第1288回 時代ごとに変わる人間のコスモロジーと、歴史との向き合い方

今を生きる人にとって、「歴史」が、自分に関係ないもの、もしくは単なる知的好奇心の対象(趣味)、および大河ドラマ鑑賞などの娯楽になってしまったのは、歴史と向き合う時に、人間のコスモロジーのことが、あまり考えられていないからではないかと思う。

 コスモロジーは、天体のことに限らず、自分たちの周りの世界の秩序構造の捉え方のことで、宗教や哲学も含まれ、人生観もまた、ここに入ってくる。

 地動説や天動説もそうだし、死を単なる物質的終了とみなすのか輪廻転生を信じるのかも、コスモロジーの違いにすぎない。

 動物行動学者の日高敏隆さんは、それをイリュージョンと呼んだ。

 人間も、犬も鳥もコウモリも、自分が認知する範疇で、世界のことを、それぞれの形で思い描いている。

 しかし人間が他の生物と大きく違うところは、時代によって、そのイリュージョンの変遷があることだ。

 一人の人生においても、経験によって物の見方が変わってくる。物の見方が変われば、行動も変わる。この人間的特徴によって、人間の未来も変わってくる。

 「鬼畜米英」というイリュージョンは、日本人に最悪の事態をもたらした。また、ヨハネ至福千年説を熱狂的に信じていた人々が西暦1000年を過ぎても最後の審判で滅ぼされなかったことに歓喜し、サンチャゴ巡礼の旅がブームになり、この民族的大移動が、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンスの契機となり、近代化へと続く道のりとなったように、イリュージョンが、人間世界を変えていく力になる。

 だから人間は、自分たち人間のイリュージョンが、時代環境によって変わってしまうということを理解しておく必要がある。

 歴史を探求することの意義は、ここにあるはずで、反復運動のように過去を確認して整理することではない。

 1400年も昔の話なのに、歴史好きでなくてもなぜかよく知られていることとして蘇我氏物部氏の戦いがあり、一般的には、仏教の導入をめぐる戦いとして整理されている。

 当時の日本社会に起きていたことを深く考えることもなく、飛鳥時代蘇我と物部の戦いを仏教をめぐる対立として記憶することが歴史の学習になっているのだが、こんな歴史学習が、情報過多の時代に無意味なものになってしまうのは、ごく自然なことであり、根本的に間違っている。

 仏教は、一つのコスモロジーである。そして、そのコスモロジーが、政治的に有効な時もあったし、時の権力者に危険視されたこともあった。

「仏の前に誰しも等しく平等である」という、かつての仏教のコスモロジーは、地上の権力者の威信が統治の要になっている時代には危険思想だし、このコスモロジーが統治のために必要な時代も、過去にはあった。

 世界的に見れば、仏教が国家統治の要になった国として、カンボジアにアンコールトムが築かれた12世紀後半のジャヤーヴァルマン7世の時があった。アンコールワット遺跡の多くは、ヒンドゥー教関係だが、アンコールトムは仏教寺院であり、寺院の真ん中に慈悲深い仏の大きな顔があることが有名で、この顔は、ジャヤーヴァルマン7世の顔に似ているとされる。

 この時代、クメール王朝は歴史上最強で、シャム(タイ)からチャンパ(ベトナム)を含むインドシナ半島全域に領土を拡大していた。

 つまり、この領土内には、異なる民族と宗教が多く混在しており、ジャヤーヴァルマン7世は、それまでのクメール朝の伝統的宗教であったヒンドゥー教ではなく、「仏の前に平等である」というコスモロジーの仏教を国家宗教として統治を行った。

 これと似たケースが、中国史上で最も仏教文化が花開いた北魏だった。北魏は、西暦386年 - 534年と、日本の飛鳥時代の少し前の中国王朝だが、その前の中国は、三国時代から五胡十六国と戦乱の絶えない時代で、その中から北方の騎馬民族だった鮮卑族が、中国の北半分を統一して築いたのが北魏という国だった。

 北魏は、少数の民族が、多数の異なる民族を治めなければならないという状況の中で、仏教を活用し、雲岡や龍門の石窟寺院や莫高窟など中国仏教の傑作を築いた。五胡十六国と象徴される異なる民族たちは、それぞれの神々を求心力の要としており、どの神が上位かという争いにならないよう、北魏は、仏の前に平等とする仏教を国家宗教としたのだ。

 北魏の後に続く隋や唐といった、飛鳥時代以降の日本と関わりの深い統一王朝も、漢民族ではなく、鮮卑族が政権を担った国だ。

 日本の飛鳥時代もまた、これと同じような状況があったとは考えられないだろうか?

