)と、被葬者が不明だが、その規模などから大王クラスと考えられ舒明天皇の妻である斉明天皇陵の可能性も指摘されている岩屋山古墳(左)がある。そして、東側が奈良県桜井市崇峻天皇陵だ。

 前方後方墳は、冬至夏至のラインに添って配置されているが、7世紀の大王の方墳もまた、そのラインと平行して配置されている。

 また、明日香村の岩屋山古墳は、下段部は方形で、上段部は現在は存在しないが八角形であったと考えられており、舒明天皇が改葬された段ノ塚古墳と同じだ。 

 つまり、段ノ塚古墳と岩屋山古墳という、天智天皇天武天皇の父母にあたる大王の陵墓は、下段が方墳、上段が八角墳という二つの形式の融合タイプで、次の時代の大王クラスの墳墓である八角墳とのあいだを繋いでいるとも言える。

岩屋山古墳の石室

飛鳥の石舞台古墳は、7世紀の大王クラスの方墳で、蘇我馬子の墓とされる。

 こうして見ると、古墳の形は、「蘇我氏系」や「物部系」と氏族の違いを特徴付けるものではなく、弥生時代の方形周溝墓と円形周溝墓の違いのように、統治の在り方と関わっているように思われる。

 聖徳太子の時代の古墳で、方墳ではなく円墳であるが、大王級の豪華な副葬品が出土して話題になったのが、斑鳩にある藤ノ木古墳で、ここは、穴穂部皇子の墓の可能性が高いとされる。

藤ノ木古墳

 この穴穂部皇子という人物が、歴史の大きな分岐点にいる。

 学校の教科書では、飛鳥時代蘇我氏物部氏の戦いは、仏教をめぐる対立から生じたと単純化されてしまっているが、この戦いの本質は、そんなところにはない。

 この対立のキーマンは、穴穂部皇子である。

 穴穂部皇子は、第30代敏達天皇崩御した時の葬儀で、「何故に死する王に仕え、生きる王である自分に仕えないのか」と言ったとされる。

 その後、蘇我馬子が推す用明天皇が即位したため、穴穂部皇子物部守屋と結託した。そして、炊屋姫(敏達天皇の皇后で、後の推古天皇)を犯そうとした。この一連の暴挙のなかで、蘇我馬子は、「天下の乱は近い」と嘆いたとされる。

 用明天皇は、即位後1年で病気になり、さらに翌年の587年に崩御してしまったので、物部守屋穴穂部皇子天皇に立てようとして、炊屋姫(推古天皇)を奉じた蘇我馬子とのあいだに戦いが生じた。この戦いで、物部守屋穴穂部皇子も滅ぼされることとなった。

 この流れからわかるように、蘇我と物部の戦いは、仏教をめぐる対立というよりは、穴穂部皇子天皇にするかどうかの戦いだった。

 穴穂部皇子は、敏達天皇の死後、なぜ、炊屋姫(後の推古天皇)を犯そうとしたのか?

 皇后を犯せば、次の皇位が約束されるわけではない。

 穴穂部皇子推古天皇も、そして用明天皇も、第29代欽明天皇の子である。しかし、母親が違った。

 穴穂部皇子の母親は小姉君で、用明天皇推古天皇の母親は堅塩媛だった。どちらも蘇我稲目の娘であるが、小姉君と堅塩媛は、母親の出身が違っていたのだと思われる。

 その証拠はないのだが、洞察するための鍵はある。聖徳太子の母親の穴穂部間人もまた小姉君の娘であり、蘇我と物部の戦いの最中、穴穂部間人は、京都の丹後地方の間人に隠遁していた。その場所が、母親の小姉君の里だったからだと考えられている。

 そして、この丹後の間人には、もう一つ重要な伝承が残っていて、それは、堅塩媛の子である用明天皇の皇子である麻呂子親王が鬼退治を行った時、その鬼を追い詰めた場所とされているのだ。間人の海岸にある安山岩の柱状列石の巨岩である立岩が、鬼を封じ込めた場所ということになっている。

 この立岩のそびえる海岸に、穴穂部間人と、幼い聖徳太子の像が立っている。

 麻呂子親王が鬼を追い詰めた場所が、穴穂部間人と穴穂部皇子の母親である小姉君の里なのである。つまり、鬼と小姉君の実家が重なっている。

 堅塩媛の血を引く麻呂子親王が、小姉君の血を引く穴穂部の勢力を攻撃したことが、鬼退治の伝承となっており、この戦いは、蘇我氏と、物部氏穴穂部皇子連合の戦いでもあった。

 これは二つの勢力のあいだの単純な権力争いではない。なぜなら、蘇我馬子は、穴穂部皇子を滅ぼした後、穴穂部皇子の同腹の弟にあたる崇峻天皇を即位させている。しかし、この崇峻天皇が暗殺され、蘇我馬子が推す推古天皇が即位したため、この一連の出来事は、横暴なる蘇我馬子の陰謀によるものだと整理されてしまっているのだ。