 この飛鳥時代、大王の墓が、それまでの前方後円墳から、すべて方墳に変わる。

 これについて、現在の歴史学の権威は、「方墳は、蘇我氏系の王の墓」だと処理してしまっている。

 蘇我馬子の墓と考えられている飛鳥の石舞台古墳が方墳であり、推古天皇用明天皇など、蘇我氏系などとされる天皇の墓が方墳だからだ。

 しかし、蘇我氏という一血族の墓が方墳で、蘇我氏の影響力が強かった時代だから、天皇の墓も方墳になった、などというのは、あまりにも安易な考えで、方墳と前方後円墳の違いは、単なる様式の違いではなく、コスモロジーの違いによるものだと考えられる。

 そのコスモロジーは、蘇我馬子聖徳太子推古天皇の時代の17条憲法に反映されている。

 そのあたりの事情を、第1287回のブログに書いた。

 日本には16万基とも言われる膨大な古墳があり、その多くが現在でも形を留めている。こんな国は世界中どこにもない。

 そして、宮内庁天皇陵としているところは残念ながら発掘調査ができないけれど、それ以外の、古代のタイムカプセルのような古墳の発掘調査が次々と行われていて、1500年以上も前の歴史の痕跡を私たちに見せてくれる。

 とくに、ここ数十年の発見は、これまでの歴史の通説を覆す可能性のあるものが多い。

 しかし、その膨大な考古学的成果や、その意義が、現在を生きる私たちに伝わっているとは思えない。

 次々と新たな歴史的事実が発見されても、それらをどう整理し、ストーリーにしていくかという大きな課題があるが、アカデミズムの権威が、従来の歴史観のうえにあぐらをかいているかぎり、新しい視点は、アカデミズムのなかで、陽が当たる道にはならない。

 私は、これまで学校などで教えられてきた歴史で、どうにも納得できないことがある。

 それは、例えば「ヤマト王権」とか「邪馬台国」のことだ。

 一般的に、私たちは、古代、九州にあったか奈良にあったかで論争が続いている邪馬台国ヤマト王権によって日本が統一されていたかのように教えられている。

 しかし、例えば中国にしても、今日の中国領土になったのは、清の時代である。清は、1616年満洲に建国された国で、漢民族ではなく満州人によって、現在に至る広大な国土が支配された。

 それまでの中国王朝は、現在の新疆ウィグル自治区チベットも領土ではなかったし、敦煌くらいが、北方の騎馬民族とのギリギリの境界線だった。

 中国王朝の力が強大になった時に、国境線を少し西に広げることが何回かあったが、長く統治することはできなかった。

 日本は、国土は決して広くはないが、かなり細長い国であり、しかも山に覆われ、古代において、日本列島の端から端まで軍事的に、継続的に統治できるとは思えない。

 もちろん、軍事的に勢いがある時は遠征隊が出かけていき、捕虜を連れ帰ることがあったかもしれない。日本書紀には、ヤマトタケル蝦夷の捕虜を連れ帰り、朝廷の守護にあたらせたという記述もある。それが後に「佐伯」となったと記録されている。”さわぐ”が”さえぐ”になり、「さえき」になったそうだ。私の祖先は、蝦夷をルーツに持つ俘囚かもしれない。

 それはともかく、いくら蝦夷を一時的に武力攻略したとしても、畿内から遠く離れた東北全土を、継続して統治していくのは簡単ではない。

 日本の古代は、5世紀前半に高句麗と戦って大敗するまでは、騎馬もなかったとされている。16世紀にスペインによってインカ帝国が滅ぼされた時、インカの人々は、馬と一体になった人間を怪物のように恐れ、しかも、銃と弓矢という殺傷力の差が明確だった。