 しかし、推古天皇の時代、聖徳太子蘇我馬子が推し進めた政治は、17条憲法を通して、党派を作ることを否定し(第1条)、物事は独断で行ってはならない(第17条)と敢えて強調される政治であり、むしろ、和を尊ぶものだった。

 蘇我氏天皇の側近になったきっかけは、蘇我稲目が、自分の娘の堅塩媛と小姉君を欽明天皇に嫁がせたことだが、何の実績もない一豪族が、二人の娘を簡単に天皇に嫁がせることができるとは思えない。

 蘇我稲目は、大きな勢力を背景に持つ女性と結ばれ、その娘が堅塩媛と小姉君であったのだろう。そして、二人の娘の母親は、それぞれ異なる勢力の出身であった。

 第29代欽明天皇は、この二つの勢力出身の娘と結ばれ、それらの勢力を味方につけることで、300mを超える当時としては圧倒的な大きさを誇る前方後円墳の丸山古墳に象徴される権力を身につけた。

 しかし、欽明天皇の死後は、その二つの勢力のバランスが崩れやすい状況となった。 

 欽明天皇の子供には、堅塩媛との子である用明天皇炊屋姫(後の推古天皇、小姉君の子である穴穂部皇子崇峻天皇、どちらの娘の子でもない敏達天皇がいたが、敏達天皇が第40代天皇として即位し、炊屋姫を皇后とした

 そして、その敏達天皇が亡くなった時、穴穂部皇子が、「自分こそが王だ」と主張し、炊屋姫を犯そうとした。小姉君の実家の勢力を背後に持つ穴穂部皇子が、堅塩媛の実家の勢力を背後に持つ炊屋姫を犯して我が物とし、二つの勢力を自分の元に置くことを企んだ、と考えられないだろうか。

 そのため、その暴挙を阻もうとする蘇我馬子の勢力と対立が起き、蘇我と物部の戦いへと発展した。その時に、麻呂子親王が鬼退治という形で、物部と穴穂部に関わる勢力を丹後半島の端へと追い詰めた。

 穴穂部皇子を滅ぼした後、蘇我馬子は、同じ小姉君の子である崇峻天皇天皇とした。

 蘇我馬子にとって小姉君と堅塩媛は母親違いの兄妹で、崇峻天皇を要にして両勢力の調整を模索したが、最終的に崇峻天皇は暗殺された。蘇我馬子の横暴として後世に伝えられているが、他の豪族たちも納得のうえとも言われ、崇峻天皇に、穴穂部皇子に似た何かしらの問題があった可能性が大きい。そうでないと、崇峻天皇の殺害後に蘇我馬子が、聖徳太子推古天皇とともに、”党派を作ることや独断を否定する”政治を行うとは思えないのだ。  

 穴穂部皇子の穴穂部というのは、もともとは、ヤマト王権に奉仕する大王直属の集団であり、とくに近畿圏に、いくつかの拠点があり、賀名生とか、穴太などとも表記される。

 穴穂部間人の出身地とされる大阪府八尾市や、京都府亀岡市滋賀県大津市などが代表的な場所だ。もともとは、渡来系の技術者集団だったと言われる。

 穴穂部皇子の墓とされる斑鳩藤ノ木古墳の副葬品のなかに、金銅製鞍金具が見つかっており、これは、鮮卑式のものとされる。鮮卑というのは、中国において北魏を建国した北方系の騎馬民族である。そして、この北方民族は、漢民族からは「胡」と呼ばれていた。

 そして偶然なのか必然なのか、麻呂子親王が退治した鬼の中に、「胡」という名前が見られる。

 中国北方系の民族の日本への渡航は、古来、九州ではなく、若狭湾周辺から新潟にかけてだ。(奈良時代以降、高句麗が滅んだ後に興隆した渤海国との交易で使われた港は福井県敦賀だった)。

 もしかしたら、穴穂部皇子の背後には、この勢力がいたのかもしれず、彼の母親の小姉君の里が若狭湾に面した丹後の間人であることや、この場所に鬼が封じ込められたという伝承とつながってくる。

 そして、麻呂子親王とともに鬼を退治した勢力が何だったのかというと、それは、穴太という名前が今も残る京都の亀岡において、蘇我と物部の戦いの後の7世紀初頭、突然多く作られた石棚付き石室を持つ古墳の特徴から、西瀬戸内海や、和歌山の紀ノ川に拠点を持つ海人であった可能性が高い。石棚付き石室を持つ古墳は、これらの地域に特徴的な古墳だからだ。

 穴太という名の残る亀岡は、もともとは穴穂部皇子を支える勢力の拠点で、この場所から、北の丹後半島へと追い詰められていったのではないか。

 欽明天皇の父親の第26代継体天皇が即位する前も、皇位にブランクが生じた時、大伴氏や物部氏が次の天皇に推挙したのは亀岡を拠点とする倭彦王であり、倭彦王が、陰謀を警戒して逃げ出さなければ、皇位の正当が、継体天皇の血統ではなく亀岡の豪族に血統になる可能性もあった。

 亀岡の地は、保津川渓谷の反対側が京都市の嵐山から松尾になるが、松尾に鎮座する月読神社は、壱岐島から畿内にもたらされた最も古い月読神社である(487年創建)。月は潮の満ち干を支配するが、瀬戸内海は、鳴門の渦潮をはじめ潮の干満の影響が極めて大きな内海であり、潮を読まずして航海ができなかった。海人と関わりが深い物語の主人公である浦島太郎は、月読神の子孫という設定であり、月読神は、海人にとって大事な神様であったと思われる。

 京都の京田辺市に鎮座する月読神社も、海人の隼人の拠点であり、隼人舞発祥の地とされる。

 奈良県五條市吉野川沿いに阿田という場所があり、ここも隼人の居住地であったが、京都の月読神社の鎮座地(現在の場所は洪水で移されたところで、もともとは、桂川西芳寺川の合流点だった)の地名は、今も、神阿田である。

 つまり、京都の月読神社は、明らかに海人と関わりの深いところだった。

 この月読神社の境内摂社として、聖徳太子社と、御船社が鎮座しており、御船社は、国譲りの物語の副将である天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を祀っている。聖徳太子社が鎮座していることから、おそらくこの場所が、亀岡を拠点とする穴穂部の勢力を追討する海人部隊の前線基地だった可能性がある。

 そして、天鳥船神が、この月読神社の境内に祀られているのは、この戦いが、いわゆる「国譲りの戦い」であったからだ。

 古事記の中で、オオクニヌシに国譲りを迫るタケミカズチの言葉は、

 「なんじがうしはける葦原中国は、天照大御神の御子が知らす国であると任命された。汝の考えはいかがか?」

 あなたの国は、「うしはく」だが、これからは「しらす」の国にするために、自分が高天原の使者としてやってきた、ということをタケミカヅチは言っている。

 「うしはく」というのは、強い者が独占して国を治めることで、「しらす」というのは、「知らしめる」で、情報の共有化と、役割を定め、協力して国を治める意味だと解釈されている。

 蘇我と物部の戦いによって、穴穂部皇子物部守屋の勢力が打ち負かされた後、大王の墓は、方墳になる。

 そして、その7世紀は、九州や関東でも、前方後円墳にかわって、方墳が増える。

 おそらく、この時代の方墳は、憲法17条で示されている精神が反映されたもので、独断と徒党を否定する政治体制を象徴しており、それは、弥生時代の方形周溝墓や、その延長上にある前方後方墳と同じだと考えられる。

 国譲りの物語の中でタケミカヅチオオクニヌシに告げる「しらす」の思想を表明するものが、方墳なのだ。

 古事記というのは、推古天皇の時代までが描かれているのだが、古事記の中の「国譲り」の話は、ヤマト王権以前に遡る出来事ではなく、推古天皇の頃の政治改革のことを象徴的に物語っているのだろう。

 つまり、この物語で国譲りを迫られる出雲というのは、穴穂部皇子に象徴される独断と徒党で行われる統治であった。過去においては、オオクニヌシの国づくりに象徴されるように、地域をまとめて発展させるうえで、独断的な強いリーダーシップが求められた時代もあった。

 弥生時代が終わり、前方後円墳の数が全国的に増えていく段階は、いわゆるヤマト王権の時代と言われているが、その時は日本全土がヤマト王権によって統一されていたわけではなく、各地域は、地域ごとの有力なリーダーが、「うしはく」という、強い者が全ての実権を担う方法で治めていた。その時代こそが、オオクニヌシの国づくりの時代なのだ。

 前方後円墳の後円部分の竪穴式石室は、権力者が死んで天に上って神になって、その地域を守るという思想が反映されたものである。ゆえに、地域を守る神は地域ごとに異なる。そうした「宗教」の肥大化が古墳の巨大化であり、とくに祭祀を行う前方のスペースが、時代とともに大きくなっていった。

 それに対して、蘇我馬子が政治の中に組入れようと努めた仏教の思想は、「仏の前に平等」であった。「うしはく」という状態が全国的なものになると、それぞれの地域が異なる神を奉じて互いに戦う状態になる。そうした個別の神を無力化するためには、仏の前に平等と説く仏教が叶っており、蘇我馬子や、聖徳太子は、その仏教の力を「しらす」の国への移行に活用しようとしたのではないか。

 聖徳太子の時代、方墳がメインとなった大王の古墳は、646年、大化の改新に含まれる薄葬令によってさらに規模を縮小することが求められたが、8世紀初頭、律令制の始まりの段階において、八角墳という世界でも日本だけの特殊な形の古墳が大王の古墳として採用された。

 八角形は、四方八方に等しく行き渡る律令制の精神を象徴しているのだろうか?

 これは、聖徳太子の時代からはじまった「しらす」の国への移行の到達点だった。

 しかし、その頃から、天皇崩御した際には仏教によって弔われるようになり、巨大な祭祀空間および政治的シンボルとしての「古墳」は消滅し、ただの墳墓になった。

 

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