 しかし、いわゆる邪馬台国ヤマト王権の興隆期とされる時期には、鉄器と石器の差はあったかもしれないが、この差が、それほど大きなものだったとは思えない。

 なぜなら、現在の歴史学では、日本の鉄などの金属資源は、8世紀の奈良時代に鉱山開発が行われる前は、自前の資源を持たず、全て輸入したものを加工していただけ、とされているからだ。

 だとすれば、日本と大陸のルートは九州だけでなく、山陰、北陸、新潟など様々であり、ヤマト以外、どこの地域でも、交易によって最新技術や鉄資源などを入手できたということである。

 そして、何よりも、統一文字を持たずに、列島の端から端を果たして統治できるのか、という疑問がある。

 広大な領土を持つ統一国家を維持するためには、法律を決めたり、物事を記録する必要性がある。

 秦の始皇帝は、春秋戦国時代の後に国内を統一するにあたって、文字の統一を重視した。中央集権の政治体制のためには、官僚統治が必要であり、法律の整備や、国家単位での貨幣や計量単位の統一が必要だった。

 そうしないと、収税もうまくできない。

 ヤマト王権が日本を支配していたとすると、どうやってそれが可能で、その支配というものが、どういうものであったかを説明しなければならない。

 中国においては、3500年前に殷王朝が甲骨文字を発明したが、この文字は神聖文字で、占いなどに用いられ、ローカルな一地域の宗教的な道具であった。

 この甲骨文字を、異なる地域の豪族たちの連絡記録として活用するというアイデアを生んだのが、次の周王朝だった。

 周は、もともとは殷に属しており、殷の文字文化を身につけていた。周王朝は、当初、血縁者を地方に派遣し、国づくりを行わせ、さらに地方の有力者も、それぞれ国づくりを行い、そうした各地の国の宗主国として周王朝が存在していた。ゆえに、周は、統一王朝ではなく、日本でいえば、室町時代の足利氏と地方の豪族(後の戦国武将)との関係のようなものだった。

 だから、周の時代の後半、日本の戦国時代のように、各地域の国と国が激しく争う春秋戦国時代となった。その混乱から国を一つにまとめたのが秦の始皇帝だが、その統治のために法律の厳格な運用を行った。そこで必要だったことが、文字の統一だった。

 文字の統一がなければ、統一国家を維持できない。

 日本において、文字の統一が行われはじめたのは、5世紀末頃に発明された訓読み日本語の使用以降のことである。

 王権でいえば、第26代継体天皇あたりが、その境だろう。

 継体天皇は、それまでの天皇とは血統が異なり、急遽、天皇に推挙された人物である。即位後に、新羅征伐のために大軍を送る指揮をとっているので、同じ時期、新羅という国家が成立したことが、日本の国家統一の機運となったのではないかと思う。

 ならば、それ以前の、いわゆるヤマト王権とされる時代は、どうだったのか? 

 この時代は、文字がなかったため歴史的には空白の時代だ。

 8世紀になって、古事記や日本書記で、過去のことが記述されているが、それを元に、歴代天皇の治世の時期を推定したりしているが、口承で、年代を伝えらえるとは思えない。そもそも、暦の記録がなく、どのように時の推移を把握していたのかもわからないのだから。

 統一文字がなかった時代は、勢力の差はあれども、地域ごとに異なる豪族が治めていたと考えた方がいいのではないだろうか。河川の治水工事をはじめ、地域の中の人々の共通の課題を解決するために。  

 そして、他の地域の勢力との間に、時には争いもあっただろう。

 これまでの歴史学では、ヤマト王権と、地方の豪族を、主従の関係で捉えてきた。

 だから、前方後円墳前方後方墳の関係も、前方後円墳ヤマト王権という主人と関わる墓で、前方後方墳が、従の立場にある者の墓だと整理されてきた。

 私は、いろいろな角度から考えて、この二つの違いは、コスモロジーの違いではないかと思っている。

 この二つのタイプの古墳の謎について探求するうえで、骨組みとなる考え方を、自分なりのフィールドワークに基づいて書いたのが、第1285回のブログだ。

 これが正しいなどと言うつもりはないが、これまでの頑迷なヤマト王権論に固執していると、次々と新しく発見される膨大な考古学的成果を、どういう文脈で整理すればいいかわからないままになってしまうのではないかと思う。

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